ヘナの指が止まったまま、食堂の音だけが戻っている。
ドギョムはミートローフの最後の一切れを飲み込み、コーヒーを半分だけ残す。熱も味も、もう必要な分だけ取った。ナイフとフォークを皿の右へそろえ、足元の軍用ダッフルバッグを肩に掛ける。
ヘナは何も言わない。言えば、その言葉も誰かに数えられるからだ。カウンターの内側で布巾をたたみ直し、入口ではなくレジ横へ目を一度だけ流す。
行け、という合図ではない。
見るなら今だけだ、という合図だ。
ドギョムは扉へ向かわず、レジ横の掲示板の前で足を止める。古いコルク板だ。求人、教会のバザー、リハビリセンターの面会手続き、郡の無料相談会。新しい紙は上に貼られ、古い紙は端を押し潰されて下へ沈んでいる。
その横に、行方不明者のビラが七枚ある。
錆びた画鋲で留められている。赤茶けた水分が紙の四隅へ染み、顔写真の輪郭を汚している。いちばん古い一枚は日差しでインクが褪せ、頬も目も崩れて、ただ人の顔だったものだけが残っている。名前の行はまだ読めるが、苗字の半分は紙の裂け目に持っていかれていた。
客たちは掲示板の横を通っても、誰も目を上げない。
新聞の男は紙面を少し高くする。窓側の老人はカップの縁を見つめる。母親は子供の頭を自分の胸へ寄せる。視線が紙を避けて滑っていく。慣れている。慣れさせられている。
ドギョムは一枚ずつ読む。
トミー・グレンジャー、四十六歳。作業員。最後に見た場所、郡リハビリセンター近くのバス停。
マリア・ゴンザレス、三十八歳。薬局勤務。最後に見た場所、郡病院外来。
いちばん新しい紙だけは白さが違う。貼られてから日が浅い。顔写真は鮮明で、黒い髪を肩の上で切った女が、カメラをまっすぐ見ている。笑ってはいない。何かを聞き出す前の顔だ。
ジョアン・リバース、三十二歳、記者。
その下に、連絡先として保安官事務所の番号が大きく印刷されている。行方不明者を探す窓口として、行方不明者を作る側の番号が載っている。そういう町だ。
先ほど座席から見えた「JR32」の文字は、この新しい紙の右下、写真の枠から少し外れたところに書かれていた。印刷ではない。あとから書かれた文字だ。急いでいるが、癖は抑えてある。誰かが目立たせず、消えない場所を選んだ。
「探してるんですか」
ヘナの声が低く落ちる。
ドギョムは振り返らない。
「読んでるだけだ」
「読むだけにして」
彼女はそう言って、レジを開ける。中の硬貨を動かす音がする。客に聞かせるための音だ。会話を隠すための音でもある。
「この町の紙は、貼られたあとも人を殺す」
ドギョムはジョアンのビラから視線を外す。
「誰が貼った」
「家族。友人。たまに本人が消える前に」
「本人?」
ヘナは硬貨を数える手を止めない。
「記者は、そういうことをする」
それ以上は言わない。厨房の奥で油が跳ねる。外では雨が少し弱まり、タイヤが水を切る音が近くなる。ヘナはもうこちらを見ない。見ないことで、まだ間に合うと言っている。
ドギョムは店を出る。
ベルが鳴る。湿った空気が顔を打つ。外の雨は細くなっているが、町全体は濡れたまま沈んでいる。ヘナズ・ダイナーの赤いネオンが水たまりに割れ、文字の切れた部分だけが黒く抜ける。
彼は軒下に立ち、通りを順に見る。
道の向こうに薬局がある。緑の十字の看板は新しく、窓には処方箋の割引広告が貼られている。隣には古い郵便局。星条旗は濡れて重く垂れ、掲示板には郡からの通知が三枚、まっすぐ並べられている。
その先に郡リハビリセンターの案内所がある。白い壁。青いロゴ。入口の横には笑顔の男女を並べたポスター。「再出発は、ここから」。きれいすぎる紙だ。町の他のものより、あきらかに金が使われている。
ドギョムは歩き出す。薬局の前を過ぎる。自動ドアの内側で、白衣の男がこちらを見てすぐ棚の影へ消える。郵便局のガラスには、封筒を持った老人が映っている。老人はドギョムと目が合う前に、番号札の機械へ顔を伏せる。
角に道路標識が立っている。
郡リハビリセンター、左折二マイル。
ブラスライン物流センター、左折三マイル。
ハドリー民間矯正施設、左折四マイル。
三つの名前は別々の板に書かれている。だが矢印は同じ方向を向いている。町の西、低い丘のあいだへ食い込む峡谷の奥だ。
ドギョムは立ち止まる。
食堂の掲示板。薬局。郵便局。リハビリセンター案内所。民間刑務所。物流会社ブラスライン。三つの入口が同じ峡谷へ集まっている。町の骨格が頭の中で線になる。人が病院から消え、処方箋から消え、郵便の宛名から消え、最後に道路標識の向こうへ運ばれる。
まだ仮説だ。だが腐った町は、いつも線でつながる。金の線。車の線。書類の線。人間が怖がって見ない線。
通りの反対側で、保安官代理のパトカーがゆっくり曲がってくる。さっきの二人ではない。車内の影がこちらへ顔を向ける。
ドギョムは歩き出す。速くはしない。逃げる速度ではなく、雨宿りする男の速度で進む。軍用ダッフルバッグのストラップが肩に食い込む。シャツの内側で、認識票が冷たく胸に当たる。
モーテルは食堂から二ブロック先にある。看板は「サンセット・モーター・イン」。太陽の絵はほとんど剥げ、空室の赤いランプだけがやけに明るい。
事務所の中には老人が一人いる。カウンターの奥で小型テレビを見ている。音量は低い。天気予報の青い画面が、老人の皺だらけの顔を濡れた紙のように照らす。
老人はドギョムの顔を見る。バッグを見る。ブーツを見る。最後に胸ポケットを見る。
「一晩か」
「一晩」
「三十五ドル。現金だけ」
「カードは」
老人は笑わない。
「この町でカードを使いたい奴は、銀行へ行く。銀行へ行く奴は、名前を書く。名前を書く奴は、あとで後悔する」
ドギョムは濡れた札を三枚と五ドル札を置く。
老人は紙の宿泊台帳を開かない。パソコンもない。引き出しから鍵を一つ出し、カウンターの上へ置く。七号室。真鍮の札が黒ずんでいる。
「身分証は?」
ドギョムが尋ねる。
老人は初めて口の端を少しだけ上げる。
「見せたいなら見せろ。こっちは見たくない」
「領収書は」
「要るのか」
「一応」
老人は安い感熱紙に金額だけを打つ。名前の欄はない。住所もない。ただ日付、部屋番号、現金。紙は薄く、熱で黒くなった数字がすぐに歪みそうだ。
ドギョムはそれを受け取り、事務所を出る。
七号室は外廊下の端にある。ドアの塗装は膨れ、鍵穴の周りに細かな傷が多い。過去に何度も無理に開けられた跡だ。部屋の中は漂白剤と古い煙草の匂いがする。ベッド。テレビ。丸いテーブル。壁に固定された鏡。窓からは、さっきの道路標識が小さく見える。
彼はカーテンを閉めない。閉めれば、いると知らせる。開けたまま、室内の影の位置だけを読む。
それから手の中の領収書を見る。
名前のない紙だ。ここではそれが親切になる。よそ者の名前を残さない。泊まった事実を薄くする。老人はそういう商売を長く続けている。
ドギョムは領収書を丸める。さらに強く握る。感熱紙の数字が指の汗でにじみ、部屋番号だけが黒く残る。彼はそれを灰皿の中へ落とさず、ポケットにも入れない。その場で細かく裂き、トイレの水で流す。
シャツの内側へ手を入れる。二枚の認識票が鎖の先で触れ合い、小さく鳴る。米陸軍憲兵隊時代の名前と番号。彼がまだ書類の上に存在していたころの金属だ。
ドギョムはそれを胸元の奥へ押し込む。布のさらに内側へ、肌に当たるほど深く。
この町は、よそ者の名前を残したがらない。
それだけなら、まだ理解できる。関わらずに通り過ぎる人間には都合がいい。だが掲示板の七枚は違う。消えた人間の名前まで、紙の上で褪せさせる。顔を崩し、連絡先を保安官事務所にすり替え、誰も見ない場所へ追いやる。
ドギョムは窓の外を見る。
雨に濡れた道路標識の矢印は、三つとも同じ峡谷を指している。その奥で、リハビリセンターと刑務所と物流会社が、別々の顔をして同じ口を開けている。
そのとき、壁の向こうのテレビが一瞬ざらつく。隣室の音だ。安いラジオの混線に似たノイズが、薄い壁を通って流れ込む。
「……リバース……搬送……三二……」
声はすぐに途切れた。
ドギョムの手が、認識票の上で止まる。次の瞬間、モーテルの外廊下を、誰かの濡れたブーツがゆっくり歩いてくる音がした。
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
4話 雨の広場に来る白いバン
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