郡庁舎の会議室から漏れていた声を背にして、ドギョムは通りを南へ下りる。
雨はほとんど止んでいる。舗道の割れ目には水が残り、古い銅山の赤土を薄く溶かしている。町長のポスターが剥がされた壁は白い四角だけを残し、そこへ誰かが暫定窓口の受付時間を書いた紙を貼っている。ブラスヒルはまだ静かだ。けれど、その静けさは昨日までのものと違う。保安官代理の車を待つ沈黙ではなく、次に何を言えばいいのかわからない沈黙だ。
郡庁舎の脇には、仮設食堂と呼ぶにはまだ早い箱がある。焼け落ちたヘナズ・ダイナーの代わりに、ヘナが一時的に借りた場所だ。駐車場の一角に組まれたプレハブの壁は、外側の板だけが打たれ、内側には黄色い断熱材と新しい合板がむき出しになっている。看板はない。扉の上にも、窓にも、ヘナの名前はまだない。
それでも、カウンターになるはずの長い合板の上に、古いコーヒーポットが一つ置かれている。
黒く焦げた底と、持ち手の小さな欠け。焼け跡から拾ったものだとすぐにわかる。ドギョムは入口で一拍止まり、それを見てから中へ入る。
ヘナは奥で棚板を押さえている。左手首の古い火傷と新しい赤い線は、包帯で隠されてはいない。彼女は釘の箱を膝で押さえ、作業用の手袋を片方だけ外している。
「まだ、店じゃありません」
声は低い。昔と同じ愛想のなさだ。けれど、追い返す言い方ではない。
「見ればわかる」
ドギョムはそう返し、ダッフルバッグを足元へ置かない。置けば長くいる姿になる。だから肩に掛けたまま、壁、床、出口、窓の位置をいつもの癖で見る。
ヘナはその目線に気づく。少しだけ眉を動かし、厨房になる奥の区画へ顎を向ける。床にはまだシンクの配管も通っていない。冷蔵庫の位置を示すテープと、グリルを置く予定の黒い印だけが貼られている。その片隅だけ、何も置かれずに空いている。
ヘナはそこを指で示す。
「ここ、空けておきます」
ドギョムは返事をしない。
「いつでも来てください」
それは頼みではない。感謝でもない。逃げ道を作る人間が、もう一つ扉を開けておくと告げる声だ。ヘナはそれ以上言わず、棚板を壁に当て直す。
カウンターの端では、ミゲルが小さな箱を開けている。プリペイド携帯の箱だ。白い紙の説明書、安い本体、充電器の細いコード。彼は折れた指にまだ包帯を巻いたまま、使える指だけでコードの輪をほどいている。苛立って歯を使おうとしたところで、アルマが横から「歯でやらない」と短く言う。
ミゲルは肩をすくめるが、やめる。
「番号は書きません」
彼はドギョムのそばへ来て、箱を差し出す。目の下はまだ暗い。泣いたあとの顔だが、声は崩れていない。
「ただ持っていてください。充電はしてあります。使わなくてもいいです」
「持っていれば、探される」
「じゃあ電池を抜いてください。捨ててもいいです。でも、今ここで返さないでください」
ドギョムは少年の手を見る。折られた指。包帯の上からでもわかる腫れ。ガソリンスタンド裏の暗がりで聞いた悲鳴が、短く耳の奥を掠める。
彼は箱を受け取らない。ミゲルも引っ込めない。
しばらくして、ドギョムは本体だけを箱から取り出し、裏蓋を外して電池を抜く。SIMカードも抜く。三つに分けて、それぞれ自分の外套の別のポケットへ入れる。
「番号は覚えるな」
「書いてません」
「覚えるな」
ミゲルは唇を結び、それから小さく頷く。
部屋の反対側では、アルマが仮の机に外来受付端末を置いている。郡病院の古いロゴが残った灰色の端末だ。画面は消えているが、その横には新しい紙が二枚並んでいる。生存者名簿。昨日、掲示板に貼られたものと同じ名前を、アルマは一行ずつ書き写している。
グラディスの字ではない。アルマの字だ。少し硬く、止めが強い。メアリー・ルイスの名、若い男の名、老人の名。番号は書かれていない。アルマは名前だけを書き、横に所在と治療先を書き足す。死者の名簿は別の封筒に入れられている。彼女はそれを見ない。今は、生きて外へ出た人間を新しい紙へ移している。
ドギョムはその光景の前で止まる。
合板の匂い。むき出しの断熱材。古いコーヒーポット。番号を書かない携帯。名前だけを書き写す手。留まるということが、初めて形を持ってそこにある。椅子、壁、配管、空けられた厨房の隅。どれも持てる重さをしている。
ここに残れば、朝には誰かが来る。ヘナは黒いコーヒーを出し、ミゲルはコードを絡ませ、アルマは名簿を直す。ディナは会議の紙を持ち込み、グラディスは端末の扱いに文句を言う。壊れた町が、壊れたままでも店の形を作る。
その中に自分の椅子を置くことも、できるのかもしれない。
だが、ドギョムは同時に別のものを見る。
州警察の手帳。記者の質問。ガラスの向こうで沈黙するラウク。町がまた恐怖に追いつかれた時、誰かが必ず彼を見る。あの男なら止められる。あの男なら殴れる。あの男なら、法が遅いぶんを埋められる。
そうなれば、ブラスヒルはいつか彼を盾にする。
そして、また別のラウクが現れた時、別のマローンが人の名を番号へ戻そうとした時、ドギョムはまた同じ場所へ立つ。法と暴力の間に引かれた細い線を見て、越える。殺さないと言いながら、壊す。壊して、次の紙から自分の名だけを外す。
『ここまでが俺の役目だ』
声には出さない。出せば、誰かが止める。ヘナも、ミゲルも、アルマも、それぞれ別の言葉で止める。だから内側だけで終わらせる。
ヘナが棚板を固定し終え、こちらを見る。
「コーヒーはまだ出せません」
「知ってる」
「出せるようになったら?」
ドギョムは古いポットを見る。焦げた底は、捨てるには黒すぎる。残すには重すぎる。それでも、カウンターの上に置かれている。
「冷める前に飲める客へ出せ」
ヘナはそれを返事として受け取らない。目だけを細める。
「あなたの分は、空けておきます」
ミゲルが何か言いかける。アルマが弟の袖を引き、止める。少年は唇を噛み、かわりに箱の中の説明書を折り畳む。番号のない携帯の空箱だけが、カウンターに残る。
ドギョムはダッフルバッグのストラップを掛け直す。肩の位置が少し変わり、肋骨の奥に鈍い痛みが走る。痛みはもう、足を止めるほどではない。
彼はバッグの脇ポケットを開ける。中から未使用の救急キットを一つ出す。軍用ではない。ヘナズ・ダイナーの屋根裏にあった最後の一つだ。包帯、消毒、縫合テープ、鎮痛剤。小さな赤い十字が印刷されたプラスチックの箱。
それをカウンターの端、古いコーヒーポットの隣へ静かに置く。
「これは置いていく」
ヘナは箱を見る。ミゲルも見る。アルマは名簿を書く手を止める。
「足りなくなります」
「ここにいる人間に使え」
「あなたは」
ドギョムは答えない。自分に使うものを置いていく。それが返事だ。
外では、郡庁舎の会議室からまた声が漏れてくる。鍵の管理、葬儀の日取り、生存者の移送先、焼け跡の処理。声は割れ、重なり、時に怒鳴り合う。それでも、誰か一人の命令ではない。町が自分の喉を使っている音だ。
ドギョムは入口へ向かう。
背後でヘナが言う。
「名前を聞きません」
彼は足を止めない。
「だから、忘れもしません」
その言葉だけが、むき出しの合板に吸われず、背中へ届く。ドギョムは扉の前で一度だけ振り返る。空けられた厨房の片隅、古いポット、救急キット、番号のない携帯の箱、生存者名簿を写すアルマの手。全部がそこに残っている。
彼は頷かない。礼も言わない。
扉を開けると、湿った夕方の空気が入る。ブラスヒルはまだ仮の姿だ。町長の椅子も、食堂の看板も、保健局の鍵も、まだ決まっていない。けれど、決める人間はもういる。
ドギョムは外へ出る。背後で仮設食堂の裸電球が一つ灯り、合板の壁に細い影を落とす。
彼の胸元では、認識票が外套の内側で小さく鳴る。
その音だけは、まだ置いていけない。
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
115話 一番安い切符
次の話