女の目は、ドギョムの顔に長く止まらない。
右手。バッグ。濡れた外套の下。腰。扉。窓。厨房へ続く狭い通路。逃げ道を先に決めてから、ようやく客として見る。
ドギョムはその視線を受けたまま、入口から一歩だけ横へずれる。背中を扉に預けない。風除けの内側に立つ時間も長くしない。雨水が軍用ブーツの先から黒い床へ落ち、油じみた跡を作る。
五つのテーブルは埋まっている。窓側に老人二人。中央に作業服の男三人。奥に母子らしい二人。壁際には新聞を広げた男と、皿の上でポテトを小さく切り続ける女がいる。だが、誰も大声で話さない。皿とフォークの音だけが細く動いている。
ドギョムはカウンターの端へ向かう。店の中でいちばん奥が見え、入口も視界に入る席だ。バッグを足元へ置き、濡れた外套を脱がずに座る。
女はカウンターの向こうから近づいてくる。三十代半ばほど。黒髪を後ろでまとめ、灰色のシャツの袖を肘までまくっている。左手首に、古い火傷の跡がある。輪のように歪んだ皮膚が、皿を持つたび薄く光る。
名札には「ヘナ」とある。
ユン・ヘナ。韓国人の母とアメリカ人の父の間に生まれた女だと、顔つきと名前が言っている。だがその目は、どちらの国にも寄りかからない。客の空腹より、出入口の気配を先に読む人間の目だった。
「何にします」
声は低い。愛想はない。怒りもない。
ドギョムはメニューを見ない。
「ミートローフ。ブラックコーヒー」
それだけ言う。
ヘナは短くうなずく。注文を書かない。覚えるだけだ。厨房へ振り返る前に、また一度、入口を見る。誰かが入ってくる前の空気を読む癖がある。
カウンターの奥で古いラジオが鳴っている。カントリー曲と天気予報の間に、郡道の冠水情報が挟まる。雨はまだ北へ動かず、州境沿いに居座るらしい。客の一人が小さく舌打ちするが、それ以上は言わない。
ドギョムはカップを待ちながら、店内の配置を頭に入れる。裏口は厨房の奥。窓は二枚、どちらも古いアルミ枠。カウンター下には散弾銃を置ける隙間がある。レジ横には掲示板。紙が何枚も重なり、いちばん上の端だけが濡れた空気で丸まっている。
見ないふりをしている客が多すぎる。
ヘナがコーヒーを置く。黒く、濃く、古い豆の苦みが湯気に混じって上がる。
「クリームは」
「いらない」
ヘナは返事をせず、布巾でカウンターを一度拭く。拭く必要のない場所だ。布巾の下に何かを隠している手つきでもある。
ドギョムはカップに触れる。熱い。指先が少し戻る。
そのとき、外でタイヤが水を裂く音がした。
店の中の肩が、同時に小さく上がる。
ベルが鳴る前に、ヘナの視線は入口へ向いている。作業服の男三人は会話の続きを飲み込み、窓側の老人はスプーンをカップの中で止める。新聞の男は紙面を一枚めくるふりをして、顔を隠した。
扉が開く。
保安官代理が二人、雨の匂いを連れて入ってくる。カーキ色のシャツ。胸の星形バッジ。ベルトには拳銃、無線機、黒い手袋。ひとりは細身で、口の端に薄い笑みを貼りつけている。もうひとりは首が太く、店内を物置のように見回す。
「ヘナ」
細身の男が、挨拶でも注文でもない声で言う。
ヘナは表情を変えない。
「コーヒー?」
「今日は時間がない」
首の太い男がカウンターへ手を置く。濡れた指の跡が白い天板に残る。
「今日の分」
その言葉で、店内の空気がさらに薄くなる。誰も驚かない。驚かないことが、いちばん悪い。
ヘナは布巾をたたむ。カウンターの下へ手を入れ、茶色い紙袋を取り出す。大きさは弁当袋ほど。口は二重に折られ、細い輪ゴムで留めてある。彼女はそれをカウンターの上へ置く。投げない。差し出しもしない。
首の太い男が袋を取る。輪ゴムを外し、中へ指を入れる。紙幣を数える音がする。指先でかき回し、束をつまみ、もう一度戻す。
「薄いな」
ヘナはコーヒーポットを持ったまま答える。
「雨で客が少ない」
「雨のせいにすれば何でも通る町じゃない」
細身の男が笑う。笑いながら、ドギョムを見る。
視線はまずバッグに落ちる。古い軍用ダッフル。次にブーツ。泥と雨水で黒くなった軍用ブーツ。最後に顔。
「見ない顔だな」
ドギョムはカップを持ち上げる。口元まで運ぶが、飲まない。湯気だけが目の下をかすめる。
「バスが壊れた」
「どこから」
「南から」
「どこへ」
「北へ」
首の太い男が鼻で笑う。
「詩人か?」
ドギョムは答えない。カップの縁を口に当てるふりをしたまま、二人の足の幅と手の位置を見る。細身の男は右利き。拳銃の留め具を外していない。首の太い男は紙袋を左手で持ち、右手をカウンターに置いている。店を支配する癖はあるが、即座に撃つ準備はしていない。
ヘナがミートローフの皿を持ってくる。ソースは濃い茶色。横にマッシュポテトと缶詰のインゲン。皿を置く手首の火傷跡が、男たちの視線にさらされる。
細身の男はその跡を見ても、何も言わない。見慣れているのだ。
「よそ者に部屋は?」
ヘナは皿から手を離す。
「私は宿屋じゃない」
「聞いただけだ」
細身の男は袋の口を閉じる。だが帰らない。店の中の全員が、その一拍を待っている。誰かが何かを間違えれば、食堂の空気はそのまま刃になる。
ラジオの音が突然割れた。
曲が途切れ、ざらついた警察無線のノイズが混じる。短い電子音。遠い声。言葉は判別できない。ただ、保安官事務所の周波数が近くの安いラジオへ漏れたような音だ。
その瞬間、食堂の中のすべてが止まる。
フォークが皿の上で止まる。コーヒーカップを置こうとしていた老人の手が空中で固まる。奥の母親は子供の肩を押さえ、子供は口の中のものを噛むのを忘れる。新聞の紙面はめくられず、作業服の男の喉が一度だけ動く。
ヘナも動かない。コーヒーポットを持ったまま、目だけをラジオへ向けている。
保安官代理二人でさえ、笑わない。
ドギョムはカップを口に運んだ姿勢のまま、その沈黙を観察する。これは単なる警戒ではない。合図を待つ人間の止まり方だ。自分に向けられた銃口ではなく、壁の向こうから名前を呼ばれるのを恐れる止まり方。
ノイズの中に、かすかに数字のような音が混じる。
「……三二……」
それだけが聞こえた気がする。
次の瞬間、ラジオは何事もなかったように古い曲へ戻る。スチールギターが情けない音を立てる。
食堂の人々は、一拍遅れて動き出す。
フォークが肉に入る。カップが皿に戻る。新聞がめくられる。誰かが無理に咳をする。噛む音が戻る。だが声は戻らない。
首の太い男は紙袋を胸の内側へしまい、ドギョムの足元のバッグをもう一度見る。
「バスが直ったら、すぐ乗れ」
「そうする」
ドギョムは短く言う。
「いい町じゃないのか?」
細身の男の笑みが、少し深くなる。
「いい町だ。いい町にするために、みんな協力してる」
二人は扉へ向かう。ベルが鳴り、雨の音が一瞬だけ流れ込む。パトカーのドアが閉まる音がして、タイヤが水をはねる。店内の誰も、その車を見送らない。見送らないふりをする。
ヘナは皿をドギョムの前へ押し、カウンターの下へ布巾を戻す。
「食べて」
ドギョムはナイフとフォークを取る。ミートローフを切る。肉は固いが、熱はある。コーヒーは苦い。食堂の中に戻った音は、さっきよりも作り物に近い。
ヘナは彼の前で足を止める。声をさらに低くする。
「よそ者なら、食事だけして行って」
ドギョムはフォークを止める。彼女の目は怒っていない。頼んでいるのでもない。警告している。自分を守るためではなく、彼がまだ出ていける側の人間だからだ。
彼は返事をしない。代わりにレジ横の掲示板へ視線を移す。求人の紙の下、バザー案内の陰に、雨で波打った白い紙が七枚重なっている。顔写真が並び、そのうち一枚の端に、黒いペンで小さく「JR32」と書かれていた。
ヘナの指が、布巾の上で一度だけ止まる。
ドギョムがその文字を見たことに、彼女も気づいたのだ。
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
3話 消された名前と峡谷の口
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