古い女の声が消えたあとも、携帯電話の画面には「イ・ソネ」の三文字が残っていた。
イム・ソナは喉を押さえたまま、登録証と携帯を交互に見た。自分を証明するものが二つ並び、その片方だけが別人になっている。ミンジェは携帯を机の上で伏せ、画面を見ない位置へ滑らせた。
「触らないでください。今は、自分の名前を確認する行為そのものが入口です」
ソナは声を出せず、ただ目だけで助けを求めた。ミンジェはボンレに視線を向ける。
「ユンさん。この部屋から出してください。登録証は袋に入れて、本人には読ませない。呼ぶ時も、名前ではなく部屋番号で」
ボンレは短く頷いた。震えていたが、廊下でソナを止めた時と同じ強さが戻っていた。
二十分後、薬局裏の倉庫は臨時の状況室になっていた。セヨンが薬箱を壁際へ寄せ、ジョンフンが塾から持ってきた移動黒板を立てた。ボンレはソナを五階の自室へ避難させてから戻り、ギジュンは四階の礼拝堂から電話で参加していた。
ミンジェは黒板の左端に時刻を書いた。
午前零時四十分。契約装置の本起動。
午前一時過ぎ。路地食堂、商売初日のレジ音。
午前一時二十四分。路地の商人たち、勘定感覚の喪失。
午前一時五十七分。二階、生徒二十一名、解答開始感覚の喪失。
午前二時過ぎ。五階、イム・ソナの名前回収。
「ここまでを、感覚ではなく順番で見ます」
ミンジェは地下で撮影した目録画像をタブレットに開き、黒板の右側に契約番号を書き写した。チェ・マンシクの行の次に、路地の商人たちの枝番号が続いていた。さらにその下には、親世代の契約者名と子どもたちの家族関係が重なる二十一件が並んでいた。最後に、黒く滲んでいた行の一部が、さっきから少しだけ読めるようになっていた。
イ・ソネ、婚姻前の名前。
ジョンフンは腕を組んだまま、喉を鳴らした。
「つまり、うちの生徒たちは偶然巻き込まれたんじゃないんですね」
「偶然ではありません。目録の順番どおりです」
「親が昔、何かを預けたから、子どもの手が止まった」
「はい。契約者本人からだけではなく、その音で開かれる生活の入口へ伸びています」
セヨンが静かに言った。
「路地の人たちは、お金を渡す感覚を失いました。子どもたちは、答えを書き始める感覚を失いました。あの子は、名前を……」
彼女は途中で口を閉じた。自分の息子の名前も、まだ完全には音へ戻っていない。その痛みを押し込むように、指先で薬袋の端を折った。
「私がリールを一本再生したからです」
倉庫の空気が沈んだ。ミンジェは言い訳を続けなかった。
「チェ・マンシクさんの回収条件を確認するため、私は契約リールを再生しました。音量は下げ、耳へ直接入れないよう準備もしました。ですが音は再生機から出なかった。建物全体を共鳴箱にして噴き出した。それが、長く止まっていた装置への合図になった可能性が高い」
電話の向こうで、ギジュンが低く息を吐いた。
「では、今はもう、止まった機械ではないのですね」
「目録が自分で未回収契約を読み上げ、順番に回収しています。待っていれば次へ進むだけです」
ボンレが黒板の下の行を見つめた。
「次は、どれだい」
「名前の行の次です」
ミンジェは画像を拡大した。滲みの奥、紙の繊維に沈んだ薄い文字を読む。これまで祈祷院で起きた喪失と一致する語があった。彼は指で画面の該当箇所を押さえた。
ソ・ギジュン、祈祷文の最初の朗読。
セヨンが小さく息を呑んだ。電話口の沈黙が重くなった。
ギジュンは以前、祈祷文の最初の一節を失っていた。だが目録の表現は少し違う。祈祷文そのものではない。最初にそれを朗読した時の音。意味ではなく、声を始めた瞬間の原本だった。
「ソ牧師」
ミンジェは電話を持ち直した。
「礼拝堂をすぐ空けてください。信徒の記録、祈祷文の写し、録音機材、全部その場から離してください。ご自身も祭壇から離れて、廊下へ出てください」
「分かりました」
ギジュンの返事は落ち着いていた。重いが、まだ本人の声だった。
「看板は見ないでください。祈祷文も読まない。口の中で唱えない。喉を動かさないでください」
「喉を……動かさない」
「はい。今回は文字や記憶ではなく、朗読の音そのものが対象です。声を始める動作が危険です」
電話の向こうで椅子を引く音がした。革の聖書を閉じる鈍い音。鍵束が机に触れる音。ミンジェはその一つ一つに注意を向けた。録音はしていない。だが装置が聞いているなら、普通の生活音すら入口になる。
「今、礼拝堂の扉にいます」
ギジュンが言った。
「廊下へ出ます。鍵を……」
そこで、彼の言葉が途切れた。
最初は回線の不調に聞こえた。短いノイズが入り、受話口の奥で空気が一度だけ吸い込まれる。ミンジェは反射的に端末を耳から離した。倉庫の全員が、同じ音を聞いた。
息だった。
誰かが、朗読の前に深く息を吸う音。
「ソ牧師。返事をしないでください」
ミンジェは短く言った。
返事はなかった。代わりに、ギジュンの声が戻ってきた。だがそれは、倉庫で何度も聞いた静かで重い牧師の声ではなかった。高さは同じなのに、抑揚がない。意味を信じる人間の声から、意味を運ぶだけの管の音へ変わっていた。
「はじめに、閉じられた息があった」
セヨンが棚に手をついた。ジョンフンは黒板消しを落とし、白い粉が床へ散った。ボンレが口元を押さえる。
ギジュンの声は続いた。
「息は名の前に置かれ、名は扉の前に置かれ、扉は聞く者の耳に置かれた」
ミンジェの背筋が凍った。それは、ギジュンが普段使う祈祷文ではない。聖書の句でも、教会で聞く定型でもなかった。だが拍子だけは、古いテープの巻き戻し音と同じ間隔で刻まれている。
「ソ牧師、喉を押さえてください。声を止めるのではなく、息を止めてください」
受話口の向こうで、壁に手をつくような鈍い音がした。ギジュンの呼吸が乱れる。しかし単調な朗読は、彼の苦しみと無関係に続いた。
「最初に読んだ者は、最初に返す。最初に返す者は、次の口を開く」
ミンジェはタブレットの画面を見た。目録の「祈祷文の最初の朗読」の行が、黒く反転している。その右端に、今までなかった欄が浮かんでいた。
宿主確認。
「人の喉を使っている」
ジョンフンが掠れた声で言った。
「リールじゃなくて、今度は本人から直接……」
「本人ではありません」
ミンジェは電話を切らなかった。切れば、四階で何が起きているか分からなくなる。だが聞き続ければ、こちらも原本の音を受け取る危険がある。
「装置が、ソ牧師の喉を通り道にしています」
その瞬間、倉庫の天井裏からも同じ息が聞こえた。薬局の蛍光灯が一斉に暗くなり、黒板に書いた契約番号の下へ、見えないチョークが一行を足した。
次の朗読先、未定。
電話の向こうで、ギジュンの声が最後の一節を読み上げた。
「耳を持つ者は、次に口を貸せ」
ミンジェの手の中で、録音していないはずの端末に赤い録音ランプが灯った。
誰も上がれない三階から、午前零時四十分に僕の名を呼ぶ声がする
26話 鍵の向こうの録音機
次の話