通知音は、最初に医療室の壁から返ってきた。次に配給列の端末、整備班の袖端末、外縁睡眠膜の共有画面。空だった総会場へ、人の足音がばらばらに戻り始めた。
イソは発言台の前に立ったまま、壁面の二つの数字を見ていた。走査準備まで十三分四十秒。外縁通路の温度上昇、三・七度。どちらも止まらない。
「参加指定者、到着順に端末認証をしてください。代理投票はなしです」
ラオンの声が天井スピーカーから流れた。いつもの会議通知より速く、息継ぎが浅い。医療、農業、整備、配給の代表がまず前列へ座った。患者家族、高齢者介助、清掃、教育補助の発言者も呼ばれ、最後に抽選で選ばれた十二名の名前が壁に並ぶ。
呼ばれた人々は、ほとんどが疲れた顔をしていた。外壁補修班の男、低体温から戻った老人の娘、配給列で何度も声を荒げた女性、清掃担当の若者。彼らは選ばれたことを誇る顔ではなく、ここで押しつけられる重さを嫌がる顔で椅子に沈んだ。配給を減らされ、疲労と不安が限界に達している彼らにとって、これ以上の決定を下すことは苦痛でしかなかった。
ドヒョンは最後に入ってきた。短く刈った髪の下で、顎の筋肉だけが硬く動いていた。彼の後ろにはテソクが立ち、警備タグをつけたまま投票端末を冷ややかに見張っている。
「これは正式総会ではない」
ドヒョンが低く、しかしよく通る声で言った。
イソは振り向かなかった。視線は壁のタイマーに向けたまま答える。
「正式総会を待つ時間がありません。指揮部が総会を経ずに熱封印装置を再開したため、同じく緊急手続きで記録に残します」
「記録に残れば、何でも正当化されるわけではない」
「正当化ではなく、責任の所在です」
短い応酬のあいだにも、壁面に映し出された白いタイマーは容赦なく十二分台へ落ちた。焦燥感に煽られ、会場に広がるざわめきが一段強くなる。イソはセユンへ目を向けた。
「農業案から」
セユンは壁面に外縁隔離菌糸農場の図面を映した。背の高い体を少し丸め、端末を握る手に力が入っている。
「中心部の洞窟は使いません。入口の外側、外縁通路手前に隔離棚を置きます。菌株K-四を主に、F-二は予備。火星側の亀裂、床面、壁面へ直接触れさせないよう、棚を浮かせて配置します。培養棚は三列から四列へ修正可能です。自然廃熱が十度台を保てば、五日目の薄層回収量は中心部熱処理案の半分弱まで戻せます」
「半分弱?」
抽選席の一人が笑うように言った。
「その半分弱で、俺たちの腹がふくらむのか」
セユンは目を伏せずに答えた。
「ふくらみません。標準配給を戻せる量ではありません。ただ、今の十四グラムからさらに下がる線を止める可能性があります」
「可能性、可能性って、そればっかりだ」
別の声が上がった。会場の後ろから、まだ投票権のない人々も詰めかけている。白線の外側で肩がぶつかり、酸素ホースが床を擦った。不安と不満が入り混じった熱気が、総会場の温度をじわじわと上げていた。
イソはミンジェに合図した。
「整備条件を」
ミンジェは包帯を巻いた右手を胸に押し当て、左手で図面を切り替えた。廃棄ローバーの冷却管、壊れた暖房パネルの背面板、穀物ラックの固定具が、青い線で組み直される。
「二重遮断膜を作ります。外側は居住膜の余剰膜、内側は医療用遮断材。間を陰圧にして、漏れた場合は外へ出ず回収管へ落とす構造にします。排水は二重管です。内管が菌糸排水、外管が漏れ検知用。陰圧排水管は廃棄ローバーの冷却管を加工します。入口は二つ。作業者は記録タグなしでは入れませんし、少しの漏れも許さない」
「廃棄品の寄せ集めじゃないか!」
外壁補修班の男が立ち上がった。頬はこけ、唇が白い。
「俺たちに必要なのは理論じゃない。図面でもない。タンパク質だ。今日、手が震えてボルトを落とした。隣のやつは立てなくなった。あんたたちは火星の熱だの緩衝層だの言っているが、腹はそれで動かない!」
「座ってください。発言は記録します」
ラオンの声が入るが、男は座らなかった。
「記録で腹がふくれるなら、いくらでも署名してやる。だが俺たちは、明日外へ出る。壁を直す。膜を縫う。倒れたら誰が食料を作るんだ!」
同意の声が波のように広がった。患者家族の席からも、配給代表の横からも、押し殺した怒りが漏れる。イソはその怒りを否定できなかった。彼らは間違っていない。飢えは仮説ではない。手の震えも、免疫の低下も、配給端末の冷酷な数字も、すでに彼らの体の中で起きている現実だった。
だからこそ、そこで負けるわけにはいかなかった。
「ハリン先生」
ハリンは立ち上がり、医療端末を壁へ接続した。白い医療ベストの前面には、処置の跡の灰色の汚れが残っていた。疲労を隠さないその姿が、逆に彼女の言葉に重みを与えていた。
「熱封印強行時のリスクを出します」
壁の図が変わった。中心部洞窟、亀裂構造、地下塩水層、外縁通路。赤、黄、青の線が重なり、複雑な地層の断面を浮き彫りにする。
「熱封印装置を洞窟中心部へ走査した場合、地表側の地球由来菌糸汚染は下がります。ここだけ見れば有利です。ですが、今回の温度上昇は自然廃熱の逃げ道と一致しています。そこへ外部から熱を入れると、緩衝層の温度勾配が崩れる」
彼女は数字を一つずつ出した。
「中心部案で初回収量を優先した場合、隔離失敗時に地球菌糸の代謝産物が亀裂へ到達する推定確率は、低く見ても二十三パーセント。熱衝撃で塩水層側の反応帯が変化する確率は、モデル幅が大きいですが十六から四十一パーセント。どちらか一方でも起きた場合、回復不能な汚染として扱うべきです」
会場のざわめきが、少しだけ質を変えた。
「数字が広すぎる!」
誰かが叫んだ。
「広いです。だから危険です」
ハリンは即座に返した。
「分からないものを安全側に寄せて扱うのが汚染管理です。私は火星生命を断定していません。けれど、空洞として扱ってよいという数字も持っていません」
彼女は次に外縁案を示した。
「外縁隔離案の初回収量は低い。作業者の負担も高い。失敗すれば即時停止です。ただし、排水と菌糸を火星側の亀裂へ接触させず、熱を非接触で受ける限り、地下塩水層へ届く汚染経路は遮断できます。完全ではありません。ですが、中心部を焼くより壊れにくい」
外壁補修班の男はまだ立っていた。だが、さっきのようには言い返さなかった。彼の喉が上下する。彼らの抱える飢えの怒りの行き先に、回復不能な汚染という別の恐怖が割り込んだのだ。
イソは発言台の端末を開いた。
「投票します。選択肢は二つ。熱封印再開を認め、中心部熱処理案へ戻す。もしくは熱封印再開を停止し、外縁隔離菌糸農場案へ切り替える。外縁案は、公開記録、陰圧監視、排水二重管、汚染時即時停止を条件にします」
「第三の選択肢はないのか」
配給代表がかすれた声で言った。すがるような響きがあった。
「食品工程復旧だけを待つ選択肢は、今の配給では患者と重労働者を同時に支えられません」
イソはきっぱりと答えた。
「選ばないことも、中心部熱封印を進める選択になります」
ドヒョンが一歩前に出た。
「失敗時の処置を決議文に入れろ」
イソは彼を見た。
「どの失敗ですか」
「圧力差喪失、排水漏れ、菌糸流出、火星側反応の異常上昇。いずれかが確認された場合、外縁案を即時停止し、指揮部判断で熱封印へ移行する」
ハリンが眉を上げた。
「熱封印へ即時移行は危険です。停止後の密閉回収を先にしなければ、被害が広がります」
「失敗した設備を抱えたまま、さらに飢えを延ばす余裕はない」
ドヒョンの声は鋭かったが、そこには勝ち誇りはなかった。彼もこの場の数字を見ている。外縁案を完全に潰すのではなく、失敗時の逃げ道を自分の側に残そうとしている。それが指揮官としての彼の最低限の妥協だった。
イソは数秒考えた。条件は重い。だが今、決議文に彼の手をかけさせなければ、可決しても装置は止まらない。
「修正します」
彼女は入力した。
《外縁隔離案は、圧力差喪失、排水漏れ、菌糸流出、火星側反応異常上昇のいずれかを検知した時点で即時停止する。停止後、密閉回収が不可能と医療・整備・指揮部の三者が判断した場合、熱封印への移行を認める》
ドヒョンは不満げに顎を動かしたが、否定しなかった。
投票画面が開いた。指定者二十名。過半数は十一だが、可決には有効投票の過半数が必要だ。外側の群衆は息を殺して壁を見た。イソは自分の票を持っていない。招集者として記録するだけだ。ハリンも説明者として票から外れた。セユンとミンジェも同じだった。
一票目、熱封印。二票目、外縁。三票目、熱封印。数字は交互に積み上がった。重い静寂の中、清掃担当の若者が「俺には決められない」と端末から手を離し、棄権の赤ランプが一つ灯った。これで有効投票数は十九に減り、過半数は十に変わった。
外壁補修班の男の端末が長く止まる。彼は壁の収量表と、ハリンの汚染確率を何度も見比べた。
「タンパク質が欲しいだけなんだ」
彼は低く言った。
イソは答えなかった。答えれば、彼の飢えを説得の材料にしてしまう気がした。
男の震える指が、外縁案へ触れた。
最後の一票は配給代表だった。沈黙が伸び、遠くで熱封印装置のタイマーが六分を切る。やがて彼女は目を閉じ、外縁を選んだ。
壁に結果が出た。
《外縁隔離菌糸農場案、可決。賛成十、反対九、棄権一》
歓声は起きなかった。一票差の可決は、勝利というより、まだ落ちていない細い板の上に全員で乗っただけだった。セユンは椅子の背をつかみ、ミンジェはすぐ工具リストを開いた。ハリンは端末へ停止条件を再確認し、ドヒョンはローバー二号の回線へ向き直る。
「ローバー二号、熱封印装置の走査準備を停止。外縁隔離案へ切り替える。作業班は帰投せず、外縁入口で待機」
テソクの顔が映像の端で固まった。
「指揮官、命令変更を確認しますか」
「確認する。決議文に条件を付けた。記録しろ」
イソは息を吐く間もなく、ミンジェへ言った。
「工事可能時間を出してください」
その瞬間、総会場の床が低く鳴った。風ではない。居住膜の骨が内側へ引かれる音だった。
壁面が赤に切り替わる。
《外縁通路圧力、急落。隔離膜未設置区域に漏出の疑い。安全作業可能時間、六時間》
続いて、別の行が点滅した。
《六時間後、外縁入口の気圧は作業限界を下回ります》
ミンジェの顔から血の気が引いた。セユンが培養棚の図面を抱え直す。ハリンは反射的に医療ケースをつかんだ。
一票差で選んだ道は、まだ始まってもいなかった。
イソは赤い表示を見上げた。十五分の議決が終わった瞬間、火星は次の期限を突きつけてきた。
「六時間で建てます」
彼女が言うと、誰も反対しなかった。反対する時間さえ、もう残っていなかった。生き残るための時間は、常に自分たちの後ろから迫ってきている。
帰る船を燃やした朝、火星に憲章が生まれた
33話 隔離膜の内側で息づく酸素
次の話