韓泰錫の執務室へ向かう廊下は、第五特殊執行室よりも静かだった。非常灯の白さも、血と樹脂の匂いも、扉を一枚越えるたびに薄れていく。だが道允の袖の内側では、個人端末の硬い角だけが現実の重さとして残っている。
前を歩く韓泰錫は一度も振り返らない。保安要員二人が距離を置いてついてくる。連行ではないという体裁だけが、ぎりぎり守られていた。
執務室の扉が開く。壁一面の曇り硝子の向こうに、夜明け前のソウルの街が沈んでいる。机の上には紙の書類が一枚もない。すべてが清潔で、事故など最初から起きていない場所のように整っていた。
「座りたまえ」
韓泰錫が椅子を示す。道允は座らない。
「第三視野混入がありました。李志厚の最終恐怖記憶に、本人の視野ではない層が重なっています」
「報告は受けている」
「公式記録は外部感情ノイズに書き換わっていました」
韓泰錫は上着を脱ぎ、背もたれに掛ける。動作に乱れがない。その落ち着きが、道允の神経をさらに逆撫でする。
「事故直後の記録は一時的に安定化処理される。記憶汚染防止手続きだ」
「安定化ではありません。消去です」
「言葉を選べ、白執行官」
声は低い。だが怒ってはいない。怒る必要すらない者の声だった。
道允は息を吸う。倉庫の水滴の音が、まだ耳の底に落ちている。あの七・四秒を、ここで曖昧にされたら終わる。
「未承認感覚同期が七・四秒ありました。接続先は姜武鎮、白道允、不明第三層。さらに承認経路には、俺の生体署名が残っています」
韓泰錫の指が、机上の端末に軽く触れる。何かを確認したわけではない。すでに答えを用意していたような、儀礼的な動きだった。
「自動補正回路は対象者急性崩壊時、執行官の感覚基準を臨時参照する。君も規定で学んだはずだ」
「感覚基準の参照と、生体署名による承認補助は別です」
「極限状態の神経過負荷では、執行官本人の記憶反射が承認値に近い波形を出す場合がある」
「ありません」
道允の声が、思ったより鋭く出た。韓泰錫の眉がわずかに動く。
「俺は緊急停止を押そうとしました。手動遮断レバーも引いた。承認はしていません。俺の署名が使われたなら、それは盗用です」
室内の空調音が小さくなる。実際に止まったのではない。ただ、沈黙が濃くなった。
韓泰錫は椅子に腰を下ろし、道允を見上げる形になる。それでも圧は変わらない。
「君は対象者の神経発作を至近で浴びた。被害児童の恐怖、対象者の拒絶反応、そして自分自身の過去の感覚が一時的に混線した。よくあることではないが、説明はつく」
「説明はつきません」
「君がそう感じるのは当然だ。執行官は自分の内側を絶対の基準だと思いがちだ」
「俺の過去が、なぜ李志厚の記憶に混ざるんです」
その問いを口にした瞬間、道允の喉が乾く。言ってしまった。自分でもまだ直視できていない空白を、韓泰錫の前へ置いた。
韓泰錫はすぐには答えない。机の端に置かれた透明な認証板へ視線を落とす。そこには、事故処理用の追加保安誓約書が開かれている。すでに道允の名前と職番が入力済みだった。
「まずこれに署名したまえ」
「何ですか」
「本件で知り得た未整理記憶情報を、外部媒体、私的端末、非承認保全領域へ保存または移転していないことを確認する誓約だ。事故後の通常手続きだよ」
道允は無言で画面を見る。文面の末尾には、違反時の即時権限停止、精神汚染審査、刑事告発の文言が並んでいる。通常手続きではない。彼が袖の内側に何かを持っている前提で作られた罠だ。
「署名できません」
「なぜだ」
「内容を確認する時間が必要です」
「君は執行官だ。保安誓約の意味は理解している」
「理解しているから署名できません」
韓泰錫の目が細くなる。初めて、わずかな苛立ちが表面に出た。
「白道允。君の職務倫理を評価してきた。だから今も、事故直後の混乱として処理する余地を残している」
「俺の生体署名が使われた件は、事故ではありません」
「君が見たものが、すべて事実だとは限らない」
「記憶は嘘をつかないと、次長が言いました」
道允がそう返すと、韓泰錫の表情から感情が消えた。第七執行室で姜武鎮のファイルを渡した夜と同じ、薄い膜のような顔だった。
「記憶は嘘をつかない。だが記憶を見る人間は、しばしば間違える」
「では聞きます」
道允は一歩前へ出る。
「李志厚の記憶に出た倉庫を、姜武鎮は知らないと言いました。俺も忘れていた。なのに姜武鎮は、俺が倉庫の子どもだったと言った。俺の十歳前後の記憶には、そこだけ切り取られた空白がある。偶然ですか」
韓泰錫は答えない。
「被害児童の恐怖記憶に、なぜ俺の過去が混ざるんです。俺の署名が、なぜ未承認同期に残るんです。あの第三層は誰のものですか」
沈黙が続く。道允は韓泰錫の顔を見る。呼吸の乱れも、視線の揺れもない。ただ、答えないと決めた人間の静けさだけがある。
やがて韓泰錫は、ひどく穏やかに言う。
「記憶はいつだって、他人のものに似るものだ」
道允の奥で、何かがきしむ。
「それが答えですか」
「今の君に必要な答えだ」
「被害児童の記憶も、対象者の発作も、俺の生体署名も、その一文で処理するつもりですか」
「君を守るためでもある」
「俺を?」
道允は短く笑いそうになり、喉で止める。笑えば、怒りまで漏れる。
韓泰錫は認証板をこちらへ押し出す。
「署名したまえ。事故報告は私のほうで整理する。姜武鎮は医療監察下に置かれる。君は二十四時間の神経休養後、通常任務へ戻ればいい」
「姜武鎮に会わせてください」
「必要ない」
「彼は何かを知っています」
「対象者は重度の神経過負荷状態だ。供述能力はない」
「そう判断した記録を見せてください」
「君の閲覧権限では不要な情報だ」
道允は韓泰錫を見つめる。ここで声を荒げれば、精神汚染の所見にされる。机を叩けば、保安要員が入ってくる。袖の端末を守るためにも、いま壊してはいけない。
『怒るな。記録を残せ』
自分にそう言い聞かせる。記憶矯正庁の中で生きるには、感情より手続きが強い。彼はそのことを誰より知っている。だが今、その手続きそのものが敵の手の中にある。
「署名は保留します。正式な弁明機会を要求します」
「それも記録しておこう」
韓泰錫は意外なほどあっさり引く。あっさりしすぎていた。
「今日は帰れ。神経検査の通知が行くまで、執行装備には触れないこと。個人端末の保全確認が必要になれば、保安課から連絡する」
道允は返事をしない。踵を返し、扉へ向かう。背後から韓泰錫の声が追ってくる。
「白執行官」
道允は足を止める。
「君が本当に守りたいものが何か、よく考えたまえ。記憶は人を救うこともある。壊すこともある」
道允は振り返らない。
「壊しているのは記憶じゃありません」
それだけ言い、執務室を出る。
廊下の空気は冷たかった。扉が閉まった瞬間、膝から力が抜けそうになる。道允は壁に手をつき、呼吸を整える。怒りが遅れて込み上げてくる。韓泰錫は否定しなかった。第三層も、生体署名も、倉庫も。否定せず、制度の言葉で覆った。
道允は袖の内側から個人端末を抜く。隔離領域は外部通信から切り離してある。自動同期も切った。原本差分の複製はそこにあるはずだった。
認証を通す。指先が冷えている。
『隔離領域を開きます』
ファイル一覧が表示される。道允は七・四秒の映像片を探す。
ない。
一瞬、見落としたのだと思う。同期区間、承認経路、生体署名照合値、第三層波形。名前を変えて保存した複製群を検索する。結果は空白だった。
端末の内部ログを開く。削除履歴にも残っていない。代わりに、記録媒体の微細エラー修復履歴だけがきれいに並んでいる。
『局所破損領域、自動隔離』
『復旧不能データ、破棄』
『使用者操作なし』
道允の指が止まる。
巧妙だった。削除命令ではなく、媒体エラーを装っている。外部侵入の痕跡も、遠隔操作の署名も見えない。だが隔離領域の中で、狙った七・四秒だけが消えている。偶然であるはずがない。
韓泰錫の執務室にいた間に、消された。
背中に冷たい汗が滲む。彼は端末を握りしめ、内部網の通知欄を開く。事故関連の更新が一件だけ増えていた。
『対象者姜武鎮、状態変更』
『医療監察中 → 非公開移送待機』
『閲覧権限、次長級以上』
道允の呼吸が止まる。
非公開移送。医療監察ではない。記録から遠ざけ、証言から切り離すための移送だ。通知の下部には、搬送準備完了までの残り時間が小さく表示されている。
六分。
七・四秒の映像は消えた。姜武鎮も消されようとしている。そして道允自身は、もう内部で危険要素として数えられている。
彼は端末を閉じ、廊下の先にある職員用エレベーターを見る。地下移送通路へ行くには、いま走るしかない。保安要員が角を曲がってこちらを見た瞬間、道允は迷いを捨てた。
奪われた記憶の残り火が、まだ誰かの口の中で息をしているなら。
それを消される前に、聞き出さなければならない。
罪を消す国は、妹の記憶でできていた
8話 制限証人の移送通路
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