赤い表示が消えないまま、総会場は作業場に変わった。
イソは発言台の端末を抱え、外縁入口へ向かう人の流れに入った。投票を終えたばかりの代表たちは、まだ椅子から立てずにいたが、整備班はもう動いていた。ミンジェが工具箱を左腕に抱え、包帯を巻いた右手を胸に押し当てて走る。
「外側骨組みからです。膜を先に張ると、圧力差で持っていかれます」
「固定点は居住膜側。火星側の岩盤には打たないでください」
イソが言うと、ミンジェは短くうなずいた。
外へ出る搬入口では、酸素消費量と作業可能時間が赤く並んでいた。六時間という数字は、移動と装着と確認を含めれば、実際にはもっと短い。ドヒョンは作業線の外に立ち、腕時計と壁面タイマーを交互に見ていた。指揮官の印章を握る手は何度か動きかけたが、命令を足すことはしなかった。
「作業班、人数を絞れ。倒れた者を出す余裕はない」
それだけを低く告げた。
洞窟入口の外側は、居住膜の温い空気が届くぎりぎりの縁だった。岩の影の向こうは暗く、地表の赤い砂が細く吹き込んでいる。未設置区域の圧力は断続的に下がり、床に仮置きした軽い資材がふっと浮くように震えた。
ミンジェは整備班を三組に分けた。第一組は廃棄ローバーのフレームを切り出し、外側骨組みを立てる。第二組は暖房パネルの背面板を支柱の内側へ吊り、非接触の熱交換面を作る。第三組は二重排水管を組む。どの作業も、洞窟の床や壁に直接荷重をかけないため、腕と腰に余計な負担がかかった。
「ボルト、仮締め。まだ本締めするな。膜を噛ませてからだ」
ミンジェの声がヘルメット越しに飛ぶ。若い整備士たちは返事の代わりに工具を上げた。金属音が、薄い空気の中で短く乾いた音を立てた。
セユンは培養棚のフレームを抱えて入口まで来たが、イソは手で止めた。
「培養器はまだ空のままです。位置だけ決めます」
「分かっています。菌株も残渣も入れません」
セユンは悔しさを飲み込むように答えた。背の高い体をかがめ、四列分の棚を一列ずつ骨組みの内側へ滑り込ませる。透明な培養器はからっぽで、まだ食べ物ではなく、ただの場所だった。けれどその場所を決めなければ、五日目の薄いシートも、十四グラムを下支えする計算も存在しない。
ハリンは反対側で膝をついていた。白い医療ベストの上から防護外衣を着ているのに、動きは診療台の前と変わらない。彼女は医療用遮断材の帯を、排水管の分岐部へ一枚ずつ貼った。
「火星サンプルの観測排液と、地球菌糸の排水を同じ回収路に入れないで」
「排水は全部回収するんだろ」
清掃担当の若者が言うと、ハリンは顔を上げずに答えた。
「回収しても、混ざった時点で何が変化したか分からなくなる。分からないものを一つにしない。それが今回の最低条件です」
彼女の指は速いが乱れなかった。遮断材は白い鱗のように重なり、二つの排水路のあいだへ細い壁を作っていく。火星側のサンプルはまだ密封容器の中にあり、地球の菌糸もまだ入っていない。それでもハリンは、二つが将来同じ水滴になる可能性まで切り離そうとしていた。
その作業を見ていた外壁補修班の男が、突然工具を床へ置いた。
「おい、順番が違うだろ」
周囲の手が止まった。男はさっき投票で外縁案を選んだ本人だった。頬はこけ、手袋の指先が震えている。
「俺は外縁に入れた。入れたよ。だが、なんで最初が膜なんだ。棚があるなら菌を入れろ。空の箱と白いテープを貼るために、俺たちは酸素を使ってるのか」
別の作業者が続いた。
「食料を作るって言ったから来たんだ。膜が食えるのか」
怒声は小さかったが、作業場ではよく響いた。疲れ切った人間の声は、強くなくても鋭い。セユンが何か言おうとしたが、イソは彼を制し、男の前へ歩いた。
「食べ物を入れる前に、漏れないことを証明します」
「証明している間に倒れる」
「証明せずに入れれば、倒れる人を増やすかもしれません。菌糸が漏れたら農場は止まります。排水が火星側へ落ちれば、ここは食料源ではなく汚染源になります」
「それも可能性だろ」
「はい。けれど飢えも、汚染も、どちらも可能性のまま扱ってはいけません」
イソは壁面の仮端末を開き、ラオンが急いで作った公開台帳を表示させた。培養器番号、投入予定量、菌株、温度、陰圧、排水回収量、作業者、酸素消費、そして配給への反映予測。まだ空欄ばかりだったが、空欄であること自体も見える。
「培養記録は一分ごとに公開します。投入した残渣の量も、増えた菌糸の量も、失敗した棚も隠しません。配給へ回せる量は、食品工程と医療が確認してから配給表に連動させます。誰かが先に持ち出せば、端末に出ます。私も、指揮部も、農業班も、隠して配れません」
男は端末をにらんだ。
「その記録で、俺の明日の手の震えは止まるのか」
「止まりません」
イソは即答した。作業場に苦い沈黙が落ちた。
「止めるために、五日目の薄層を作ります。その五日まで、誰がどれだけ削られているかも公開します。あなたが倒れたら、それも配給表の失敗として残します。誰かの我慢を見えない棚へ押し込まない。その条件でしか、この農場は始めません」
外壁補修班の男は長く息を吐いた。怒りが消えたわけではなかった。だが、工具を拾った。
「なら、俺の名前も作業者欄に入れろ。倒れたら、消すな」
「入れます」
イソが答えると、ラオンの声が通信から入った。
「作業者欄、追加しました。外壁補修班、本人確認待ち」
男は舌打ちし、端末へ手袋を押しつけた。認証音が鳴る。それを合図のように、止まっていた工具音が戻った。
骨組みは少しずつ形になった。ボルトを締めるたびに、金属だけではなく、数分前に交わされた条件まで締め込まれていくようだった。誰も勝っていない。誰も納得しきっていない。それでも一本の支柱が立ち、一本の管が閉じる。合意とは、紙に残る言葉ではなく、震える手で次のボルトを締めることなのだと、イソは思った。
二時間目、外側膜が張られた。三時間目、内側の医療用遮断材が噛み合った。四時間目、非接触熱交換板が浮き、セユンが空の培養器を固定した。五時間目、ハリンがすべての排水分岐に封印タグを貼り、ミンジェが陰圧ファンの仮電源をつないだ。
「最後の排水管、閉じます」
ミンジェの声はかすれていた。イソはうなずき、ハリンが端末を構える。セユンは空の培養器の前で手を握りしめ、ドヒョンは作業線の外から時計を見たまま動かなかった。
ミンジェがレバーを下ろした。二重管の表示が黄から青へ変わる。続いて陰圧ファンが低く回り、隔離膜のあいだの空気が内側へ吸い込まれた。
《内部陰圧、安定》
その文字が出た瞬間、作業場のあちこちで詰めていた息が漏れた。歓声ではない。まだ何も育っていない。けれど、漏れない空間が初めてそこに生まれた。
イソは端末の検査項目を上から確認した。圧力差、青。排水路、青。膜応力、黄だが許容内。温度、十・二度。外部接続弁、閉。培養器、未投入。
その下で、予想外の項目が赤く点灯した。
《隔離膜内側酸素濃度、上昇》
イソは瞬きを忘れた。内側にはまだ菌糸も残渣も入れていない。清浄空気の注入も止めている。外部接続弁は閉じていた。
それなのに数値は、〇・一、〇・二とゆっくり上がっていく。
ハリンが端末を奪うように覗き込み、低く言った。
「外とつながっていないのに、酸素が増えている」
隔離膜の透明な内側で、空の培養器だけが青白い検査灯を浴びて並んでいた。まだ何も入れていないはずの場所が、まるで先に息を始めたように、赤い数字を押し上げていた。
帰る船を燃やした朝、火星に憲章が生まれた
34話 火星初の妊娠と赤い通知
次の話