三度目の硬貨が落ちる直前、ミンジェは息を止めた。
空白の奥で吸い込まれた息は、誰かの喉から出たものにしては近すぎた。ヘッドホンの中ではなく、礼拝堂の天井でもなく、胸の内側に直接吹き込まれたようだった。だが次の瞬間、チャリ、と硬貨が鳴り、その息の始まりだけを踏みつぶした。
ミンジェは録音レベルを最大まで上げた。通常ならこんなことはしない。入力が割れ、鑑定に使える波形ではなくなる。だが今の音は、拾えるか拾えないかの境にいた。歪みを恐れて下げれば、肝心な沈黙まで逃げる。
「何をしているんですか」
ドヒョンが低く言った。
「数えています」
「硬貨を?」
「硬貨ではなく、間です」
画面上で、四つの入力波形が横に伸びた。一階薬局、二階教室、四階祈祷院、二階踊り場の接触マイク。さっきまでミシン音を指していた座標は、硬貨の音に切り替わっても動かなかった。二階と四階のあいだの空白。存在してはいけない厚みの中心。
チャリ。
四枚目。
チャリ。
五枚目。
ミンジェはカーソルを動かし、ピークとピークの間隔を測った。〇・八六秒。次も〇・八六秒。ずれは一ミリ秒未満。人間が手で硬貨を落としているなら、どれほど慎重でもわずかな揺らぎが出る。機械なら倍音の出方がそろう。けれどこの音は、落下の質感だけが生々しく、間隔だけが機械より正確だった。
「……六」
ミンジェの声が小さく漏れた。
チャリ。
七枚目が鳴った。
その瞬間、礼拝堂の空気が固まった。さっきまで低く震えていた床も、天井裏のざらつきも消えた。ギジュンが胸の前で組んでいた手を強く握り、唇だけで祈ろうとした。だが最初の息が出ない。祈りも音の順番を待たされているようだった。
沈黙は七秒続いた。
ミンジェは画面を見つめたまま、首の後ろが冷たくなるのを感じた。七枚、七秒。偶然ではない。しかも沈黙のあいだ、波形は完全なゼロではなかった。録音レベルを最大にしたせいで、普通なら機材ノイズが細かく立つ。なのにその区間だけ、ノイズまで誰かに押さえつけられたように平らだった。
息を止めているのは、人間ではない。
建物だった。
八秒目に入る直前、また一枚目が落ちた。
チャリ。
ドヒョンの肩がわずかに跳ねた。彼はその反応を隠すように、腕時計へ目を落とした。ミンジェは見逃さなかった。管理組合長は音が鳴ることよりも、七枚目の後の沈黙を知っている。
「この数え方に心当たりがありますね」
「何の話です」
「七枚ずつです。七枚目のあと、必ず七秒止まる」
「古い金属音を、そう聞きたいだけでしょう」
「では、なぜ今、時計を見ましたか」
ドヒョンは答えなかった。
二組目の硬貨が進む。二枚、三枚、四枚。ミンジェは画面の下に走る低周波成分へ目を移した。異常はそこにあった。硬貨そのものの高いピークとは別に、各階の入力に同じ低い震えが重なっている。周波数は四十八ヘルツ付近。二階の黒板も、一階の薬局も、四階の床も、同じ揺れ方をしている。
普通はあり得ない。階ごとに構造材も荷重も違う。薬局には棚と薬品、教室には机と黒板、祈祷院には木椅子と薄い床材がある。振動の癖は必ず変わる。だが今のドウォンビルは、全体が一つの空洞になったように同じ周波数で鳴っていた。
携帯が短く震えた。画面にはジョンフンからのメッセージが出ている。
『黒板のチョーク粉が、音に合わせて跳ねています。蛍光灯ではありません。粉だけです』
続いて、セヨンから着信が入った。ミンジェはスピーカーにせず、片耳のイヤホンだけで受けた。
「ハンさん、今どこですか」
「薬局です。すみません、閉めたはずなのに、奥の金庫が鳴っています」
彼女の声は静かだったが、呼吸が浅い。
「レジカウンターの奥にある、小さい金庫です。普段は触らない場所なのに、中で硬貨が震えているみたいに……」
チャリ。
画面では二組目の七枚目が鳴った。通話の向こうで、セヨンが言葉を切った。金庫の震えも、同じ瞬間に止まったのだろう。ミンジェは秒数を数えた。
一、二、三。
薬局の入力、教室の入力、祈祷院の入力。すべてが同じように平らになる。
四、五、六。
建物の中で人間が動く音まで遠のいた。
七。
「……また始まります」
ミンジェが言い終える前に、三組目の一枚目が落ちた。
ギジュンがかすれた声で言った。
「これは、誰かが数えているのですか」
「少なくとも、数えられるように作られています」
「何のために」
ミンジェはすぐには答えなかった。硬貨の音は、金を数える行為に似ている。だがここで数えられているのが代金なのか、順番なのか、あるいは別の何かの残量なのかはまだわからない。ただ一つ確かなのは、この音が騒音として偶然漏れているのではなく、建物全体へ規則を伝えていることだった。
「共鳴箱です」
「何ですか」
「この建物が、今、ひとつの共鳴箱みたいに反応しています。階ごとに違う揺れ方をするはずなのに、同じ周波数へ合わせられている」
ドヒョンがゆっくりと顔を上げた。
「建物を楽器のように言わないでください」
「楽器なら、まだましです。これは音を鳴らすためだけの構造ではない」
三組目の硬貨が終わった。七枚目。七秒の沈黙。ミンジェは沈黙の中にカーソルを置いた。初めて二階踊り場で聞いた、糸を断ち切るような細い金属音。その直後に混じった、吸い込まれかけて止められた息。あれは単発の異常ではなかった。ミシン音は三拍ずつ何かを縫い、硬貨音は七枚ずつ何かを数え、そのあいだで息は毎回、始まる直前に切られている。
金属音も、息も、この順番の一部だった。
ミンジェは録音画面を拡大した。七秒の沈黙の末端に、極小の陰がある。波形と呼べないほど薄いが、息の立ち上がりに似ている。口を開き、肺が空気を引き込む、その最初のふくらみ。
しかし続きがない。
刃物で切り落とされたように、そこから先だけが真っ白になっていた。
四組目は来なかった。
硬貨の最後の響きが消えると、空白は今までとは違う重さで沈んだ。ドヒョンが出口へ一歩下がる。ギジュンは聖書を抱え、天井ではなく床を見た。ミンジェの耳に、古いモーターの唸りが届いた。
キュル。
祈祷院の天井の奥深くで、テープが巻き戻り始めた。
キュルキュルキュル、と乾いた摩擦音が細く伸びる。ミシンや硬貨よりも高い位置から聞こえるはずなのに、センサーの座標は変わらなかった。音だけが上へ引き上げられ、発生源は相変わらず二階と四階のあいだに固定されている。
「止めろ」
ドヒョンが初めて命令口調になった。
「何をですか」
「その機械を止めろ」
「今止めたら、最後の音が録れません」
「録る必要はない!」
礼拝堂にその声が跳ね返った。ギジュンが目を見開く。ドヒョン自身も、自分の声の大きさに気づいたように口を閉じた。
巻き戻し音は速くなった。キュルキュルという音の中に、古い磁気テープが傷ついた時のざらつきが混じる。ミンジェは波形を見た。高周波の線が右へ走り、途中で細かく震え、急に角度を変える。まるで録音された何かを元の位置へ引きずり戻しているようだった。
そして最後に、また息があった。
ミンジェは手を止めた。
波形は、息を吸い込む直前で断ち切られていた。自然に減衰したのではない。ノイズゲートで消えたのでもない。一本の刃で、そこから向こうを削ったように、線が垂直に落ちている。
その先には何も記録されていなかった。
無音ではない。無音なら、無音として機材の底が残る。だがそこには底すらない。録音ファイルの内部に、時間だけが抜き取られた黒い穴が開いていた。
「……録れていない」
ミンジェはつぶやいた。
「ほら、機械の限界です」
ドヒョンが急いで言った。声は震えていた。
「違います。録れなかったんじゃない。録ったあとで、そこだけ消されています」
ミンジェは保存処理を走らせた。ファイル名、時刻、各階の入力。すべて正常に並ぶ。だが巻き戻し音の最後だけ、三台の録音機と接触マイクの全ファイルで同時に切断されていた。切断点は完全に一致する。機材の故障なら、こんなそろい方はしない。
彼は再生位置を一秒戻した。巻き戻し音。ざらつき。息のふくらみ。そして断絶。
画面のカーソルが、断絶した位置で止まった。
操作していない。
ミンジェは指をキーボードから離していた。なのに再生カーソルだけが、真っ白な空白の手前で動かない。ノートパソコンのスピーカーは無音だった。だがヘッドホンの右側で、かすかに磁気テープが逆回転する気配がした。
次の瞬間、保存したばかりの四つのファイルの末尾が、同時に一秒ずつ短くなった。
「パクさん」
ギジュンが震えた声で言った。
ミンジェは画面を見つめたまま、返事ができなかった。切り取られたのは音だけではない。時間そのものが、誰かの手で巻き戻されていた。
そして空白の奥で、また誰かが息を吸い始めた。
誰も上がれない三階から、午前零時四十分に僕の名を呼ぶ声がする
5話 名を呼ぶ停止区間の残響
次の話