無線の咳が途切れたあと、事務室には誰も声を出せない沈黙が落ちた。
倉庫長の手はまだジェユンのノートへ伸びた形のままだった。だがソンロクがその前に立つと、指先だけが空中で止まった。外ではトラックのエンジンが一台、寒い夜気を震わせながらかかっている。
「……行きます」
ソンロクが言った。
倉庫長は勝ったように顎を上げたが、父は机の運行補助簿へ短く書きつけた。車両二三七。釜山第一協力。出発時刻、二十一時十八分。鉛筆の文字は浅かったが、消すには紙の表面ごと削らなければならない強さがあった。
「何を書いてる!」
「点検記録です。ブレーキと灯火だけは残します。走行中に事故を起こせば、倉庫にも迷惑がかかります」
倉庫長は歯を噛みしめた。今はそれ以上押し問答をしている時間がない。釜山の煙は、待ってくれない。
ジェユンは父の後を追い、助手席へ乗り込んだ。ソンロクは一度だけ、運転席から息子を見た。
「降りろ」
「降りません」
「現場は危ない」
「だから行きます」
子どもの声だった。だがソンロクは、その短い返事の奥に、前より固いものを聞いたのだろう。ハンドルを握る指に力を入れ、何も言わずにギアを入れた。
トラックが第三倉庫の門を出ると、錆びた鷲の紋章が背後に沈んだ。ジェユンは膝の上でノートを開き、車内灯の弱い光を頼りに書いた。
二十一時二十二分、第三倉庫発。車両二三七。運転手パク・ソンロク。助手席、パク・ジェユン。無線内容、釜山第一協力塗装ライン火災、負傷者三名、一名搬送不能。
鉛筆を握る手に力が入り、紙の裏まで跡が残りそうだった。前世でヒョヌだった頃、彼は他人が作った調書の最後に署名した。今回は違う。最初の一行から、自分で残す。
高速道路へ入ると、夜の黒い路面にヘッドライトが伸びた。ソンロクはいつもの会長車のように滑らかには走らせなかった。荷台の空箱が揺れ、車体が細かく鳴るたびに、父の肩がわずかにこわばった。
「お前は、どうしてそこまで書く」
突然、ソンロクが低く尋ねた。
ジェユンは窓の外を見たまま答えた。
「書かないと、あとで誰も覚えていないことにされます」
「覚えている人間はいる」
「覚えているだけでは、負けます」
言ってから、ジェユンは唇を閉じた。子どもが言うには乾きすぎた言葉だった。ソンロクもそれに気づいたはずだが、追及しなかった。フロントガラスの向こうだけを見て、アクセルを踏み込んだ。
釜山第一協力の門へ着いたのは、二十三時を少し過ぎた頃だった。工場の上には、まだ薄い煙がたまっていた。消防車の赤い光はあったが、数は少ない。門番の詰所には誰もおらず、構内の奥で人が走る影だけが見えた。
トラックが停止すると、焦げた塗料の匂いが窓の隙間から入り込んだ。塗装ラインの建屋の片側は黒くすすけ、窓の一部が割れている。作業服の胸や袖を灰で汚した労働者たちが、壁際に座り込んで咳をしていた。
「第三倉庫から来ました。部品と負傷者の確認を」
ソンロクが言うと、工場の管理者らしい男が振り向いた。ヘルメットはかぶっているが、顎ひもは外れていた。顔には煙より濃い苛立ちが浮かんでいる。
「遅い。倉庫からすぐ出したんじゃなかったのか」
「出発時刻は二十一時十八分です」
ソンロクが答えると、男の目が一瞬だけ狭まった。時刻を残している相手を、面倒だと判断した顔だった。
「そんなことはいい。テガン向けの塗装済みブラケットが焼けた。ラインも止まった。こっちは下請けに責任を確認させないと、本社へ報告できん」
「負傷者はどこですか」
男は舌打ちした。
「事務室だ。軽いのが二人、ひどいのが一人。救急車は待たせている。本人確認が先だ」
救急車を待たせている、という言葉に、ジェユンの胸の奥が冷えた。待っているのは車ではない。責任の置き場が決まるのを待たされているのは、怪我をした人間だった。
事務室へ入ると、煙の臭いと薬品の臭いが混ざっていた。床に新聞紙が敷かれ、その上に三人の作業員がいた。一人は腕に湿った布を巻き、一人は額を押さえて座っている。奥の男は壁にもたれ、息をするたびに胸が浅く上下していた。顔にすすがこびりつき、唇が紫に近い色になっている。
そばで若い女が泣きそうな顔で両手を合わせていた。母か妻か姉か、ジェユンにはすぐ分からなかった。彼女の横には年配の女が、印鑑の入った小袋を握りしめている。
「名前は」
ジェユンは思わず尋ねていた。
管理者が振り返った。
「子どもは外へ」
「名前を確認します」
「必要ない。工場側で処理する」
「必要です。第三倉庫が部品確認で来たなら、現場にいた人の名前も輸送品目も、同じ時刻に書きます」
自分でも、声が硬すぎると分かった。だが引けなかった。ここで名前が抜ければ、次に残るのは、管理者が作った文章だけになる。
ソンロクの手が、ジェユンの肩へ伸びかけた。止めるためだったのか、守るためだったのか。その手は途中で止まり、拳になって下りた。
父ももう知っていた。書くなと言われた夜ほど、書かなければ消える。
ジェユンはノートの新しいページを開いた。すすけた作業服の胸にある名札に目を凝らし、見たままの状況を書き留めていく。
『負傷者一、イム・サンチョル。右前腕熱傷、意識あり。負傷者二、チョン・ヨンギ。額裂傷、意識あり。負傷者三、カン・ビョンホ。煙吸入疑い、意識混濁』
ジェユンが口の中でその名を呟くと、若い女が、びくりと顔を上げた。
「ビョンホは、夫です。病院へ行けますよね?」
誰もすぐに答えなかった。工場管理者は机の引き出しを開け、薄い書類の束を取り出した。表紙も番号もない、白い確認書だった。氏名欄と住所欄だけが空き、事故原因の欄は、まだ完全な空白に見えた。
「奥さん、落ち着いて。病院へは行かせる。ただ、その前にここへ書いてください。本人が塗料缶の移動時に足元確認を怠った。火災原因および負傷は個人の不注意による。そういう形にしないと、救急搬送の費用処理が遅くなる」
「でも、あの人はラインの中にいて……煙が」
「だから早く済ませましょうと言っているんです」
管理者は優しい声を作った。だが紙を押し出す手は、拒否を許さない速さだった。
ジェユンはその構造を見た。ペ・ミョンスの机にあった個人不注意確認書。福利基金先払い同意書。家族確認欄。異議申し立て放棄。全部、同じだった。空白は相手のために残された余白ではない。追い詰められた人間が、最後に自分の名前を置くための穴だった。
ソンロクの喉が小さく鳴った。
「先に救急車へ」
「第三倉庫の運転手さんは黙っていてください。あなた方は部品を取りに来ただけでしょう」
管理者は白紙確認書の横へ、朱肉を置いた。年配の女が震える手で小袋を開く。若い妻は夫の顔と紙を交互に見た。
「押せば、すぐ運んでくれるんですか」
その問いは、問いではなく助けを求める声だった。
ジェユンは息を吸った。止める言葉を選ぶより早く、彼の目が確認書の下に重なった二枚目へ落ちた。薄いカーボン紙の端から、すでに書かれた文字が透けていた。
搬送遅延および現場混乱は、第三倉庫側臨時車両の到着遅延による。
その横に、車両番号二三七、運転手パク・ソンロクの名が、先に打ち込まれていた。
管理者が静かに笑った。
「奥さん、お名前だけで結構です。判を押せば、全部こちらで処理します」
年配の女の印鑑が、朱肉へ触れた。
財閥家の末息子ではなく、財閥家の運転手の息子に転生した
22話 道を知る小さな案内人
次の話