ミンジェは聴診器を外した。耳の奥に、さっきの細い金属音と、途中で止められたような息の気配がまだ残っていた。配管の打音でも、エレベーターのワイヤでもない。あれは壁全体ではなく、一点だけを選んで鳴った。
その場で点検を続けるのはやめた。壁を叩き、温度を測り、振動計を貼るだけならできる。だが原因を決めるには、音を聞いている人間の証言が要る。ドヒョンは入居者を刺激するなと言った。つまり、入居者に聞かれると困る何かがある。
一階へ下りると、薬局のシャッターの隙間にまだ明かりが残っていた。ミンジェが名刺を差し出すと、白衣姿の女性が少しだけ目を細めた。胸元の名札には『薬剤師 ハン・セヨン』とある。
「ハン・セヨンさんですね。騒音鑑定で来ました」
「管理組合長が、来るなと言っていませんでしたか」
返事は静かだったが、疲れが濃かった。年齢は四十前後。薬棚の前に立つ姿勢はきちんとしているのに、指先だけが落ち着かず、処方箋の束の角を撫でていた。
「私は音を確認するために来ています。聞こえていることを、できるだけ具体的に教えてください」
セヨンはしばらく奥の天井を見上げた。
「毎晩です。午前零時四十分になると、上からミシンを踏む音がします」
「ミシン?」
「ええ。足踏み式の古いものみたいに、タタタ、タタタ、と。けれど布を縫っている音じゃありません。針が何もないところへ打ち込まれているみたいなんです。音の拍子だけが、はっきりしていて」
ミンジェは手帳に時刻を書いた。午前零時四十分。金属音が鳴った壁の位置と、セヨンが指した天井の方向はほぼ重なる。
「いつからですか」
「最初は数か月前だと思いました。でも、よく考えるともっと前からです。聞こえないふりをしていただけかもしれません」
その言い方は、初めて苦情を言う人間のものではなかった。長く耐え、誰にも信じてもらえず、ついには自分の耳を疑うようになった人間の声だった。
「管理組合長には?」
「言いました。古い配管だと。薬局は音に敏感すぎるとも言われました」
セヨンは苦笑しなかった。ただ、薬棚のガラスに映る自分の顔を見ないように視線を落とした。
二階のオ数学学院では、オ・ジョンフンがひとりで机を並べ直していた。細身の男で、袖口にチョークの粉がついている。突然の訪問にも驚かなかった。むしろ、ようやく来たかという顔だった。
「天井の音ですか」
ミンジェが切り出す前に、ジョンフンが言った。
「薬局ではミシンの音が聞こえるそうです」
「ここでは、そのあとです。硬貨を数える音がします」
教室の蛍光灯が、ちょうどその言葉に反応したように小さく揺れた。ジョンフンは黒板の前に立ち、天井を指した。
「一枚ずつ、乾いた机の上に置くみたいな音です。チャリン、じゃありません。もっと硬い。金属の皿か、古い金庫の上で数えているような」
「何枚か数えられますか」
「最後までは無理です。数えようとすると、蛍光灯が揺れます。子どもたちも見ました。管理組合長は、古い安定器のせいだと言いましたが」
ジョンフンはそこで唇を噛んだ。教師が子どもの前で説明できなかった悔しさが、そこに残っていた。
「ミシンの音のあと、すぐですか」
「少し間があります。まるで、前の音が終わるのを待っているみたいに」
順番がある。ミンジェはその一点に線を引いた。配管や換気扇の共振なら、入居者ごとに別々の比喩が出ても不思議ではない。だがミシン、硬貨、時刻、間隔。証言は奇妙なほど噛み合っていた。
四階の祈祷院は、蛍光灯を半分だけ点けていた。木の椅子が十脚ほど並び、壁には小さな十字架が掛けられている。牧師のソ・ギジュンは、入口でミンジェを迎えた。痩せた頬に、眠れない夜の影が深い。
「一階と二階で話を聞きました。四階でも音が?」
ギジュンはうなずいた。
「最後に、古いカセットテープが巻き戻る音がします」
その言葉で、ミンジェの指が止まった。
「巻き戻し?」
「キュルキュル、と。昔のテープを早戻しする時の音です。ここにはもう、そんな機械は置いていません。けれど礼拝堂の天井の奥から聞こえる」
「毎晩ですか」
「ええ。午前零時四十分から始まる一連の音の最後に」
ギジュンは聖書を机に置いた。表紙の角が、何度も握られたように擦り切れている。
「最初は悪霊だと思いました。祈りました。でも、あれは祈りに反応しません。決まった時間に始まり、決まった順番で終わる。まるで誰かが録音したものを、毎晩同じ場所から再生しているようです」
「管理組合長には?」
「言いました。言わない方がいいとも言われました。信徒が不安がるから、と」
三人とも同じだった。初めて恐怖を口にしたのではない。すでに何度も壁に向かって訴え、返事のない場所へ押し戻されてきた顔をしていた。
ミンジェは二階の踊り場へ戻った。壁は黙っている。だが今は、その沈黙の中に三つの音が順番待ちをしているように思えた。
不法な配管か。隠された機械室か。古いビルでは、無許可の改装で空間が潰されることはある。だが階数そのものが消え、エレベーターのボタンまで最初からなかったように作られている例は聞いたことがない。
ミンジェはバッグを開き、小型録音機を三台出した。一台を一階薬局の天井裏に近い棚の上へ、もう一台を二階教室の蛍光灯の下へ、最後の一台を四階祈祷院の譜面台の陰へ置いた。踊り場の壁には接触マイクを貼り、タイマーを午前零時三十九分五十秒に合わせる。
録音開始は零時四十分の十秒前。十分な余裕だ。音が配管なら、前兆の振動も拾える。
「本当に録るんですか」
薬局の戸締まりをしていたセヨンが、階段の下から見上げていた。
「録ります。音は、残れば嘘をつきません」
そう答えたものの、ミンジェは自分の言葉に少しだけ引っかかった。今日の壁の奥の音は、残ることを拒んでいるようだった。
管理室の方から、ドヒョンが一度だけ顔を出した。
「遅くまでやるんですか」
「夜間音の鑑定ですから」
「入居者に余計な話を聞かせないでください」
「余計かどうかは、音源を確認してから判断します」
ドヒョンの目の下の影が、蛍光灯の下でさらに黒く見えた。彼は何か言いかけ、やめた。そして管理室へ戻った。
午前零時三十分を過ぎると、ビル全体の生活音がさらに薄くなった。食堂の冷蔵庫が一度だけ唸り、薬局の奥でビニール袋がかすかに擦れる音がした。二階の教室では、誰もいない机が規則正しく並んでいる。四階の祈祷院からは、ギジュンが小さく祈る息だけが漏れていた。
ミンジェは二階踊り場にしゃがみ、ノートパソコンで各録音機の状態を確認した。三十九分五十秒になれば自動起動。ファイル名は階数と場所で分けた。電源、残量、同期時刻。すべて正常だった。
三十九分四十五秒。
ヘッドホンを耳に当てる。まだ録音は始まっていない。監視用の入力レベルだけが、真っ黒な画面に細い線を描いている。
三十九分五十秒。
一台目が起動準備に入った。続いて二台目、三台目。接触マイクのランプが赤く瞬く。完全な録音状態になるまで、あと数秒。
その時だった。
タタタ、と。
壁の向こうで、古いミシンの針が走った。
ミンジェは反射的に画面を見た。時刻表示は午前零時三十九分五十八秒。予定時刻より二秒早い。しかも録音機の一台は、まだ初期化中だった。
それでも波形欄には、起動前の空白を食い破るように、細い針の列がすでに刻まれていた。
ミンジェの背筋が冷えた。機材はまだ、音を拾える状態ではなかった。
なのに、ミシンの音だけが先に記録されていた。
誰も上がれない三階から、午前零時四十分に僕の名を呼ぶ声がする
3話 空白を指す三つのセンサー
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