ノックは三度で止まらない。
海凛はラックの電源を落とさず、机の下から薄い録画端末を引き出す。道允は黒くなった画面から目を離し、事務所の扉を見る。電子錠は使っていない。だから外にいる者は、鍵の開閉記録ではなく、物理的にここへ来た。
「尹海凛弁護士。開けてください」
男の声は知らない。庁の制服職員のような命令口調ではないが、後ろに立つ気配が一つではない。
海凛は扉へ近づかず、低く言う。
「令状番号を告げてください。任意確認なら、書面を郵便受けへ」
沈黙が落ちる。次に返ってきたのは、紙を差し込む音ではなく、廊下の奥で誰かが無線を押す小さな電子音だった。
道允は端末を袖へ戻す。
「追跡ですか」
「たぶん、まだ正式手続きではありません。扉を開けさせて中を見る口実を探している」
海凛は保安ラックの下段を開け、差分保存用の小さな記憶媒体を抜く。白昌浩の原本記録はほとんど消えた。だが録画には、『加害記憶分離後安定化』『代替対象者』『収容者代替移植完了』、そしてNAC-04-113Aの表示が残っている。
「ここにいれば押し込まれます」
「どこへ」
道允は聞くが、答えは自分の中にある。
父のところへ行くしかない。
白昌浩が何を知っていたのか。知らずに署名したのか。誰かに強いられたのか。それとも、あの穏やかな食卓の向こう側で、ずっと知っていながら黙っていたのか。
海凛は裏窓の防犯格子を外しながら言う。
「私は証拠を裁判所側へ逃がします。あなたは一人で行くんですか」
「父は、俺には開ける」
「録音を」
「します」
「感情で問い詰めないでください。相手が父親でも、証言者です」
道允はうなずく。だが胸の奥で、証言者という言葉がひどく遠い。白昌浩は証言者ではなく、彼の家の床を軋ませていた足音そのものだった。
二人は事務所の裏手に出る。海凛が隣の古い配管室を通じて別の階段へ下りる間、道允は非常階段を反対側へ降りた。廊下の上階で扉が開く音がしたが、振り返らない。朝の街はすでに人で満ち始めている。誰も、彼の袖の中に父の失われた暴力の証拠が入っているとは知らない。
白昌浩の住む古いアパートは、ソウルの端にある。再開発地区から外れ、塗装の剥げた外壁に小さな室外機が並んでいる。道允はエレベーターを使わず、階段で四階まで上がる。父の部屋の前には、昔と同じ薄い茶色の玄関マットが置かれていた。端が少しほつれている。矯正後の父は、こういうものを捨てない。壊れていなければ使える、と穏やかに言う。
呼び鈴を押す前に、扉が内側から開いた。
白昌浩が立っている。灰色の家着に薄いカーディガンを羽織り、髪には白いものが増えている。頬は痩せたが、表情は柔らかい。十年前、怒鳴り声で家の空気を割っていた男と同じ顔なのに、眼差しだけが別人のように静かだった。
「来たのか、道允」
その声に、道允の身体が遅れて反応する。幼い頃なら、この声色の次に何が来るかを読んで、肩をすくめていた。今の父の声には、棘がない。だからこそ、見知らぬものに見える。
「連絡できなくてすみません」
「いいんだ。忙しいだろう」
白昌浩は道を開ける。部屋の中には、煮物の甘い匂いと温かい湯気があった。小さな食卓に二人分の箸が置かれ、汁椀の横には薄切りの肉とキムチ、冷めないよう蓋をされた鍋がある。壁には、地域更生支援センターから送られた小さな感謝状が飾られていた。
矯正記念日。
道允は玄関で靴を脱ぎながら、その言葉を飲み込む。父は毎年、この日だけは連絡を寄こす。自分が変われた日だと。家族を壊さずに済んだ日だと。道允もまた、その言葉に救われたふりをしてきた。
「母さんは」
「今日は姉さんのところだ。腰の治療でな。お前が来るかもしれないと言ったら、残念がっていた」
白昌浩は自然に茶を注ぐ。湯飲みを置く指先は細く、爪はきちんと切られている。酒の臭いはしない。部屋は片づいている。食卓の角に置かれた薬袋まで、きれいにそろっている。
「座れ。冷める」
道允は座る。箸には手をつけない。白昌浩は向かいに腰を下ろし、少し笑う。
「今年で、何年になるかな」
「十年です」
「そうか。十年か」
白昌浩はしみじみと言う。その声には自慢も弁解もない。ただ、毎年繰り返してきた感謝の形があるだけだ。
「今でも、ありがたいと思っている。あの手続きを受けなかったら、私はきっとお前にも、お前の母さんにも、もっと取り返しのつかないことをしていた。怒りが来る前に、自分で止まれるようになった。酒を見ても、昔のようにはならない。人は変われるんだと、私は……」
父の言葉が続くほど、道允の中で何かが冷えていく。
人は変われる。
その言葉を、彼は何度も仕事の中で使ってきた。対象者に向けて。遺族に向けて。自分自身に向けて。父が変わったという事実が、制度の最後の支えだった。
だが画面に残った文字は、変化ではなく分離だった。
「父さん」
道允は湯飲みに触れないまま言う。
「矯正のとき、何を受けたか覚えていますか」
白昌浩の箸が止まる。ほんの一瞬だ。普通なら見逃すほど短い。だが道允は執行室で、対象者の瞳孔と指先の反応だけを見てきた。
「被害者の記憶だと聞いた」
「誰の」
「詳しいことは、教えられなかった」
「本当に」
白昌浩は視線を鍋へ落とす。
「道允。今日は食事をしに来たんじゃないのか」
道允は返事をしない。胸ポケットの中で録音端末が微かに熱を持っている。
「代替移植、という言葉を知っていますか」
部屋の空気が変わる。
白昌浩の指先が湯飲みの横で完全に止まる。さっきまで湯気を含んでいた食卓が、一瞬で冷えたように感じられる。壁の時計の秒針だけが、乾いた音を立てる。
「どこで、その言葉を」
父の声はまだ穏やかだった。だが穏やかさの下に、硬いものが沈んでいる。
「記録にありました」
「お前の仕事の記録か」
「父さんの原本記録です」
白昌浩は目を閉じる。長い沈黙のあと、薄く息を吐く。
「私は、誰の記憶を受け取ったのかは知らない」
「受け取ったんじゃない」
道允の声が低くなる。
「父さんから抜かれた。怒り反応、支配衝動、身体暴力手続き記憶。そう記録されていました」
「やめなさい」
初めて、白昌浩の声に鋭さが混じる。
道允の背中が反射的に強張る。十年前の身体が、今の部屋で目を覚ます。だが父は立ち上がらない。手も上げない。ただ、目を逸らす。
その反応が、答えだった。
「父さんは知っていたんですね」
「全部を知っていたわけじゃない」
「何を知っていた」
「更生のための非公開手続きだと説明された。私には通常の共感記憶導入が効きにくいと。家族に危険が残ると。代わりの処置を受ければ、もうお前たちに手を上げずに済むと」
「代わりに、誰かへ渡すと聞いたのか」
白昌浩は答えない。
道允は立ち上がる。父の寝室へ向かう。白昌浩も立ち上がりかけるが、途中で動きを止める。止める資格がないと悟ったように。
寝室は狭い。古い箪笥と低いベッド、窓際の小さな机。道允は引き出しを一つずつ開ける。保険証券、病院の領収書、母への仕送り控え。三段目の奥、板の裏に薄い封筒が貼り付けられている。
指を差し込んで剥がすと、古い紙の匂いがした。
居間へ戻る。白昌浩は食卓の前に立ったまま、顔色を失っている。
「道允」
「開けます」
封筒の中には、記憶矯正庁の非公開相談承認証と、折り畳まれた誓約書が入っている。紙は古く、角が黄ばんでいた。だが押印は鮮明だった。相談承認証の右上には、公開記録にない処理区分がある。
『非標準更生処置』
『相談承認、上位機関経由』
『承認識別、NAC-04-113A』
道允は息を止め、誓約書を開く。
文字は事務的だった。処置内容の詳細を第三者へ開示しないこと。処置後に発生する記憶感覚の空白、人格傾向の変動について異議を申し立てないこと。代替対象者の身元を照会しないこと。家族に関連する過去記憶の一部が鈍化する可能性を承諾すること。
最後のページに、白昌浩の署名がある。震えた字ではない。ゆっくり書いた字だ。その下に、小さな赤い印が押されていた。
『加害記憶譲渡同意』
道允の視界が細くなる。
更生ではなかった。
父は罪を悔いて変わったのではない。自分の中にあった暴力の手触りを、怒りの順序を、殴る直前の支配感を、どこかの誰かへ押しつける契約に署名していた。道允の幼い恐怖は、家の中で終わったのではない。別の身体へ運ばれ、別の人生を壊すために使われた。
「誰に渡した」
道允は紙から目を上げずに聞く。
白昌浩は唇を震わせる。
「知らない。本当に、知らないんだ」
「知らなければよかったんですか」
「私は、お前たちを守りたかった」
「守ったんじゃない」
道允は誓約書を握る。紙が手の中で潰れ、指先から血の気が消えていく。
「父さんは、自分の暴力を捨てたんです。人間の中へ」
そのとき、折り目の内側から薄い別紙が滑り落ちた。道允は拾い上げる。そこには誓約書番号と、黒塗りの代替対象者欄があった。だが塗りつぶしの端に、削り残された二文字が見える。
金道――。
白昌浩がそれを見た瞬間、初めてはっきりと怯えた顔をした。
「見るな、道允」
道允は紙を持つ手を下げない。胸の中で、父への怒りより先に、まだ顔も知らない誰かの叫びが立ち上がる。彼は録音端末を切らず、海凛へ送信待機をかけたまま、静かに言う。
「この人を探します。父さんが捨てたものを、今も背負っている人を」
罪を消す国は、妹の記憶でできていた
24話 金道植の病室で聞いた声
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