濡れたブーツの音は、七号室の前で一度止まる。
ドギョムは照明をつけない。ベッドの横に立ち、窓ガラスに映る廊下の影を見る。影は一つ。肩幅は広くない。右手は腰の高さで揺れ、左手には鍵束らしい細い光がある。
ノックはない。
足音は一歩だけ戻り、また進む。隣の八号室の前で止まり、古いドアが軋む。低い男の声が壁越しに漏れるが、言葉にはならない。やがて水道の音とテレビの砂嵐だけが残る。
ドギョムは動かない。十分待つ。さらに五分待つ。それから丸いテーブルの上に町の無料地図を広げ、指で三つの矢印をなぞる。郡リハビリセンター。ブラスライン物流センター。ハドリー民間矯正施設。どれも峡谷へ向かう。
『一晩だけだ』
そう決めたはずの言葉が、薄い壁の中で少し鈍る。
午後になって、雨は霧のように細くなる。ドギョムは外套の襟を立て、ダッフルバッグを肩に掛けてモーテルを出る。出る道を探すだけだ。貨物路線を聞き、町の外へ出る車を見つける。それ以上ではない。
二十四時間営業のガソリンスタンドは、町外れへ向かう角にある。給油機の屋根は錆び、店内の蛍光灯は昼でも白く疲れている。カウンターの若い店員は、ドギョムのバッグを見るなり雑誌へ目を落とす。
「北へ行く貨物トラックはあるか」
店員の喉が小さく動く。
「知らない」
「ブラスラインは」
「客には教えない」
「客じゃなければ」
店員は答えない。カウンター下の赤いボタンへ指が近づく。押す前に、ドギョムは棚から安い水を一本取って硬貨を置く。
「道を聞いただけだ」
「道なら、広場の先に運送屋がある」
店員は雑誌から目を上げないまま言う。
ドギョムは店を出る。店員の指はまだボタンの近くにある。町は目で知らせず、指で知らせる。
広場の手前に小さな運送会社の事務所がある。看板には「ハンクス郡内配送」と書かれ、窓の内側に古いタイムカードが並ぶ。受付の女は電話中のふりをしていたが、ドギョムが入ると受話器を強く握る。
「日雇いは取ってないよ」
「乗せてくれる便を探してる」
「どこへ」
「北ならどこでも」
女は奥の壁を見る。そこには配送表が貼られているが、ブラスラインの列だけ黒いマーカーで塗られている。
「この天気じゃ出ない」
「晴れたら」
「うちは人を乗せない」
言い終える前に、外をパトカーがゆっくり流れる。女の目が窓へ跳ね、すぐ床へ落ちる。ドギョムはそれ以上聞かない。入口の横に積まれた古い伝票の端に、峡谷方面の地名が何度もスタンプされているのだけを見る。
広場に出ると、町長エヴァン・プライスの写真が大きく掲げられている。雨よけの透明板に守られた新しいポスターだ。白い歯を見せた明るい笑顔。紺のスーツ。胸には小さな星条旗のピン。その横に太い文字がある。
「リハビリで立ち上がる町」
広場のベンチでは、痩せ細った男が震えている。髭は伸び、頬は骨だけのように尖り、手には処方箋が握られている。紙は濡れていない。何度も折り、開き、また折った跡がある。
男は立とうとして、膝から崩れる。
誰も足を止めない。郵便局へ向かう老人は歩幅を変えず、薬局から出てきた女は紙袋を胸に抱いたまま横を通る。広場にいる人間たちは、見ていないふりがうまい。
白いバンが来る。
音は静かだ。車体は新しく、側面に郡リハビリセンターの青いロゴがある。笑顔の人型が二つ、手を取り合って立ち上がるマークだ。運転席から降りた男は医療スタッフの白衣を着ているが、靴は作業用の黒いブーツだ。
痩せた男が首を振る。
「違う、今日は薬を取りに来ただけだ。俺は署名してない」
白衣の男は答えない。助手席から保安官代理が降りる。細身の男ではない。顎の下に肉がたまり、星形バッジを雨の下でも光らせている。
「処方違反の通報が入ってる」
「違う。医者が、医者が出したんだ」
「ならセンターで確認しよう」
広場の端から女が走ってくる。四十前後、髪は濡れて顔に貼りつき、手には買い物袋を握っている。
「やめて! 家に戻すだけって言ったじゃない! トミー、行かないで!」
トミー。
掲示板で読んだ名前が、ドギョムの頭の中で一つ鳴る。トミー・グレンジャー。四十六歳。最後に見た場所、郡リハビリセンター近くのバス停。
女はバンの前に立ちはだかる。白衣の男が顔をしかめ、保安官代理が女の肩を押さえる。
「奥さん、妨害になる」
「夫よ。夫なの。処方箋があるの。見て、ここに」
「妨害になると言った」
保安官代理の手が少し強く入る。女の膝から力が抜ける。買い物袋が落ち、缶詰が二つ転がる。誰かの足元まで転がった缶を、その誰かは拾わない。女は濡れたタイルの上に崩れ、声だけでバンへすがる。
トミーは抵抗しない。抵抗する体力がない。白衣の男と保安官代理に両脇を抱えられ、車内へ押し込まれる。処方箋だけがベンチの下に落ちる。
バンのドアが閉まる。音は軽い。人ひとりを消すには軽すぎる音だ。
ドギョムはダッフルバッグのストラップを一度握る。手の中で古い布が軋む。頭は数える。よそ者。現金払い。身分証なし。町の仕組みはまだ輪郭だけ。今ここで止めれば、次の角で撃たれるか、薬袋を入れられる。
彼はストラップを放す。
『今夜だけ寝て出ていく』
またそう決める。言葉は前より少し重い。
モーテルへ戻る途中、学校の塀のそばで足が止まる。放課後の時間らしく、生徒たちがばらばらに門を出てくる。だが声は小さい。門の外に保安官代理が一人立っているからだ。カーキ色のシャツ。黒い手袋。笑っている。
その向かいに、十七歳ほどの少年がいる。通学かばんを片方の肩に掛け、濡れた髪が額に落ちている。痩せているが、目だけが折れていない。道の向こうの保安官代理を睨みつけ、唾を吐く。
唾は雨水に流される前に、星形バッジの男のブーツの近くへ落ちる。
周囲の生徒が息を呑む。誰も少年の腕を引かない。引けば自分の名前も覚えられる。
保安官代理は笑う。
「元気だな、ミゲル」
少年は退かない。右手を握っている。手の甲には青黒い痣が広がり、指の付け根まで腫れている。新しい痣だ。殴った傷ではなく、誰かに押さえつけられた傷に見える。
「姉さんを返せ」
声は低く、震えている。だが逃げてはいない。
保安官代理は首を少し傾ける。
「リハビリ中の家族を心配するのは偉いことだ。だが学校の前で騒ぐと、先生が困る」
「先生じゃない。あんたらが困るんだ」
笑い声が短く漏れる。保安官代理の手が腰の無線機へ触れる。少年の肩が一瞬だけ固くなる。それでも下がらない。
ドギョムは通り過ぎる。止まらない。だが少年の顔を静かに記憶する。額に落ちる濡れた髪。腫れた右手。怒りを噛み殺す口元。ミゲルという名前。
モーテルの七号室に戻ると、空は早く暗くなる。テレビはつけない。隣室の音も、外廊下の足音も、今はない。窓の外では広場のポスターがライトに照らされ、プライス町長の笑顔だけが雨の中で清潔に浮く。
夜が深くなり、自販機の前で硬貨が一枚詰まる。ドギョムは返却口を二度押す。何も落ちない。道の向こうのガソリンスタンドだけが、二十四時間の白い光を点けている。
彼は外套を取り、水を買いに歩く。
スタンドの建物の裏手から、鈍い音が一つ聞こえる。肉と金属の間の音だ。続いて、押し殺したような若い息。
ドギョムは足を止める。
暗がりの奥で、車のトランクが開いている。黄色い室内灯に、通学かばんのストラップが一瞬だけ見える。
そして、昼に記憶した少年の声が、闇の中で割れる。
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
5話 折られる指、光る硬貨
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