ラウクの声が「古い信号所」と言ったあと、地下室の誰もすぐには息を戻さない。まだ餌を置いていない場所を、相手はもう巡回表に戻している。偶然として捨てるには、ラウクという男は紙の上で慎重すぎる。
ドギョムは鉛筆を拾わない。かわりに地図の上へ左手を置き、鉄道駅に打った小さなXを隠す。濡れたコンクリートの壇には、郡コンベンションホールの平面図、分岐D-3の図面、JR32の紙片、会計の写しが入ったメモリーカードが並んでいる。すべてを一度閉じかけ、また広げ直す。
「決行は五日後だ」
短い言葉で、地下室の時間がそちらへ動く。
ヘナは最初に立つ。焼けた食堂の店主ではなく、もう別の場所の台所を作る人間の動きだ。教会脇の廃倉庫から運んできた非常用発電機は、油と埃の臭いをまとっている。ディナが片側を支え、ヘナが信徒席の下へ押し込む。古い木がきしむが、床板は抜けない。
「音は」
ドギョムが聞く。
ヘナは発電機の側面を指で叩く。
「毛布を二枚巻けば、雨の日なら外へ出ない。乾いた日は使わない」
「排気」
「後ろの割れた通気管へ逃がす。逆流したら切る」
答えは先に用意されている。ドギョムはうなずくだけだ。
ヘナはさらに救急キット四つを数える。ひとつはジョアンの寝台の下。ひとつは非常梯子の横。ひとつは壇の裏。最後のひとつは、断熱材の隙間へ押し込む。負傷者用の折りたたみ野戦ベッド二台は、薄い毛布と古い聖歌集の箱で隠される。祭壇の下から見ればただの廃材だが、引き出せば十秒で寝台になる。
「死なせないための場所です」
ヘナは低く言う。
「撃ち合う場所じゃない」
「そうしろ」
ドギョムはそれ以上言わない。だが視線だけは、入口、換気口、寝台、発電機、非常梯子を順に測っている。
その間に、グラディスとディナが戻る。二人とも雨合羽の肩を濡らし、息を切らしている。ディナは胸に古い端末を抱え、グラディスはケーブルと電源アダプターを紙袋に入れている。
「食料品店の倉庫に残っていたわ」
グラディスは端末を壇の横へ置く。外来受付用の古い機械だ。白い筐体は黄ばみ、画面の隅に郡病院のロゴが薄く焼きついている。
「まだ郡サーバーへ入れるのか」
「受付権限だけ。でも外来記録、死亡診断書の発行履歴、署名欄画像の一部は見られる。閉じられていない扉がある」
ディナが小さく笑う。笑いというより、息を漏らしただけだ。
「店主は知らないふりをした。倉庫の鍵も、私たちが落としたことになってる」
「見られたか」
「一人。缶詰の棚の前にいた女の人。何も言わなかった」
グラディスは端末のケーブルを広げながら、手を一度止める。
「何も言わない人が、いま一番怖いわね」
ドギョムはその言葉を否定しない。紙の町では、黙っている人間も記録の一部になる。
ジョアンは毛布の上で体を少し起こしている。包帯を巻かれた手を膝の上に置き、その目だけが端末の画面を静かに見据えている。血はまだガーゼの奥から薄くにじむが、彼女は眠っていない。
「それで、死亡欄を引ける」
「引けるはずよ」
グラディスが答える。
「ただし、長くつなげば向こうにも見える。必要な時だけ。七分以内」
「七分で十分だ」
ドギョムはそう言い、コンベンションホールの平面図の端へ、外来端末と書いた小さな四角を追加する。
アルマは壇の反対側で、識別番号名簿を写している。グラディスが選んだ空欄の行は七十。死亡日も死因も署名もない、町が穴のまま残した行だ。アルマの鉛筆は、一行ずつ数字を写し、その横へ空白をそのまま引き写す。
名前を書ける行は少ない。生きていると確認できた者だけ。死亡診断書が存在する者は別紙。残りは、数字の横に何も入れない。
ミゲルは姉の手元を見ないようにして、弁当箱の留め具をいじっている。包帯を巻いた二本指は動かせない。親指と薬指だけで金具を押さえるたび、痛みに眉がわずかに動く。
アルマの鉛筆が止まる。
そこには、母の番号がある。写真の裏に残っていた五桁の数字。ジョアンの名簿にもあり、グラディスの死亡記録にも穴として残った番号。生存者の列にはない。死者の列にも、まだ置けない。
アルマはその横へ名前を書こうとして、鉛筆の先を浮かせたまま止める。
ミゲルが見ないふりをやめる。息だけが浅くなる。
「書かないで」
彼が言う。震えた声だが、逃げてはいない。
アルマはしばらく数字を見つめる。それから、空欄を空欄のまま写す。鉛筆の線は細い。だが消していない。
「まだ、どっちにも入れない」
「うん」
ミゲルは短く返す。弁当箱を膝の上で抱え直す。
ドギョムはそのやり取りを、地図から目を上げずに聞いている。名前を入れないことも、作戦の一部だ。町が決めた死ではなく、まだ奪われたままの穴として見せる。それが家族には一番痛く、紙には一番弱い。
「鍵です」
ミゲルが立つ。ポケットから小さな輪を取り出し、ドギョムの前に置く。青いプラスチックのタグには、学校名と、かすれた黒字でDRONE CLUBとある。
「機材室。顧問がイベントの飾りつけで体育館へ行ってる間なら、入れます。夜間カメラは二つ。バッテリーは、充電できれば四本」
「持ち出すな」
ドギョムは鍵を受け取る前に言う。
ミゲルの顔が固まる。
「現場で組め。箱ごと消えたら学校が先に締まる。必要な部品だけ、別々に出せ」
ミゲルは一拍考え、うなずく。
「機体一つを壊れたことにします。ローターは修理箱へ。カメラは弁当箱。バッテリーは自転車の工具袋に」
「尾灯は使うな」
「一回だけなら」
「今回は使うな」
その言い方で、ミゲルは余計な反論を飲み込む。尾灯の赤は一度、彼を清掃用具入れの前まで追い込んだ。二度目はない。
ドギョムは鍵を受け取る。小さい金属が、彼の手の中で音もなく沈む。
「航路は二つ。裏庭とD-3。もう一つは南の輸送路」
「三つです」
ミゲルが言う。
ドギョムが目だけを上げる。
「最初の二機で足りません。でも、片方を戻してバッテリーを替えれば、砂漠側まで追えます。追うんじゃなく、映すだけです」
ドギョムは少年の目を見る。そこに焦りはある。姉を取り戻したあとも、母の空欄が残っている者の焦りだ。
「映したら戻せ」
「戻します」
その答えを、アルマが横で聞いている。止めない。代わりに、母の番号の横の空白をもう一度なぞる。
換気口の外では、雨に混じって遠いラジオが聞こえる。食料品店のカウンターに置かれた安い受信機だ。町長の声が、甘く謝罪する。
「住民の皆さまにはご不便をおかけしております。外郭規制の解除につきましては、道路安全確認と通信設備点検のため、さらに一週間延期させていただきます」
ディナが顔を上げる。
「一週間……」
プライスは続ける。安全のため。秩序のため。復興のため。言葉は磨かれている。だが意味は一つだ。出さない。入れない。見せたいものだけを見せる。
ドギョムはコンベンションホールの広場に置いた点を、鉛筆の腹で黒く濃くする。
その時、受信機がざらつく。プライスの声が切れ、低い別の周波数が地下室へ落ちる。
「解体屋のディーゼル領収書、先月分を全部持ってこい」
ラウクだ。
「缶詰、電池、包帯の売上も同じ日付で並べろ。教会側の店を先に見る」
ヘナの手が発電機の上で止まる。ディナが断熱材の隙間を見る。グラディスは外来端末のケーブルを握ったまま、顔から血の気を失う。
ドギョムは地図の上の鉄道駅のXを見ない。代わりに、地図上の教会の方へ視線を落とす。そして、信徒席の下に隠した発電機、断熱材の中の救急キット、アルマが空欄のまま写した七十行を静かに見渡す。
ラウクは餌の匂いではなく、彼らが生き延びるために買った物の匂いを嗅ぎ始めている。
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
82話 JR32の送信予約時刻
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