ドギョムはミゲルの手首ではなく、布で固定していない左腕をつかむ。
力は強すぎない。だが逃がさない角度だ。少年の足が水たまりを蹴り、二人はガソリンスタンドの裏から路地へ抜ける。割れた街灯の光はもうない。店内の受信機だけが、濡れたガラス越しにまだ低く喚いている。
「東側スタンド、応答しろ」
その声を背中に受けたまま、ドギョムは歩幅を落とさない。走れば足音が跳ねる。ミゲルの膝ももたない。雨はまた強まり、ネオンの切れかけた看板を赤くにじませる。遠い道路で、パトカーのサイレンが短く鳴る。長く鳴らさない。町の人間に知らせるためではなく、町の人間を黙らせるための音だ。
路地はガソリンと古い油の臭いがした。片側はスタンドのブロック塀、反対側は廃材置き場の波板フェンス。足元には割れたビール瓶と、雨でふやけた段ボールが散っている。
ミゲルが一度つまずく。ドギョムは腕を引き上げる。
「足を動かせ」
「動かしてる」
声は震えている。怒りではない。いまは別のものだ。保安官代理が押し込んだビニール袋を見たときから、少年の体の奥で何かが凍っている。
ドギョムはそれを読んでいる。薬を仕込まれた恐怖だけではない。ビニール袋の中身が何を意味するか、ミゲルは知っている。知っているから震える。
尋ねるな。
そう判断する。問いは足を止める。答えはもっと足を遅くする。今は角を二つ越え、回転灯の線から外れることが先だ。
だがミゲルのほうが先に口を開く。
「姉さんも、あれでやられた」
ドギョムは振り返らない。雨の向こう、路地の出口を見たまま進む。
「アルマか」
ミゲルの指が、ドギョムの外套の裾をつかむ。右手ではない。負傷した指をかばい、左手だけで必死に布を握る。
「二か月前です。学校の帰りに、リハビリセンターの人間が来た。保安官代理も一緒だった。アルマは何もしてない。なのに、処方違反だって。薬を売ったって。そんなの嘘だ。姉さんは母さんの薬だって触らなかった」
雨水が少年の顔を伝う。血なのか水なのか、もうわからない。
ドギョムは路地の壁沿いに寄る。前方の交差路を赤い光が一度舐める。まだ遠い。だが近づいている。
「面会は」
「一度も」
即答だった。答えるために待っていた言葉のように、硬く出る。
「申請書を出しても、記録がないって言われる。窓口に行くと、担当者が変わったって言われる。学校の先生は、静かにしろって言う。友達の親は、俺と話すなって子供に言う」
ミゲルは息を吸おうとして咳き込む。肋骨を押さえ、歯を食いしばる。ドギョムは片手で彼の背中を支え、ゴミ箱の陰へ一拍だけ押し込む。
サイレンは止んだ。代わりにタイヤが濡れた道路を切る音が近づく。
「母さんもそうだった」
その声はさらに低い。
「一年前。腰が悪くて、鎮痛剤をもらってた。薬局で言われたんです。処方が多すぎるって。母さんは医者が出したんだって言った。そしたら保安官代理が来て、検査だけだって。リハビリセンターで数日だけ話を聞くって」
ミゲルの目がドギョムの横顔を見る。助けを求める目ではない。もう何度も助けを求めて、誰にも届かなかった者の目だ。
「それきりです」
ドギョムは何も言わない。
何も言わないことが、少年に続きを吐かせる。雨音だけが二人の間に落ちる。
「この町で消えた人は、みんなあそこへ入れられるんです。入れられて、記録まで消されるんです。名前で呼ばれなくなる。窓口の女は言いました。そんな患者はいませんって。でも俺、見たんだ。数字で呼ばれてる紙を」
ドギョムの視線が、初めてミゲルへ落ちる。
少年は濡れたパーカーのポケットへ左手を入れる。動きが鈍い。指がかじかんでいる。やがて、くしゃくしゃに丸められた紙片を取り出す。レシートの裏のような薄い紙だ。雨で端が溶けかけている。
ドギョムは受け取らない。ミゲルの手の中を覗く。
五桁の数字。
その下に日付が一つ。名前はない。施設名もない。数字と日付だけが、乱れた鉛筆の線で書かれている。
ドギョムの目が細くなる。物流伝票なら社名がある。患者番号なら欄がある。これは違う。急いで写したものだ。見てはいけないものを、目だけで盗み、紙へ落とした数字だ。
「どこで手に入れた」
ミゲルの口が閉じる。
さっきまで吐き出していた言葉が、そこで切れる。喉の奥で固まる。恐怖が戻る。自分のことではない。誰か別の人間を守る沈黙だ。
ドギョムはそれ以上聞かない。
遠くの角で、白いヘッドライトが濡れた壁に回る。赤と青ではない。前照灯だけだ。サイレンを切って来ている。
「紙をしまえ」
ミゲルは慌てて丸め直す。だが指がうまく動かず、紙が落ちかける。ドギョムはその手首を押さえ、ポケットへねじ込ませる。
「出すな。誰にも見せるな」
「あなたには見せた」
「俺も誰にも見せない」
ミゲルはその短い返事を聞いて、なぜか息を詰める。信じたい顔になる。だが信じることに慣れていない顔でもある。
ヘッドライトが路地の入口を白く切る。
ドギョムは一瞬で周囲を測る。右側に廃材の山。濡れたパレット、錆びた鉄板、壊れたエアコンの外枠。子供一人なら入る隙間がある。左側の塀は高いが、ブロックの継ぎ目が崩れている。上には有刺鉄線がない。
「そこ」
ミゲルの背を押す。少年は抗う暇もなく、廃材の山の後ろへ倒れ込む。ドギョムは上からパレットを少しずらし、外から見える線を消す。
「動くな。息も小さくしろ」
「あなたは」
「黙れ」
ミゲルの口が閉じる。
ドギョムは反対側の塀へ向かう。助走は二歩。濡れたブロックの欠けに靴先をかけ、左手で上端をつかむ。肩は無駄に動かない。体が影のように上がり、塀の上に腹を預ける。外套の裾から雨水が落ちる。
パトカーが路地の入口で止まる。
ライトがまっすぐ奥を舐める。白い光がゴミ箱を照らし、割れた瓶を光らせ、廃材の山の端をかすめる。ミゲルの靴先がほんの少し出ている。
ドギョムは塀の上から、手近な空き缶を指で弾く。
缶は反対側の暗がりで跳ね、甲高い音を立てる。
ライトがそちらへ流れる。運転席の影が動く。助手席の男が窓を下げ、懐中電灯を向ける。
「今、音がしたぞ」
「猫だろ」
「ここは猫も通報する町だ」
短い笑い。だが降りてこない。彼らはまだ、縛られた二人を見つけた直後ではない。応答不能の確認に来ただけだ。センター案件を逃がすなという命令の意味も、正確には共有されていない。
ヘッドライトがもう一度、路地を舐める。
ミゲルの肩が廃材の奥で震えている。パレットの隙間から、片目だけが見える。ドギョムは塀の上で動かない。雨が短く刈った黒髪を叩き、頬を伝う。顔に表情はない。あるのは距離だけだ。車まで十二メートル。助手席の男の手は窓枠。運転席の男の右肩は腰の銃より遠い。
だが今はやらない。
パトカーは数秒そこに留まり、やがてゆっくり前へ出る。タイヤが水たまりを踏み、白い光は路地の奥から外れる。赤い尾灯が雨の膜の向こうへ沈む。
ミゲルはまだ動かない。命令を守っている。
ドギョムは塀から音もなく降りる。廃材の山へ戻り、パレットをずらす。ミゲルが顔を上げる。唇は青い。目だけは、さっきよりはっきりしている。
「行った?」
「まだ近い」
ドギョムは耳を澄ませる。遠ざかるエンジン音。別の角で短く鳴る無線。雨の中、町全体がこちらへ首を向け始めている。
ミゲルがポケットの上から、くしゃくしゃの紙を押さえる。
「俺、言ってないことがある」
ドギョムは彼を見る。
「今はいい」
「でも」
「今は生きてろ」
短い言葉が、路地の冷たい空気に落ちる。ミゲルはそれを聞いて、何かを飲み込む。質問でも、謝罪でもない。もっと危ないものだ。希望に近い。
ドギョムは来た道ではなく、廃材置き場の奥へ伸びる細い通路を見る。町外れの貨物整備場へ抜ける線だ。逃げ道としては悪い。だが追う側が最初に選ぶ道ではない。
彼はミゲルの左腕をもう一度つかむ。
その手の強さが、さっきと少し違う。引きずって逃がす手ではない。連れていく手でもない。
戻る場所を決めた人間の手だ。
ミゲルは顔を上げる。雨と血で汚れた少年の視界に、ドギョムの目が映る。数分前まで、その目は出口を探していた。バス、貨物路線、町の外へ続く暗い道だけを測っていた。
今は違う。
ドギョムは去っていく者の目をしていない。路地の奥、リハビリセンターの白い建物がある方角を、静かに測っている。
そして低く言う。
「走るぞ」
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
8話 ヘナの裏口に響く無線
次の話