道允が別紙を撮影して送ると、海凛からの返信は一分もかからず戻ってくる。
『誓約書番号を。左下の管理番号です』
食卓の向こうで、白昌浩は椅子に座り込んでいる。鍋の湯気は薄くなり、部屋の匂いだけが家庭の形を保っていた。道允は父を見ない。別紙の左下、紙の繊維に埋もれかけた数字列を読み上げる。
「KC-RD-1049-77。処置年度、十年前」
すぐに海凛の音声がつながる。背後で端末の打鍵音が鳴っている。
「現行の矯正庁索引には残っていません。裁判所側の廃棄文書データベースを当たります。非公開処置の照会票は、廃棄申請の時に一度だけ裁判所の整理番号を通ります」
「捨てた書類が残るんですか」
「紙は捨てても、捨てた記録は残ります」
白昌浩がかすれた声で言う。
「道允、もうやめてくれ。私は……その人が誰か、本当に知らない」
「知らないまま署名したんですね」
「お前たちを守るためだった」
「その言葉は、今は証言としてだけ残します」
自分の声が冷たいことに、道允は気づく。冷たくなければ壊れる。父を責める言葉はいくらでも出てくる。だがその一つ一つは、金道――の二文字の向こうにいる誰かを探す時間を奪う。
海凛が短く息を吸った。
「出ました。廃棄申請の添付索引です。対象者名、金道植(キム・ドシク)。当時四十二歳。長期懲役囚。分類は高危険収容者。移植後、一般刑務所から療養監護所へ移管されています」
金道植。
名前が確定した瞬間、黒塗りの二文字が人の形を持つ。父の暴力を押し込まれた身体。自分の家の廊下で終わったはずの怒声を、別の頭の中で何度も聞かされた男。
「生存は」
「あります。京畿郊外の療養監護所。記憶矯正後の重度副作用対象者として保護収容中。面談記録が裁判所に断片保存されています」
「行きます」
「今すぐ出てください。私も向かいます。白昌浩氏には触れないで。追加証言が必要になります」
通話が切れる。道允は誓約書を封筒ごとジャケットの内側へ入れる。白昌浩は何かを言いかけるが、言葉にならない。
玄関で靴を履く道允へ、父がようやく声を絞り出す。
「道允。私は、あれから一度も手を上げていない」
道允は扉に手をかけたまま止まる。
「その手の感覚を、誰が覚えていたか確認してきます」
療養監護所は市街地の外れ、低い山を背にした灰色の施設だった。病院と刑務所の中間のような建物で、窓には強化格子が入り、正門横には『神経安定保護区域』の青い標識がある。
海凛は先に到着していた。細身の黒いスーツに灰色のコート、乱れた髪を束ね直す暇もないまま、受付カウンターへ紙の決定文を置く。
「裁判所証拠保全申請の補充閲覧です。対象者、金道植。白昌浩非標準更生処置との関連記録を確認します。拒否する場合は、施設長名と根拠条項を書面で」
受付職員は画面を見て顔を曇らせる。背後の警備員が一歩寄るが、海凛は録画端末を胸元に掲げるだけで視線を動かさない。数分後、二人は消毒薬の匂いが濃い閲覧室へ通される。
金道植の面談記録は、紙ではなく古い映像ファイルで保存されていた。初回面談は移植の翌日。画面の中の男は頬がこけ、手首に拘束帯の痕をつけている。長期囚らしい荒さは残っているが、目は混乱で泳いでいた。
『俺は女房も子どももいない』
記録映像の中で金道植が叫ぶ。
『なのに毎晩、台所の床が見える。小さい男の子が廊下に立っている。俺の手が上がる。俺の手じゃないのに、上がるんだ。酒の臭いが喉から出る。俺は飲んでない。俺はそんな家にいたことがない』
道允の指先が冷える。海凛は再生を止めない。止めれば、証拠がただの断片になる。
二回目の面談。金道植は自分の頬を爪で裂いている。医療官が鎮静を指示し、記録者が副作用欄へ『移植記憶への過剰同一化』と打ち込む。
『違う、同一化じゃない。あいつが怒る前の息が来る。皿が当たる音で、胸が熱くなる。子どもが息を止めるのを見て、もっと腹が立つ。やめろ。俺はそんなことをしてない』
映像の奥で、金道植は自分の手を壁へ叩きつける。骨が鳴る音が小さく拾われる。
三回目。彼は拘束ベッドに固定され、目だけを動かしている。
『白……白、何とかいう男だ。そいつの腹の中から来る。あの子を黙らせろって、頭の後ろで言う。俺は違う。俺は人を殴ったことはある。だが、子どもを殴ったことはない。そんな記憶で俺を裁くな』
白。
道允の喉の奥が塞がる。海凛の横顔も硬い。記録はさらに続く。夜間自傷、食事拒否、幻臭、酒精反応、架空家族への加害罪悪感。医療官はそのたびに薬量を増やし、面談欄には同じ語が並ぶ。矯正効果不安定。人格境界混乱。自己罪悪感反応過剰。
誰も、これは他人の罪だと書いていない。
道允は画面から目を逸らせない。幼い自分の記憶は欠けている。だが身体は覚えている。父の影が廊下に伸びる前、母が息を呑む前、空気の密度が変わるあの瞬間。それが白昌浩の中から抜かれ、金道植の脳へ押し込まれた。父の家が静かになった分、ここで誰かが毎晩壊れていた。
「治癒じゃない」
道允はかすれた声で言う。
「移しただけだ」
海凛がうなずく。
「暴力の記憶を処理したのではなく、責任の感覚ごと別の対象者へ転嫁しています。金道植氏が犯した罪とは別に、白昌浩氏の加害反応を背負わせた」
「父は、楽になった」
「はい」
「その代わりに、この人が壊れた」
言葉にすると、骨の奥まで沈む。道允が信じてきたものは、父が変わったという小さな事実だった。その小さな事実は、別の人間の人生を燃料にしていた。彼は執行官として更生を語り、何度も対象者へ痛みを流し込み、制度は人を変えられると信じてきた。だが制度は、変化の代金を誰の身体から引き落としているのかを隠していただけだった。
閲覧室の扉が開き、白衣の職員が入ってくる。
「面談を希望されるなら、五分だけです。対象者は反応が不安定です。刺激語は禁止されています」
海凛が即座に立つ。
「刺激語の定義を文書で」
「白昌浩、家族、暴力、子ども。特にその四語です」
道允は目を閉じる。禁止されている四語のすべてが、この事件の中心だった。
病室は隔離棟の奥にある。厚いガラス窓の向こうで、金道植はベッドの上半身を起こされた姿勢で座っている。髪は薄く、頬は落ち、腕には古い自傷痕が何本も走っていた。モニターは暗く、心拍だけが別室の端末へ送られているらしい。彼の目は開いているが、焦点はどこにも合っていない。
道允はガラス越しに立ち止まる。会う資格があるのか、わからない。謝る資格はもっとない。金道植に暴力を移したのは父であり、処置を設計したのは制度だ。それでも、その暴力で息を止めていた子どもは自分だった。
海凛が小さく言う。
「白道允さん。今は崩れないでください。彼は証拠である前に、被害者です」
「わかっています」
「なら、見てください」
道允はガラスへ一歩近づく。職員が室内マイクを入れる。軽いノイズが鳴った瞬間、暗かった病室のモニターが突然点灯する。
『外部刺激反応、検出』
『未登録音声層、浮上』
金道植の指が、シーツの上でぴくりと動く。焦点のなかった目が、ゆっくりとガラスへ向く。彼は道允を見ていないはずだった。だがその瞳の奥で、別の誰かがこちらを認識したように、濁った光が立ち上がる。
金道植の唇が震えた。
「……道允」
それは金道植の声ではなかった。十年前、台所の奥から名前を呼ぶ前に必ず怒りを噛み殺していた、白昌浩の低い口調だった。
「そこに、いたのか」
罪を消す国は、妹の記憶でできていた
25話 消された記憶の扉が開く
次の話