召喚を無視するという選択肢は、画面を閉じた瞬間に消えていた。
道允(ドユン)は公開審査室の映像を見たまま、残り時間を確認する。一時間三十七分。欠席すれば強制保護。強制保護になれば、頭部固定具のある椅子へ運ばれるだけだ。自分の足で入るか、拘束されて入るか。その違いしかない。
「行きます」
海凛(ヘリン)は反論しない。代わりに、濡れた端末から証拠保全決定文の写し、弁護人選任届、青松(チョンソン)資料の受領ログを順に呼び出す。
「中で答える必要はありません。あなたは審査対象者であって、尋問用の供述機械ではない。私が止めます」
「止まりますか」
「止めるのではありません。どこから違法になるかを、全員の前で線引きします」
その言い方は、以前と同じだった。相手を正すのではなく、相手が何を破るのか記録する。道允は短くうなずき、告発状の未受付画面を閉じる。未受付という三文字は消えない。ただ、次に使う場所が変わっただけだ。
ソウル中央記憶矯正庁へ向かう車内で、海凛は紙の書類を膝に並べる。電子受付が塞がれている以上、紙と録画と公開の視線が武器になる。道允は窓の外を見る。昼のソウルは平常そのものだ。横断歩道で学生が笑い、薬局の入口では高齢者が相談端末の順番を待っている。あの端末の奥に、安定化記憶少量移植の予備群抽出基準がつながる日が近い。
『不満を持つ市民を、危険反応として分類している』
自分の言葉が、胸の内で硬く沈む。
本庁前の歩道には、すでに報道車が並んでいた。記者たちは庁が用意した白い誘導線の内側に立ち、カメラのレンズを正面入口へ向けている。庁舎の壁面表示には、更生率と国民心理回復支援件数が明るく流れていた。その下に、臨時の案内板が立っている。
『白道允執行官 公開審査』
『記憶汚染疑いに関する説明』
「説明、か」
道允が低くつぶやくと、海凛は横から言う。
「説明させる場ではありません。処分を正当化する舞台です」
入口へ近づくと、記者の列がざわつく。誰かが道允の名を呼び、別の記者が姜武鎮(カン・ムジン)事件の未承認同期について質問を投げる。道允は答えない。答えた瞬間、言葉は切り取られ、汚染執行官の異常反応として編集される。
海凛が一歩前に出る。
「尹海凛弁護士です。白道允氏は本件について弁護人同席のもと、記録される手続きにのみ応じます。取材は庁の誘導ではなく、審査手続き全体を確認してください」
その声は大きくない。だがマイクが拾うには十分だった。記者たちの視線が、道允の顔から海凛の紙ファイルへ移る。
庁の認証ゲートでは、道允の身分証が一度赤く弾かれた。すぐに職員が裏から手動承認を入れる。停止中の権限を、今日だけ審査対象者として通す。道允はその冷たさを見逃さない。執行官ではなく、標本として通行が許されている。
公開審査室は、通常の聴聞室より広かった。中央に椅子があり、背面に頭部固定具が折り畳まれている。壁一面の大型表示には、例の見出しが残っていた。『汚染執行官は、証言者になれるのか』。傍聴席には記者、庁職員、外部委員らしいスーツ姿が列を作る。カメラは最初から道允の横顔を狙っていた。
韓泰錫(ハン・テソク)は、審査官席の中央に座っている。白髪交じりの髪を整え、前に置かれた資料を静かに閉じる。その動作だけで、ここは予定通り進む場所だと告げていた。
「白道允執行官。出頭を確認する」
「出頭しました。弁護人同席です」
道允は短く答える。海凛は隣に立ったまま、着席しない。韓の眉がわずかに動く。
「本審査は、記憶矯正庁内部の職務適格性審査である。弁護人の発言は必要時に限る」
「必要時は、すでに始まっています」
海凛は紙を一枚持ち上げる。
「白道允氏には記憶汚染疑い、未承認感覚同期、国家安定化関連資料への不正接触が示されています。いずれも刑事責任および証言能力制限につながる事項です。弁護人同席権を制限するなら、制限理由と根拠条項を読み上げてください」
傍聴席のペンが動く。韓は笑わない。
「尹弁護士。ここは法廷ではない」
「だからこそ、違法な尋問に変わる線を先に確認しています」
韓は一拍置き、視線を道允へ戻す。大型表示が切り替わる。第五特殊執行室の事故映像、道允の緊急停止操作、姜武鎮が発作を起こす場面。音声は編集され、世羅(セラ)の叫びや自動補正警告は落とされている。残っているのは、道允の動揺した横顔と、姜武鎮の身体が痙攣する映像だけだ。
「執行中、あなたは対象者姜武鎮の感覚層へ過度に同期し、第三者感覚を自己記憶と誤認した。結果として、執行記録を私的に複製し、遺体の残留神経組織にも不正接触した」
韓の声は、記者席へ届くように整えられている。
「不安定な執行官の証言を、国家的な記憶政策の判断材料にできるのか。本審査の核心はそこにある」
道允は画面を見る。編集された自分は、たしかに危うく見える。汗、硬直、伸ばしかけた手。だが、その手が止まった理由は映っていない。倉庫の少年も、黒く潰された背後も、姜武鎮の「もう一人」もない。
「質問に答えなさい。あなたは執行中、自分の幼少期記憶を対象者の記憶と混同したのか」
道允が口を開く前に、海凛の書類が机に置かれた。紙の音が、室内の空気を切る。
「異議を記録してください。設問が前提事実を誘導しています」
韓の目が冷える。
「尹弁護士」
「証拠保全決定文、事件番号C-FM-11902。第五特殊執行室の七・四秒同期区間は、裁判所鑑定サーバーに隔離複製されています。接続対象は姜武鎮、白道允、不明第三層。未承認同期であって、白道允氏の主観的混同ではありません」
大型表示の映像が一瞬だけ止まる。操作席の職員が韓を見る。
海凛は続ける。
「さらに国立法医学センターの姜武鎮遺体および残留神経組織は、緊急証拠保全決定の対象です。不正接触というなら、庁が司法保全対象へ介入した経緯も同時に審査してください」
記者席がざわめく。韓の用意した流れに、初めて別の音が混じる。道允はその短い隙に、海凛の保安端末が無音で震えるのを見た。通知窓は小さい。送信者欄には復旧済み内部アカウント。名前は表示されていないが、符号の癖を道允は知っている。
世羅だ。
海凛は表情を変えず、紙束の陰で端末を開く。道允の視界の端に、文字列が流れる。
『内部通知復旧』
『国民安定化プロジェクト 第一試験地域確定』
『ソウル北西圏』
『対象者三百十二名、全国記憶ネットワーク待機列登録済み』
道允の喉が乾く。公開審査室の空気が、急に遠くなる。韓の声も、カメラの作動音も、白い壁の反響の向こうへ退く。
海凛は端末を机の下でわずかに傾ける。道允に見せるためだ。名簿が開く。番号、氏名、生年月日、分類、待機列状態。恩平(ウンピョン)、西大門、麻浦。見慣れた地名が並ぶ。予備群A、B、C。失業、治療中断、行政不満、被害後適応障害。
最初の十行を目で追うだけで、これは統計ではなく人間の列だとわかる。誰かの病歴。誰かの怒り。誰かの喪失。その横に、送出装備の予約番号が淡々と付いている。
「白道允。聞いているのか」
韓が呼ぶ。
道允は答えない。名簿の十五行目で、指先が止まったからだ。
朴美妍(パク・ミヨン)。李志厚事件被害児童遺族。分類、被害後適応障害および公共機関不信発話。待機列状態、保留中。
美妍の痩せた頬、紙袋を胸に抱えた手、志厚の絵を差し出すときのかすれた声が、道允の中でよみがえる。彼女は息子の恐怖を届けるために、何度も拒まれながら立っていた。その母親が、今度は不信を治療名目で処理されようとしている。
「……海凛さん」
道允の声は小さい。だが海凛はすでに見ている。彼女の指が画面保存をかける。
その瞬間、十五行目が淡く点滅した。
待機列状態の欄が、保留中から審査通過へ変わる。続いて、送出予約番号が割り当てられる。最後に短い進捗バーが走り、文字が冷たく更新された。
『準備完了』
道允は息を止める。公開審査室の中央で、自分を裁くための椅子がまだ背後にある。だが本当に椅子へ向かわされているのは、ここにいない美妍だった。
韓泰錫がゆっくり立ち上がる。
「白道允。質問に答えなさい」
道允は画面から目を離さない。美妍の行の右端で、送出開始予定時刻が新しく表示される。現在時刻から、二十六分後。
彼の手が、机の縁を握った。
「答える時間はありません」
罪を消す国は、妹の記憶でできていた
33話 順応を貼る処方の正体
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