機械音声がミンジェの名を読み上げたあと、地下階段は急に息を止めたように静まり返った。冷たく重いコンクリートの匂いだけが漂っている。
扉の下の赤い光は消えない。閉ざされた内側で、録音機が確実に回っている。四階礼拝堂で使い、波形を保護したあとバッグへ戻したはずの予備機だ。置いた覚えのない場所で、しかも物理的に交換された錠前の向こう側で、勝手に起動している。
ミンジェはセヨンから預かっていた電気室の予備鍵を差し込んでみた。しかし、鍵は半分も入らずに硬い金属に突き当たった。新しい錠前は見た目だけでなく、シリンダーの構造ごと完全に替えられていた。もはやこの鍵で開けることはできない。
「開きませんか」
階段の上から細い声がした。ボンレだった。古いカーディガンの前を握りしめ、手すりに体重を預けている。
「鍵が替えられています。中で私の録音機が動いています」
「録ってるのかい。あんたを」
「おそらく」
答えながら、ミンジェは接触マイクを扉へ押し当てた。中の駆動音は安定していた。録音開始直後のノイズではない。もう数分は回っている。波形を見ると、音声入力の底に細い脈があった。ミシンの三拍でも、硬貨の七枚でもない。誰かが壁越しに爪で合図するような、短く低い連打だった。
ボンレが階段の上の闇を恐る恐る振り返り、声を落とした。
「ペクさんはね、夜ごとここへ来ていたよ」
ミンジェは鍵穴から手を離し、動きを止めた。
「いつからですか」
「ずっと前からだ。最初は管理の点検かと思った。でも違った。電気室の扉じゃない。この横の壁に耳を当てていた。こうやって」
ボンレは小さな体をさらにかがめ、コンクリートの壁に頬を寄せるようなしぐさをした。
「何か聞いていたんですか」
「聞いていたし、返事もしていた。小さな声で、ぶつぶつと。いくらだ、まだ待て、全部は渡せない、そんな言い方だった。人と取引してるみたいに」
地下特有の淀んだ冷気が、階段の段差の隙間から這い上がってきた。ミンジェは接触マイクを壁のほうへ移す。そこには配線管も点検口もない。だがマイクの入力には、電気室内よりさらに低い回転音が映った。
「それを誰かに言いましたか」
「言えるかい。あの人は、この建物の鍵を全部持ってる」
階段の上で靴音がした。
ペク・ドヒョンが降りてきた。片手に管理用のファイルを持ち、もう片方には透明な証拠袋のようなものを提げている。整った顔の目の下の影は、さっきより濃かった。
「現場保存中です。無断で接触しないでください」
「私の録音機が中にあります」
「あなたが持ち込んだ機材でしょう。だから保存するんです」
「四階で回収したあと、バッグに入れました。ここへ置いていません」
ドヒョンは階段の踊り場に立ち止まり、冷ややかな視線をミンジェのバッグへ落とした。
「ご自分の管理不備を、また建物のせいにするつもりですか」
ボンレが何か言いかけた。ミンジェは手で制した。ここで感情を出せば、ドヒョンの形に入る。
「錠前を替えた時刻と業者名を出してください」
「管理権限の範囲です」
「現場保存なら、立会人と封印記録が必要です。あなた一人で鍵を替えたなら保存ではありません」
ドヒョンの口元だけが、薄く歪むように笑った。
「パク鑑定士。あなたが地下から持ち出した契約目録の写しを、こちらへ提出してください」
「なぜですか」
「不確かな資料が外部へ流れれば、入居者に損害が出ます。偽造の可能性も確認しなければならない」
「原本は地下の箱にありました。あなたが隠したものです」
「言葉を選んでください」
声が一段と低くなった。表面的な丁寧さの下から、従わせようとする冷たい命令の色だけが残る。
「目録の写しを渡してください。警察でも市役所でもなく、まず管理組合へです。そうすれば、あなたの不法侵入については問題にしません」
ミンジェは録音機の波形画面を閉じた。録音は続けたまま、端末だけをポケットへ滑らせる。
「拒否します」
ドヒョンの目の奥が、ほんの一瞬だけ暗く動いた。
「後悔しますよ」
「記録します。管理組合長が、証拠提出を名目に契約目録の写しを要求した。拒否したところ、不法侵入を示唆して圧力をかけた」
「録っているんですか」
「耳で覚えています」
その言葉に、ドヒョンは鼻で薄く息を吐いた。それは嘲るような笑いにも聞こえたが、どこか深い疲れを隠しているようにも聞こえた。
「その耳が、いつまで役に立つでしょうね」
彼はそう言って地下を上がっていった。靴音が一階へ消えるまで、誰も口を開かなかった。
ドヒョンが去ってから十分後、薬局裏の臨時状況室に戻ったミンジェの携帯電話が短く震えた。差出人はドウォンビル管理室。添付ファイル名は「地下共用部_無断接近確認」だった。
セヨン、ジョンフン、ボンレが画面を囲む。再生された映像には、地下電気室前をうろつくミンジェの姿が映っていた。時刻は今日の午前二時十二分。だがその時間、彼は薬局裏でギジュンの波形照合をしていた。映像の中のミンジェは不自然に首を傾け、扉へ顔を近づけ、鍵穴を探るような動きをしている。
ジョンフンが歯を食いしばった。
「これ、完全に侵入者扱いにするつもりですね」
「管理室の端末に上がった映像です。入居者にも回せる形式になっています」
セヨンの声はかすれていた。
「これが出たら、先生が全部悪いことにされます。勝手に入って、機械を触って、変な噂を広げたって」
ミンジェは静かな怒りで指先が冷たくなるのを感じた。しかし、画面は止めない。映像の歪みは、怒るより先に読むべき情報だった。
「影が合っていません」
彼は拡大した。踊り場の蛍光灯は右上から光る。だが映像内の彼の影は左へ落ちている。さらに靴音のない監視映像なのに、タイムコードだけが一秒に二度、微かに跳ねていた。
「これは管理端末用に加工されたものです。原本は別にある」
「どこに」
「設備会社の外部サーバーです。古いビルほど、管理室の端末は閲覧用で、原本は保守会社側に残ります」
ミンジェは以前、別の騒音苦情の現場調査で使った保守用アカウントの存在を思い出した。正式な依頼時に発行された一時閲覧権限は、まだ失効していない。彼は自分の携帯回線を使わず、薬局の古いカード決済端末の有線回線を借りた。音に関する通信は消される。だが映像保守の接続は、まだ装置の注意から外れている可能性があった。
ログイン画面が開く。指が一度止まる。ミスをすればロックされる。
ミンジェは息を浅くし、保守会社名、建物番号、依頼番号を順に入れた。暗い画面が切り替わり、外部保存のCCTV映像の一覧が並ぶ。地下階段。電気室前。管理室廊下。どれも現在時刻に近い最新のデータまで残っている。
「ありました」
改ざん映像と同じ時刻のログを開く。そこには、ミンジェはいなかった。代わりに、ドヒョンが地下へ降りていく姿が映っていた。手には工具袋と、外した古い錠前を持っている。彼は電気室の前で立ち止まり、周囲を確認してから、壁に耳を当てた。
ボンレが息を呑んだ。
「ほら……同じだ」
映像のドヒョンは何かを呟いていた。音声はない。だが唇の動きは短く、取引の数字を数えるように規則的だった。やがて彼は鍵を替え、扉の内側へ何かを入れるように身をかがめた。
その時、ミンジェの指が止まった。
ドヒョンのすぐ後ろに、子どもが立っていた。
地下階段の暗がりに、幼い男の子がひとり。古い半袖シャツに、膝の出た短いズボン。手には黄ばんだ紙を持っている。ミンジェはその紙を知っていた。掲示板の裏から見つけた、ドウォン音の教習所の賃貸チラシと同じものだった。
少年はドヒョンを見ていなかった。
カメラを、まっすぐ見ていた。
ミンジェは急いでタイムコードを確認した。午前二時十二分ではない。現在時刻の三十秒前。過去の鍵交換の光景が映っているはずなのに、外部サーバーの原本映像は、なぜかたった今撮られたばかりの奇怪な映像としてタイムコードを刻んでいた。
画面の中で、少年がゆっくりとチラシを裏返した。
そこに黒い手書きの文字が浮かんでいた。
三階、まだ貸出中。