灰色の受付ボタンは、何度見ても戻らない。
海凛(ヘリン)は送信画面を閉じず、告知欄の公印を拡大する。濡れた髪の先から落ちた水が端末の縁に溜まっているが、彼女は拭こうともしない。国民安定化プロジェクト。総括諮問責任者、呉世俊(オ・セジュン)。共同推進名義には、記憶矯正庁だけでなく、保健福祉部、市民危険評価センター、司法技術委員会まで並んでいる。
「通常受付対象外。国家安保例外条項……」
条項番号の末尾には、施行から二時間も経っていない臨時告示番号が付いていた。
道允(ドユン)は濡れた袖を握る。告発状が完成した瞬間に、受付口そのものが塞がれた。偶然ではない。青松(チョンソン)旧実験棟で何を持ち出したか、こちらがどこへ投げるかまで読まれている。
「裁判所電算網に、任命前の予算付属表が残っているはずです」
海凛が言う。
「通常受付が閉じても、予算審査資料は別系統です。総括任命の前に登録された添付なら、更新漏れがある」
「探しましょう」
道允は即答する。休めと言う声は、どちらの口からも出ない。無人車両は山道を抜け、ソウルへ向かう高速道路へ入る。夜明けが白くなり、都市の輪郭が現れるころ、二人は裁判所記録保存棟近くの無人駐車場に車を止めていた。
海凛は古い裁判所用の閲覧端末を起動する。外部回線を細く絞り、過去の予算添付だけを索引する。道允は隣で、呉世俊の任命告知に含まれた共同推進機関名と、青松実験棟から持ち出した署名時刻を照合する。
画面には、いかにも柔らかな名称が浮かぶ。国民心理回復支援。地域不安緩和プログラム。災害後感情安定化相談網。被害者再適応補助事業。
どれも、表向きは治療に見える。
「名称では追えません」
道允は一覧を下へ送る。
「送金先で見ます。装備、回線、原本参照料」
海凛の指が止まる。付属表のひとつに、心理回復支援の中核費用として、記憶矯正庁全国支部ネットワーク増強費が計上されている。別紙では保健福祉部の市民危険評価センターへ、相談データ連携費が流れていた。さらに司法技術委員会の名義で、裁判証拠記憶の参照規格更新費が足されている。
「心理支援じゃない」
道允は数字を見る。
「全国の相談装備と矯正装備を、同じ網に繋ぎ直している」
「市民危険評価センターが中継です。医療相談、失業給付、デモ履歴、裁判所の制限証人分類まで合わせられる」
海凛の声は乾いていた。彼女は付属表の奥にある権限管理ファイルを開く。通常なら黒塗りになるはずの分類項目が、臨時任命前の古い版として残っている。
『安定化記憶少量移植、予備群抽出基準』
道允はその行を見た瞬間、背中に冷たいものが走る。
予備群A。失業給付受給者のうち、反復申請者、公共機関への不満記録あり。
予備群B。うつ病または適応障害診断者のうち、社会不安発言、治療中断歴あり。
予備群C。集会、デモ参加履歴を持ち、行政命令に対する否定的発話記録あり。
その下に、小さな注記がある。
『強制処分ではなく、国民心理回復支援に付随する選択的微量移植として処理』
海凛の唇がわずかに白くなる。
「治療対象ではありませんね」
「ああ」
道允は声を落とす。
「不満を持つ市民を、危険反応として分類している」
姜武鎮(カン・ムジン)の椅子。金道植(キム・ドシク)の焦点の合わない目。尹泰謙(ユン・テギョム)の再利用不可という行を、海凛が沈黙して保存した手。あれは特殊な地下実験ではなかった。制度は、失敗と完成を経て、いま市民の生活記録へ広がろうとしている。
海凛は迷わず告発状の添付欄を更新する。青松の実験表、呉世俊の署名証明、白昌浩(ペク・チャンホ)の洗浄記録の下に、国民安定化予備群分類表と予算付属表を追加する。
「これで構造だけではなく、現在進行形の計画になります。通常受付が塞がれているなら、緊急差止め、裁判所長直轄の特別保全、国会監査同時提出に切り替えます」
「通りますか」
「通させます」
彼女はそう言い、送信先を増やす。だが送信ボタンを押した瞬間、画面は一度白くなり、次に無機質な警告を返した。
『国家安定化関連事案』
『国家安保例外条項に基づき、通常、特別、緊急を問わず電子受付を停止』
『関連資料の提出は主管機関審査後に限る』
主管機関の欄には、呉世俊の名がある。
海凛はもう一度、別経路で送る。紙提出予約、証拠媒体持参申請、裁判官直通の夜間保全、被害者代理人緊急面談。すべて同じ警告へ戻る。受付窓口の扉は、形だけではなく、奥の廊下ごと溶接されていた。
道允は黙って画面を見つめる。怒りはある。だが怒りをぶつける相手が、窓口の向こうで制度の名前に変わっている。
「彼は、告発を防いだんじゃない」
道允が言う。
「告発を、自分の審査対象にした」
海凛は端末から手を離さない。目の下の影が濃い。眠気ではなく、十年かけて積んだ手続きの階段が、一段ごと消されていくのを見ている顔だった。
「なら、外へ出します。受理されなくても、資料の存在を——」
「報道は原本者同意を求められます。青松の死刑囚、長期囚、姜武鎮、志厚(ジフ)、金道植、尹泰謙。全部、個人の記憶情報です」
道允の言葉に、海凛の指が止まる。彼女自身が一番わかっている壁だった。被害者の苦痛を証拠として守るための手続きが、いま被害者の声を閉じ込める檻に使われている。
「それでも、抜け道はあります」
海凛は言う。強がりではない。探すと言っている。
道允はうなずく。だが端末の画面は次々と閉じ、最後に告発状だけが残る。被告発人、呉世俊。添付資料、十七件。提出状態、未受付。
未受付。
その三文字が、青松の壊れた椅子より重く見えた。
駐車場の外は昼に近づいている。通勤者の足音が遠くを流れ、都市は昨日と同じ顔で動いている。その下で、失業給付を受けた誰か、診断書を出した誰か、広場で声を上げた誰かが、すでに予備群として番号を振られている。
道允の手首端末が震えた。
二人は同時に画面を見る。通知の発信元は、ソウル中央記憶矯正庁。署名者は韓泰錫(ハン・テソク)。件名には、赤い緊急標識が付いている。
『白道允執行官に対する公開審査召喚』
海凛がすぐに端末を奪うように読み込む。本文は短い。
記憶汚染の疑い。未承認感覚同期。国家安定化関連資料への不正接触。審査場所、ソウル中央記憶矯正庁公開審査室。出頭期限、今日十三時。欠席時、強制保護手続きへ移行。
道允は時刻を見る。残り、一時間三十七分。
画面の末尾には、傍聴および報道公開予定の一文がある。記憶矯正庁は、告発状が届く前に、告発する人間の記憶を裁くつもりだった。
端末がもう一度震える。新しい添付映像が自動で開いた。公開審査室の準備画面。中央の椅子。頭部固定具。背面の大型表示には、すでに道允の顔写真と一行の見出しが映っている。
『汚染執行官は、証言者になれるのか』
海凛が息を止める。道允は画面を閉じずに見つめた。呉世俊ではない。韓泰錫が先に動いた。制度は、彼らの証拠ではなく、道允の頭の中を公開の場で解体しようとしていた。
罪を消す国は、妹の記憶でできていた
32話 美妍の待機列
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