「答える時間はありません」と言った瞬間、道允(ドユン)は椅子から立ち上がる。
公開審査室の空気が割れる。記者席のレンズが一斉に動き、韓泰錫(ハン・テソク)の顔から予定された静けさが消えた。
「白道允。着席しなさい」
「弁護人として退出を記録します」
海凛(ヘリン)が紙の決定文をつかみ、端末の録画を維持したまま言う。「審査対象者の即時記憶権侵害のおそれ。理由は、庁内通知により第三者への安定化記憶送出が二十六分後に予定されたため」
「その情報は国家安定化関連——」
「では、存在を認めるんですね」
韓が言葉を止めた一拍で、道允は扉へ向かう。警備員が半歩出るが、記者のカメラがその肩章を捉えた。海凛は名札を読み上げる。
「通行妨害者名、記録します。いま止めるなら、朴美妍(パク・ミヨン)氏への送出開始と同時刻で提出します」
警備員は止まる。道允は走る。背後で韓の命令が飛ぶが、廊下に詰まった報道陣が追跡の足を鈍らせた。
庁舎を出ると、海凛は無人車両の非常呼出を叩く。目的地を入力する指が迷わない。
「恩平(ウンピョン)市民記憶相談所。以前の相談センターと同じ建物です。看板を変えています」
「志厚の検査をした場所ですね」
「ええ。今度は大人用の不安緩和検査に見せている」
車両が滑り出す。送出開始まで二十二分。道允は世羅の通知から美妍の予約番号を拾い、青松で抜いた外部アクセス迂回ノードの古い鍵を試す。自分の生体署名は使わない。相談所の公開予約窓に、細い接続が引っかかる。
『不安緩和検査』
『被害後生活適応支援』
『事前説明および同意、未完了』
「まだ署名前です」
「なら、間に合います」海凛は窓の外を見たまま答える。「署名後でも同意ではありませんが、相手は署名欄だけを証拠にします」
恩平市民記憶相談所は、記憶矯正庁の支部に見えないよう作られていた。入口の表示には、眠れない夜を軽くする検査、遺族支援、不安緩和と柔らかな言葉が並ぶ。受付ロビーには高齢者、母子、失業相談帰りらしい男性が静かに座っていた。誰も、自分が全国記憶ネットワークの待機列へつながれているとは思っていない顔だった。
道允と海凛が入ると、案内員が笑顔で近づく。
「本日は予約の方のみ——」
「尹海凛弁護士です。朴美妍氏の代理人予定者として、説明手続きへの同席を求めます」
「ご家族以外の同席は」
「拒否する根拠条項を読み上げてください。録画しています」
案内員の笑顔が凍る。道允はロビー奥の半透明の扉を見る。『検査前相談室三』。予約番号の末尾が一致していた。中から、かすれた声が漏れる。
「……これで、夢を見なくなりますか」
美妍の声だった。
道允は扉を開ける。白い小部屋の中で、美妍は椅子に座っている。以前より頬が痩せ、髪はきちんと束ねられている。紙袋はない。代わりに、薄い同意書を両手で握っていた。向かいの相談員は、柔らかな声で説明を続けている。
「息子さんの事件後、過度な覚醒と公共機関への不信反応が続いています。少量の安定化記憶を補助的に用いれば、悪夢と怒りの反応を緩和できます」
「志厚を忘れるんですか」
「いいえ。忘れさせる処置ではありません。つらさを少し軽くする検査です」
美妍の指が署名欄の上で震える。相談員の語りは治療の言葉だけでできている。だが端末の右隅では、送出予約の進捗が静かに回っていた。
「署名しないでください」
美妍が顔を上げる。目に驚きが走り、すぐに疲れた安堵が混じる。
「白執行官……」
相談員が立ち上がる。「手続き中です。外部の方は——」
海凛が横から同意書を取った。「外部ではありません。本人の法的利益に関わる説明不足を確認します」
彼女は紙面を一瞥し、眉を動かさずに言う。
「移植対象記憶の性質が書かれていません。恐怖記憶なのか、順応記憶なのか、感情反応束なのか。範囲も量も、原本者も、送出経路もありません。『不安緩和補助』という一語で、本人の怒りをどの感情で覆うのかを隠しています」
相談員の声が固くなる。「標準書式です」
「標準なら、標準ごと違法です」
海凛は同意書を机に置き、端末のカメラを室内全体へ向ける。「現在時刻、十三時三十九分。朴美妍氏に対し、国民安定化プロジェクト待機列から送出予約が入った状態で、移植対象記憶の性質と範囲を説明しないまま署名を求めています。録画を保全します」
道允はその間に壁際の相談所端末へ回り込む。職員用画面はロックされているが、送出待機の監視窓だけは相談員の認証が開いたままだ。世羅から残された迂回ノード、青松で見た外部認証、志厚の入室名簿に映った空欄番号。それらを順に重ねる。
『送出予約値』
『対象者、朴美妍』
『分類、被害後適応障害・公共機関不信発話』
『投与束、ADP-RS-17』
道允は予約値を隔離領域へ抜く。さらに投与束の参照情報を開いた瞬間、喉の奥が乾いた。
そこには、犯罪被害者の恐怖記憶はなかった。志厚の苦痛も、事件現場の再生もない。
灰色の波形名が並んでいる。行政処分受容。抗議衝動鈍化。喪失対象への怒り再評価。公共機関信頼回復仮想束。
「……違う」
海凛が振り向く。「何が」
「これは治療用の恐怖緩和じゃない。被害者の記憶でもありません」
反応値には見覚えがあった。青松の人格耐性試験で、失敗した対象者たちの最後に記録されていた、抵抗を諦める直前の鈍い沈降線。怒りが消えるのではない。怒りの上から、仕方がないと感じる別人の順応をかぶせる波形だ。
「子を失った母親の怒りに、見知らぬ諦念を貼る処方です」
道允の声は自分でも驚くほど冷たい。「悪夢を治す薬じゃない。制度に怒らない母親へ変える薬です」
美妍の手から同意書が落ちる。紙が床に滑り、署名欄は空白のままだった。
「私は……志厚を、静かに忘れたいんじゃありません」
彼女は震えながら立つ。涙は出ない。出し尽くした人間の声で、短く言う。
「あの子が怖がっていた理由を、知りたいだけです」
相談員が非常呼出ボタンへ手を伸ばす。海凛がその手元を録る。
「押してください。未説明同意の現場に、保安要員を呼んだ記録も付けます」
道允は抜き取った予約値を保存し、美妍の腕を支える。「出ます」
「でも、手続きが……」
「手続きがあなたを椅子へ運ぼうとしています」
美妍は唇を噛み、うなずく。三人が廊下へ出ると、ロビーの空気はもう変わっていた。受付奥の職員が通信を重ね、入口の自動扉の上に保安制御中の黄色い表示が点く。待合席の市民たちが不安げに顔を上げる。海凛は後ろ向きに近い姿勢で録画を続け、相談員と職員の動きを画面に入れていた。
出口まで十歩のところで、壁面の大型画面が明るく切り替わった。不安緩和支援の案内が消え、濃紺の背景に呉世俊(オ・セジュン)の写真が映る。銀縁眼鏡の奥の目は、講演会場で道允を名指ししたときと同じ温度だった。
『国民安定化プロジェクト発表式』
『総括諮問責任者 呉世俊 生中継予告』
道允は足を止める。予定日は、彼らが把握していた十日後ではない。
画面の下で、告知が更新される。
『三日後、午前十時』
『第一試験地域送出に先立ち、公開説明および代表執行官紹介を実施』
ロビーのざわめきが遠ざかる。海凛の録画端末にも、同じ文字が映り込んでいる。美妍の腕が、道允の袖をつかんだ。
三日。
相談所の奥で保安扉が開く音がする。時計は前へ進んだのではない。誰かが針を折り、別の速度で回し始めていた。
罪を消す国は、妹の記憶でできていた
34話 中核認証と最初の原本
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