その声に、ミゲルの足が一拍だけ遅れる。
ドギョムは待たない。少年の左腕を引き、廃材置き場の奥へ伸びる細い通路へ入る。走ると言っても、全力ではない。濡れた板を踏み抜かず、割れた瓶を蹴らず、痛めつけられた少年が転ばない速さだ。
背後でパトカーのエンジン音が別の角へ曲がる。無線の声は雨に削られ、単語だけが残る。センター。応答不能。少年。
ミゲルは何度も息を詰まらせる。右手を胸に抱え、顔をしかめる。痛みより寒さのほうが体を奪い始めている。濡れたパーカーは重く、肩に張りつき、少年の細い体温を吸っている。
「脱げ」
貨物トラック整備場の横にある空き地まで出たところで、ドギョムは低く言う。
そこは錆びたフェンスと放置されたトレーラーの間に挟まれた、砂利だけの場所だ。雨水が浅い池を作り、廃タイヤが半分沈んでいる。整備場のシャッターは閉まり、奥の作業灯だけが青白く点いている。ディーゼルと鉄粉の臭いが濃い。
ミゲルは言われた意味を理解するまで一拍かかる。
「え」
「パーカーだ。脱げ」
少年は震える左手でファスナーを下ろそうとする。右手の固定した指が邪魔になり、布を噛む。ドギョムは前に出て、ファスナーを一気に下げる。パーカーを肩から剥がすと、水が砂利へ滴り落ちる。
中のシャツも濡れている。痩せた胸が小さく上下する。肋骨に青い痣が浮き始めている。
ドギョムはダッフルバッグを地面に置く。古い軍用バッグの口を開ける。中には畳まれたシャツ、靴下、固い布に包んだ折りたたみナイフ、ビニール袋に入った現金がある。余計なものは少ない。どれも一度濡れても使えるように入れられている。
彼は二枚目のシャツを取り出し、ミゲルへ投げる。
「着ろ」
ミゲルは濡れた手で受け止める。乾いた布に触れた瞬間、顔が少し崩れる。救われた顔ではない。自分がまだ寒さを感じていることに気づいた顔だ。
ドギョムはビニール袋から紙幣を抜く。二十ドル札を数枚、十ドル札を二枚。多すぎれば目立つ。少なすぎれば動けない。彼は濡れないように折りたたみ、少年の左手へ押し込む。
ミゲルは反射で握る。
「こんなの」
「持て」
「返せない」
「返すな」
短い会話で終わる。ドギョムは少年の濡れたパーカーを拾う。ミゲルが慌ててそのポケットから紙片を抜き取り、ズボンのポケットへ移すのを見てから、空き地の隅の錆びたドラム缶へ押し込む。外からはただの布くずに見える。保安官代理が犬でも連れてこないかぎり、しばらくは役に立たない。
ミゲルは乾いたシャツを着る。肩の線が細い。十七歳ほどの体に、二か月と一年分の恐怖が余分に乗っている。
「今夜は親戚の家にも友達の家にも行くな」
ドギョムは整備場の暗い窓を見ながら言う。
「学校にも戻るな。いつも行く教会、店、空き家にも行くな。お前が一度も行ったことのない場所で寝ろ」
ミゲルの唇が震える。雨水が髪から頬へ落ちる。泣いてはいない。泣く余裕もない。
「どこへ」
「知らない場所だ」
「この町に、そんな場所ない」
「なら、いちばん嫌いな場所へ行け。誰もお前がそこに行くと思わない場所だ」
ミゲルは答えない。手の中の紙幣を握り、足元の水たまりを見る。逃げるための金を渡されても、足が動かない。逃げた先に姉はいない。母もいない。動けば置き去りにする。動かなければ捕まる。
その理屈だけが、少年の体を止めている。
「姉さんは」
声は小さい。雨に消えかける。
ドギョムは答えない。
答えられることがない。生きているとも、死んでいるとも言えない。安心させるための嘘を吐けば、少年はそれを信じようとして足を壊す。真実だけを言えば、今ここで座り込む。
だから沈黙する。
ミゲルの目が上がる。怒りが少し混じる。助けてくれた相手に向けるには弱すぎる怒りだが、それでも折れてはいない。
「あなた、あそこへ行くんですか」
ドギョムはダッフルバッグの口を閉じる。濡れた砂利を踏み、少年の前へ戻る。
「紙を出せ」
ミゲルの表情が固まる。
「誰にも見せるなって」
「俺が持つ」
「それは」
「お前が持っていると捕まる。俺が持っていても捕まる。なら動けるほうが持つ」
ミゲルは左手をポケットへ入れる。くしゃくしゃになった紙片を取り出すまで、長くかかる。手放せば、姉と母に続く唯一の線が消えるように思えるのだろう。
紙は濡れて端が破れている。五桁の数字と日付だけ。名前のない標識。
ドギョムはそれを受け取り、開かずにシャツの内ポケットへ入れる。胸の奥、認識票の近く。金属が一度だけ冷たく鳴る。
「俺がなくしたら」
ミゲルが言う。
「なくさない」
それだけだった。
ドギョムは少年の肩を一度叩く。慰めではない。命令でもない。まだ立っていろ、という重さだ。
ミゲルはうなずく。だが足は動かない。
ドギョムは整備場の裏手を指す。古い貨物コンテナが並び、その向こうに排水路がある。
「向こうへ行け。フェンスの穴を抜けたら、左へ曲がるな。水の音がするほうへ行け」
「あなたは」
「戻る」
「なんで」
「俺の足跡が途切れたら、すぐここまで来る」
ミゲルはその意味を理解する。自分と一緒に逃げれば、追跡は二人の線になる。ドギョムが戻れば、追う側の目は彼に戻る。
「名前」
ミゲルが言う。
「せめて、名前を」
ドギョムは一拍だけ少年を見る。
「聞くな」
冷たくはない。だが扉を閉める声だ。
ミゲルはそれ以上言わない。紙幣を握り、乾いたシャツの襟をつかみ、排水路のほうへ歩き出す。二歩目で振り返りかける。ドギョムは見ていない。もう整備場の出口を測っている。
少年はようやく走る。足音はすぐ雨に飲まれる。
ドギョムは少し待つ。数える。二十。三十。四十。排水路の金網がきしむ小さな音が遠くで鳴る。それから彼はダッフルバッグを担ぎ直し、来た道を戻る。
雨は強い。だが都合よく何も消してはくれない。
路地へ入ると、彼は自分の足跡に気づく。軍用ブーツの底が、泥と砂利を水たまりの上にはっきり残している。深い。重い。まっすぐだ。迷った者の足跡ではない。
『雑だ』
内心で短く吐く。
割れた街灯、倒した保安官代理、ミゲルのパーカー、識別番号の紙。今夜だけで線が多すぎる。ラウクという名前はまだ知らない。だが、この町には足跡を読む人間がいる。そうでなければ、恐怖はここまで整わない。
ドギョムは水たまりを選んで踏む。途中で二度、鉄板の上を歩く。砂利に残った線を少しでも崩す。完全には消えない。消せないものは、どこへ続くかを曖昧にするだけだ。
サンセット・モーター・インへ戻るころ、看板のネオンは半分死んでいる。雨に濡れた「SUNSET」の文字のうち、SとTだけが瞬く。事務所の窓から、小型テレビの青い光が漏れている。
老人は起きている。
カウンターの向こう、皺だらけの顔がテレビではなく窓の外を見ている。ドギョムが駐車場を横切ると、老人の目はほんのわずかに動く。驚きはない。心配もない。あるのは、何時に誰が戻るかを知っていた者の静けさだ。
ドギョムは歩きながら、老人の手を見る。
片手はカウンターの上。もう片方は下だ。指が小さく動いている。紙を数える動きではない。電話でもない。無線機のつまみを探るような動きだ。古い受信機か、短距離無線か。いずれにしても、ただの眠れない受付ではない。
老人の口は開かない。
ドギョムも止まらない。
七号室へ向かう外廊下に入った瞬間、彼は足を止める。
泥の足跡がある。
自分のものではない。幅が違う。踵の削れ方も違う。二列。廊下の端から七号室の前まで来て、そこで止まり、少し重なって戻っている。濡れた泥はまだ黒い。数分前だ。
一人は重い。もう一人は軽い。片方はブーツの外側が減っている。もう片方は踵を引きずる癖がある。保安官代理か、整備場の男か、別の誰か。
七号室のドアは閉まっている。鍵穴の周りに新しい傷はない。だがノブの水滴が少ない。誰かが触った。
ドギョムは鍵を出さない。
部屋の中には、安いベッド、濡れた領収書の残骸、使っていない石鹸、窓。入れば一秒は背中をドアへ向ける。出るには同じドアを使う。待ち伏せには悪くない箱だ。
彼は廊下をそのまま通り過ぎる。八号室の前で足音を少し変え、非常階段の影へ入る。そこから外へ降り、モーテルの裏手へ回る。
雨樋から水が滝のように落ちている。洗濯室の窓は暗い。ゴミ置き場の横を抜けると、ヘナズ・ダイナーの裏手へ続く細い路地に出る。
食堂の表のネオンは消えている。だが裏口の下から、細い明かりが漏れている。厨房の中で誰かが起きている。
ドギョムは三度叩く。強すぎず、弱すぎず。合図にはならない。ただ、急ぎすぎていない音にする。
中で物音が止まる。
次に、皿の割れる音が一度する。高く、短い。誰かが驚いて落としたのか、わざと音を立てたのかはわからない。
ドギョムは扉から半歩ずれる。開いた瞬間に正面へ立たない。右手は空。左手はダッフルバッグのストラップ。濡れた指先から雨水が落ちる。そこに血は少し混じっている。ミゲルのものか、保安官代理のものか、自分のものか、もう分けられない。
鍵が一つ外れる。次にチェーンが鳴る。
扉が細く開く。
ユン・ヘナの目が現れる。黒髪は後ろで乱れなく束ねられ、左手首の古い火傷の跡が袖口から見えている。彼女はまず、ドギョムの顔を見ない。胸元もバッグも見ない。
雨に濡れた彼の手を見る。
沈黙が一拍落ちる。厨房の奥で、古い冷蔵庫だけが低く唸っている。ヘナの目が、手から外套、泥のついたブーツ、そして最後にドギョムの顔へ上がる。
「何をしたんですか」
その問いが終わる前に、路地の向こうでモーテルのほうから、短い無線ノイズが雨を裂いて聞こえた。
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
9話 去るか、留まるかの朝
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