ミンジェは画面の時刻を見たまま、しばらく動けなかった。
午前零時三十九分五十八秒。予定より二秒早い。初期化の完了を示す緑の表示はまだ出ていない。録音機は、音を拾うための回路を開き切っていなかった。
それでも波形は残っていた。
細く、等間隔に並ぶ針の列。セヨンが言った古い足踏みミシンの拍子そのものだった。壁の向こうで、タタタ、タタタ、と虚空を縫う音が、機材の準備より先に入り込んでいた。
『音が記録されたんじゃない。記録の中に、先に置かれていた』
そう考えた瞬間、ミンジェはヘッドホンを外した。耳で追うだけでは足りない。音がどこから来るかではなく、建物のどの部分を揺らしているかを見なければならなかった。
彼はバッグから予備の振動センサーを取り出した。薄い円盤型の接触式で、床や壁に貼れば微細な揺れを座標化できる。電池残量を確認し、二階踊り場の壁に貼った接触マイクの近くへ一台、階段の折り返しの床へ一台を追加した。
ミシンの音は続いている。だが一定ではなかった。
タタタ。
そこで、ぷつりと切れる。
三拍ぶんの沈黙。
また、タタタ。
同じ沈黙。
ミンジェはノートパソコンに三台の入力を並べた。二階踊り場の接触マイクと、今追加した二台の振動センサーだ。遅延補正をかけると、壁の一点だけが反応しているように見えた最初の印象が、少しずつ崩れ始めた。
壁ではない。
振動の中心は、壁面より奥にある。
「……二階の上でも、四階の下でもない」
ミンジェは立ち上がり、四階へ駆け上がった。階段の途中、三階があるはずの高さで、蛍光灯が白く息を止めたように暗くなる。足元のコンクリートは普通の階段の感触だったが、耳の奥ではミシンの音だけが高さを持っていなかった。上からでも下からでもない。階段の途中、番号の消えた空間から鳴っている。
祈祷院の扉は少し開いていた。ギジュンが礼拝堂の中央で、膝の上に聖書を置いていた。祈っていたのではない。音が始まったせいで祈りを止めていたのだ。
「またですか」
「はい。今日は……少し早い」
ギジュンの声は低かった。ミンジェは短くうなずき、礼拝堂の床へ三台目の振動センサーを貼った。十字架の下ではなく、天井の音が最も近く聞こえるという椅子の列の中央。センサーのランプが赤く点く。
「床を叩くような音はありますか」
「いいえ。上からです。けれど、頭の上ではない。もっと……床の下にも似ています」
その矛盾した説明を、ミンジェは否定しなかった。今のデータは、まさにその矛盾を示していた。
四階の床が、下から揺れている。
二階の踊り場の壁が、上から揺れている。
そして二つの揺れの中心は、どちらの面にもない。
ミンジェは礼拝堂の床にしゃがみ、パソコンを開いた。三台のセンサーの座標を重ねる。配管シャフトの位置は、前にドヒョンが見せた簡易図面で確認していた。水道管は東側の壁沿い。排水は階段裏。換気ダクトは四階の祈祷院の奥から屋上へ抜けている。
だが三台のセンサーが指した点は、そのどれにも重ならなかった。
二階と四階のあいだ。構造図上は、コンクリートと梁で埋まっているはずの厚みの中。
完全な空白を、数字が指していた。
「そんな場所に機械は置けない」
ミンジェがつぶやくと、背後で足音が止まった。
「だから申し上げたでしょう。古い建物は、数字どおりにはいきません」
ドヒョンが入口に立っていた。濃紺のジャンパーの下に、寝間着のような薄いシャツが見えた。起きていたのか、眠れなかったのかはわからない。整った顔の目の下だけが、さらに深く黒ずんでいた。
「今、四階の床と二階の壁が同時に揺れています」
「換気扇でしょう」
「換気扇は止まっています」
「古い羽根は、隣の店舗の室外機で共振することがあります。祈祷院の天井裏に使っていないダクトも残っている。珍しくありません」
「では、そのダクトの図面をください」
ドヒョンは一拍遅れて笑った。礼儀正しい笑みだったが、唇の端に力が入っていた。
「深夜にこれ以上入居者を不安にさせる必要はありません。今日は撤収してください。明日、設備業者に確認させます」
「私はまだ音源を確認していません」
「十分でしょう。騒音は確認した。古い換気設備の共振として中間報告を出せます」
「三台のセンサーが、同時に同じ空白座標を示しています」
ミンジェが画面を向けると、ドヒョンの目がほんの一瞬だけ止まった。数字を理解した顔ではない。そこに数字が出ることを知っていた人間の反応だった。
「機械は誤作動します」
「三台同時に、同じ方向へ、同じ距離だけ誤差を出すことはありません」
ミシンの音がまた途切れた。
一度。
二度。
三度。
沈黙の間隔は、波形上で完全に一致していた。コンマ数秒のずれもない。空調や配管の揺れなら、温度差や圧力で必ず揺らぎが出る。これは自然に起きた共振ではない。誰かが、三拍ずつ切っている。
ミンジェは図面データを開き、座標を打ち込んだ。二階踊り場の壁から一・八メートル奥。四階祈祷院の床から一・四メートル下。階段の折り返しから西へ七十センチ。
三つの線が一点で交わった。
そこには何もない。
少なくとも、建物に存在していい空間はなかった。
「この位置に、過去に設備室か倉庫があった記録はありますか」
「ありません」
即答だった。早すぎた。
ミンジェはドヒョンを見上げた。
「まだ図面を見ていません」
「この建物は昔からこうです」
「昔から、とはいつからですか」
ドヒョンの表情が固くなる。礼拝堂の奥で、ギジュンが息をのんだのがわかった。答えの前に、ミシンの音がまた走った。
タタタ。
今度は短かった。まるで質問を縫い止めるように、壁と床の中を鋭く針が通った。
ミンジェは録音レベルを上げ、別画面に周波数解析を出した。ミシンの主成分は高すぎず、低すぎない。金属が打つ音なら当然出るはずの倍音が、途中で刃物に削られたように消えている。最初にこの建物を訪れた夜、聴診器越しに聞いた細い金属音と、末尾の切れ方が似ていた。
あのとき混じっていた、吸いかけの息。
今回の波形にも、音が途切れる直前に同じ陰があった。息そのものではない。息が始まる場所だけが残り、直後を何かに切り落とされている。
『ミシンは音を出しているんじゃない。何かを切っている』
根拠にはまだ届かない考えだった。だが、胸の奥に冷たく沈んだ。
「パクさん」
ドヒョンの声が低くなった。
「専門家として来ているなら、入居者の不安を煽る言い方は慎んでください。空白だの、存在しない場所だの、そういう話は必要ありません」
「必要かどうかは、音が決めます」
「音は人を騙します」
「だから数字で見ています」
ドヒョンはそれ以上言わなかった。だが帰ろうともしない。礼拝堂の入口で、こちらの手元と画面を交互に見ていた。撤収させたいのに、近づいて機材を止めることはできない。その距離の取り方が、ミンジェには奇妙に見えた。
まるで、音そのものよりも、音が止まったあとの何かを恐れているようだった。
午前零時四十二分十三秒。
ミシンの音が、ぷつりと止まった。
余韻はなかった。針が最後の布目を抜けるような終わり方ではない。電源を切ったようでもない。始めからそこにあった線を、誰かが指で消したように、突然なくなった。
礼拝堂に沈黙が落ちた。
ギジュンが胸の前で手を組んだ。ドヒョンは動かなかった。ミンジェは画面を見た。三台のセンサーの座標は、まだ同じ一点を指している。揺れだけが、完全に消えていた。
十秒。
二十秒。
三十秒。
何も起きない。
「終わったようですね」
ドヒョンが言った。声にわずかな安堵が混じっていた。
ミンジェは答えなかった。ジョンフンは言っていた。ミシンのあと、少し間がある。前の音が終わるのを待っているみたいに、と。
その間を、今、建物が数えていた。
やがて天井の内側で、小さく乾いた音がした。
チャリ、と。
硬貨が一枚、硬い床へ落ちた音だった。
四階の礼拝堂の天井裏ではない。二階の教室でもない。センサーが指し続けている、二階と四階のあいだの完全な空白。誰も入れず、床も存在しないはずの場所で、硬貨は確かに転がった。
チャリ、チャリ、と二度目の音が続いた。
ドヒョンの顔から、作った笑みが消えた。
ミンジェは録音レベルをさらに上げた。ミシンは止まった。硬貨は、その停止を待っていた。順番は一度も乱れていない。
そして三度目の硬貨が転がる直前、空白の奥で、誰かが息を吸った。
誰も上がれない三階から、午前零時四十分に僕の名を呼ぶ声がする
4話 七枚目の静寂と巻戻し
次の話