パク・ミンジェがドウォンビルに着いたのは、午後九時を少し回った頃だった。
京畿道(キョンギド)郊外の旧市街は、夜になると急に音が薄くなる。昼間はバスのブレーキ音と市場の呼び込みで満ちている通りも、薬局の看板がひとつ、ふたつ消えるたびに、古いコンクリートが冷えた息を吐くように静まっていった。
ミンジェは車から黒い機材バッグを下ろし、肩にかけた。バッグの中には小型録音機、振動計、接触マイク、赤外線温度計、そして普通の人間なら病院でしか見ない聴診器が入っている。
騒音紛争鑑定士。
名刺にそう刷ると、たいていの依頼人は一度だけ妙な顔をする。上階の足音、空調機の低周波、配管の共鳴、夜中だけ鳴る機械音。怒鳴り合いになる前に、音を数字と波形に変えて、原因と責任を切り分けるのがミンジェの仕事だった。
だが今回の依頼は、電話の時点で少し妙だった。
「とにかく、夜になるとうるさいんです。入居者が不安がっている。古い配管でしょう。報告書にはその方向でお願いします」
依頼主である管理組合長、ペク・ドヒョンの声は低く、丁寧だった。丁寧すぎて、こちらの質問を受けつけない硬さがあった。
ビルの前に立っていたその男は、電話の印象とほとんど変わらなかった。濃紺のジャンパーに薄い手袋。四十代半ばほどに見える顔は整っていたが、目の下に眠っていない人間の黒い影があった。
「パク・ミンジェさんですね」
「はい。騒音鑑定の件で来ました」
「遅い時間にすみません。夜でないと、例の音が確認できないそうで」
ドヒョンはそう言って、ミンジェのバッグに一瞬だけ視線を落とした。機材を警戒している目だった。
「まず建物を見せてください。音が出る場所、苦情の内容、構造図面も確認したいです」
「図面は後で。たいした建物じゃありません。古いだけです」
そう言って、ドヒョンは先にガラス戸を開けた。
一階には薬局と食堂が入っていた。薬局のシャッターは半分だけ下ろされ、中から消毒薬と湿った紙袋の匂いが漏れていた。食堂はもう閉まっていたが、鉄板を洗ったあとの油の匂いが床に残っている。
「一階の方も苦情を?」
「ええ。薬局のハンさんが神経質でして。食堂は夜が早いので、あまり関係ありません」
ドヒョンはさらりと言った。入居者の不安を説明する声ではなく、面倒な項目を消していく声だった。
階段は入口の右奥にあった。手すりは金属の地肌が出るほど擦れ、壁には古い掲示物のテープ跡が幾重にも残っている。二階へ上がる途中、蛍光灯が一度だけ白く瞬いた。
「二階は数学塾です」
踊り場の先のガラス扉には、オ数学学院と青い文字で貼ってあった。中は暗い。だが黒板消しの粉っぽい匂いと、子どもが長く座った教室特有の熱が、まだ廊下に滞っていた。
「授業中に音がするんですか」
「夜間自習の時間に少し。けれど、どこでもあるでしょう。古いビルでは」
「どんな音ですか」
ドヒョンは答えず、上へ行くように顎を動かした。
ミンジェはその沈黙を記録した。音そのものより、音について話す人間の間が原因に近いこともある。
二階から先の階段は、狭く折り返していた。普通なら次は三階の踊り場に出る。だがミンジェの足は、違和感に半歩遅れた。
壁に貼られた階数表示が、いきなり「4F」になっていた。
「……三階は?」
ミンジェは足を止めた。
ドヒョンも止まったが、振り返らなかった。
「ありません」
「ない?」
「この建物は、一階、二階、四階、五階です。昔の設計の都合で、そういう番号になっています」
「三階を飛ばした設計ですか」
「ええ。縁起を気にしたとか、登記上の都合とか、古い話です。私は詳しくありません」
詳しくないと言うには、用意された答えだった。
ミンジェは踊り場に立ち、下を見た。さっき通った二階の床がある。上を見れば、祈祷院の貼り紙がある四階の通路が見えた。だが階段の高さは、妙に長かった。二階から四階へ上がるには段数が多すぎる。かといって途中に扉も踊り場もない。コンクリートが、何かを飲み込んで平らな壁になったようだった。
「エレベーターは?」
「動きます」
ドヒョンは短く答え、階段を上がった。四階には小さな祈祷院があった。扉の隙間から古い木の椅子と、折りたたまれた譜面台が見える。中に人はいないのに、壁の向こうで誰かが息をひそめているような圧があった。
「四階の牧師さんも苦情を出しています。上はワンルームです」
五階まで案内されると、廊下には小さな玄関扉が並んでいた。どの扉も内側からチェーンを掛けたように静かで、生活音がほとんどない。テレビの音も、水道の音も、洗濯機の振動も聞こえなかった。
騒音の現場にしては、静かすぎる。
ミンジェは廊下の端まで歩き、壁に手を当てた。冷たい。古い建物の夜の冷たさではなく、使われていない空間の温度に近かった。
「夜間に発生する音の時刻は決まっていますか」
「だいたい深夜です。入居者たちが大げさに言っているだけかもしれません」
「内容は?」
「配管の打音でしょう。金属が鳴るとか、何かが回るとか。古い設備にはよくある」
「調査前から原因を決めるなら、私を呼ぶ必要はありません」
ミンジェがそう言うと、ドヒョンはようやく振り返った。表情は変わらない。ただ、瞳の奥だけが少し硬くなった。
「住人を落ち着かせるために、専門家の報告書が必要なんです。できれば早く。明日の午前中までに中間所見をいただけますか」
「音源を確認しない報告書は出せません」
「では、配管の可能性が高い、という表現で」
「可能性を書くには根拠が要ります」
短い沈黙が落ちた。
その間に、ミンジェは建物の静けさが一種類ではないことに気づいた。店が閉まった後の静けさ。人が息を潜める静けさ。もう一つ、音を出す権利を奪われたものが黙っているような静けさ。
ドヒョンは手袋を直し、視線をそらした。
「わかりました。好きに見てください。ただし入居者を不必要に刺激しないでください。噂になると困りますから」
「騒音の証言を取るのは業務の一部です」
「必要なら私を通してください」
言い残して、ドヒョンはエレベーターの方へ歩いた。ミンジェも続いた。操作盤を見るためだった。
エレベーターは旧式で、内側の壁に曇ったステンレスが貼られていた。押しボタンは縦一列に並んでいる。一、二、四、五、開、閉。
三のボタンだけが外されているのではなかった。最初からそこに穴が存在しなかったように、二と四の間の間隔だけが不自然に広く、空白の金属板が滑らかに光っていた。
ミンジェは指先でその空白をなぞった。溶接跡も、後から埋めた傷もない。
「最初からこうです」
背後でドヒョンが言った。
「聞いていませんが」
「皆さん、同じところを見ますから」
「それなのに、詳しくない?」
ドヒョンは答えなかった。エレベーターが一階に着くと、彼は先に降りた。
「私は管理室にいます。終わったら声をかけてください。余計な場所は開けないように」
「余計な場所とは?」
「古い倉庫や機械室です。危ないので」
ドヒョンはそれだけ言うと、廊下の奥へ消えた。
ミンジェはすぐには降りなかった。エレベーターの扉が閉まりかけるまで、空白の金属板を見ていた。そこにはボタンがない。だが人間の手が無意識に三を探す高さだけは、奇妙なほど正確に残っていた。
エレベーターを降りた彼は、再び階段へ戻った。
騒音紛争の現場で、依頼人が原因を急いで決めたがることは珍しくない。賠償問題を避けたい管理者、店の評判を守りたい貸主、上階の住人を追い出したい隣人。だがドヒョンの焦りは、それとは違った。
配管音にしては、説明を急ぎすぎている。
ミンジェは二階の踊り場に立った。上を見上げると、四階へ続く階段が暗い口を開けている。三階がないなら、この壁の向こうは外壁か、構造材か、設備シャフトのはずだった。
バッグを床に置き、聴診器を取り出す。医療用ではなく、微細な振動を拾うために改造したものだ。金属板や配管に当てると、水流、膨張、共鳴の違いが耳に届く。
ミンジェは先端を踊り場の壁へ当てた。
最初に聞こえたのは、遠い電気の唸りだった。蛍光灯の安定器。どこかで遅れて閉まる冷蔵庫のコンプレッサー。古いビルなら当然ある音だ。
次に、配管の中を流れる水の低い震えが来た。壁全体を薄く撫でるような、広がりのある振動。問題のある配管なら、ここから一定の周期で膨らんでいく。
だが、その奥に、ひどく狭い沈黙があった。
壁の中に空白がある。構造上の隙間ではない。音がそこだけ避けているような、耳を近づけるほど何も返ってこない場所だった。
ミンジェは聴診器をずらした。五センチ左。普通の壁。十センチ右。配管の残響。中央へ戻す。
沈黙。
その瞬間だった。
チン、と短い金属音が鳴った。
糸を断ち切るような、鋭く細い音だった。ミンジェの耳の中で直接鳴ったのではない。壁の向こう、存在しないはずの空間の奥から、針の先だけがこちらへ届いたように響いた。
彼は息を止めた。
配管音なら、振動は壁全体へ広がる。金属管が鳴れば、上下左右の構造材に伝わり、遅れて床や手すりにも微かな反応が出る。だが今の音は違った。広がらない。尾を引かない。たった一点を選んで、針が一度だけ刺さり、すぐに抜けた。
ミンジェは聴診器を耳から離せなかった。
もう一度鳴るのを待った。蛍光灯が震え、遠くでエレベーターの機械がうなった。管理室の方から、ドヒョンの足音らしいものが一度だけ近づき、止まった。
それでも壁の奥は黙っていた。
ミンジェは聴診器を当てたまま、二階と四階のあいだにある何もないはずの方向を見つめた。そこに部屋はない。廊下もない。図面上の階も、ボタンも、表示もない。
だが今、何かが確かに鳴った。
そして彼は、金属音が消える寸前、ごくかすかに別の音が混じっていたことに気づいた。切られた糸の向こうで、誰かが息を吸い込もうとして、途中で止められたような音だった。
誰も上がれない三階から、午前零時四十分に僕の名を呼ぶ声がする
2話 午前零時三十九分五十八秒
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