印鑑の底が朱肉に触れる直前、ジェユンはソンロクの袖を引いた。
赤い面が少しだけ光っていた。若い妻は夫の顔から目を離せず、年配の女は何に判を押そうとしているのかも分からないまま、紙へ手を近づけている。
「押さないでください」
子どもの声が事務室に落ちた。小さいのに、妙に乾いていた。
工場管理者の笑みが消えた。
「何だと?」
ジェユンは紙を指ささなかった。そこを指せば、管理者はすぐに二枚目を隠す。代わりに、壁にもたれて浅く息をするカン・ビョンホを見た。
「先に救急室です。確認書は、病院で医者に診てもらってからでも書けます」
「子どもが口を出すことじゃない」
「押しても、救急車はすぐ出ません。ここには搬送先が書いてありません」
若い妻の手が止まった。年配の女も印鑑を宙で固めた。
ソンロクは一瞬、息子を見た。叱る目ではなかった。次に何をすべきか、無言で尋ねる目だった。
ジェユンは短く言った。
「総合病院の救急室です。煙を吸っています。小さい医院では無理です」
「夜中に受ける病院がどこにある」
管理者が吐き捨てると、ジェユンはすぐに工場事務室の黒電話へ向かった。受話器を取る手が、小学生のものだということが、今はかえって都合が悪かった。交換台の女性は最初、いたずらだと思ったらしく、声を冷たくした。
「釜山第一協力です。塗装ライン火災、煙吸入疑い、一名意識混濁。夜間救急で受け入れ可能な総合病院をお願いします」
前世の秘書室で、事故車両の搬送先を手配した時の言葉が、そのまま口から出た。嫌な記憶だった。だが使えるものは使うしかなかった。
最初の病院は満床だった。二つ目は当直医が内科のみ。三つ目は煙吸入なら救急車で来いと言ったが、受け入れ可否を濁した。管理者は腕時計を何度も見て、「もういい、近くの医院で」と急かした。
ジェユンは受話器を置き、すぐ外へ走った。
「どこへ行く!」
「公衆電話です。ここの電話は工場名が出ます」
その意味に気づいたのは、ソンロクだけだった。工場事務室からかけ続ければ、記録は工場側の判断として残る。通りの公衆電話なら、少なくとも誰がどこへ連絡したかを工場管理者一人で握れない。
夜の通りは焦げた匂いをまだ抱えていた。ジェユンは小銭を握り、電話帳の病院欄を指で追った。ソンロクが後ろから来て、黙って追加の硬貨を置いた。
「何番だ」
「ここ、ここから順に」
父は何も聞かず、工場事務室へ戻った。二人は工場の電話と通りの公衆電話を行き来しながら、同じ説明を何度も繰り返した。火災。煙吸入。意識混濁。搬送遅延あり。受け入れ可能か。夜間受付の窓口は開いているか。保証金はいくら必要か。
一時間近くかかった。
ようやく海雲台ではなく市内寄りの総合病院が、救急室に空きベッド一つ、処置室の受け入れ可能、と答えた。保証金と家族の身分証、着替えを持参するようにという条件つきだった。
ジェユンは受話器を握ったまま、工場へ戻らず別の番号を回した。牙山第三倉庫の食堂裏の電話番号だった。壁に貼られていた連絡先を、来た初日に写していた。
数回の呼び出し音の後、チョ・スネの眠そうな声が出た。
「こんな夜中に誰よ」
「スネさん、ジェユンです。釜山第一協力で負傷者を病院へ移します。カン・ビョンホさんの家族に現金と着替えを持たせてください。倉庫の人で、釜山に近い運転手はいませんか」
電話の向こうで、椅子が倒れる音がした。
「ちょっと待ちな。奥さんはそこにいるの?」
「います。でも印鑑を押させられそうです」
スネの声が一段低くなった。
「分かった。ミョンスに警備詰所を叩かせる。現金は食堂の前渡し分から少し出す。あとで誰が何と言おうと、私が鍋を焦がしたことにするわ」
冗談の形をしていたが、声は震えていなかった。
工場へ戻ると、管理者はすでに確認書を畳み、机の端へずらしていた。だが完全に諦めたわけではない。妻の肩に向かって、また優しい声を作っていた。
「病院へ行くならなおさら、書類を先に」
「病院名が決まりました」
ジェユンが割って入った。
「救急室が受けます。保証金は家族が持ってきます。第三倉庫にも連絡しました。今から運びます」
管理者の目が細くなった。
「誰の許可で第三倉庫へ連絡した」
「負傷者搬送の確認です。車両二三七で運びます。出発時刻も書きます」
ジェユンはノートを開いた。ソンロクはもう動いていた。工場の若い作業員二人に声をかけ、カン・ビョンホを担架代わりの板に移させる。妻は震えながら夫の靴を拾い、年配の女は印鑑の小袋を胸に抱いたまま、紙から一歩離れた。
「この責任を取れるのか」
管理者が低く言った。
ソンロクは振り返らなかった。
「人を運ぶ責任なら取ります」
その一言で、事務室の空気が少しだけ変わった。床に座っていたイム・サンチョルが、布を巻いた腕を抱えながら顔を上げた。額を押さえていたチョン・ヨンギも、かすれた声で病院名を妻へ伝えてくれと頼んだ。さっきまで誰も管理者の顔色ばかり見ていたのに、今は扉の外のトラックを見ていた。
病院までの道は短くなかった。荷台ではなく座席側へ無理にビョンホを横たえ、妻が体を支えた。ソンロクは速度を上げすぎず、信号のたびに呼吸を確認した。ジェユンは助手席で、到着時刻、搬送者、同行家族、工場側管理者の確認書提示を一つずつ書いた。
救急室の入口へ着くと、白衣の当直医と看護師が駆け寄った。煙を吸った時間を問われ、妻は答えられず泣き出した。ジェユンがノートをめくって、「二十時台後半に火災、二十三時過ぎ現場到着、意識混濁確認」と告げると、医師が一瞬だけ彼を見た。
「君が書いたのか」
「見た分だけです」
医師はそれ以上聞かず、看護師へ酸素と処置室を指示した。カン・ビョンホの体が奥へ運ばれていく。扉が閉まる直前、妻がジェユンの袖を掴んだ。
「押さなくて、よかったんですよね?」
ジェユンは少し迷ってから答えた。
「今は、治療が先です」
大人のような断言を避けた。だが彼女はその言葉だけで、やっと膝から力を抜いた。
病院の待合室には、夜明け前の乾いた蛍光灯がついていた。ベンチには工場の作業員、ビョンホの妻、年配の女、そしてソンロクが座った。遅れて、スネが手配した下請け運転手が封筒と着替えを届けてきた。封筒の中には皺のついた札が何枚も入っていた。食堂の前渡し分、警備詰所の小銭、誰かの今日の食費。どれも大きな金ではない。だが白紙確認書より先に集まった金だった。
着替えを届けた下請け運転手も、信じられないという顔で口を開いた。
「子どもが病院探したって、本当か」
ジェユンは壁にもたれたまま、待合室の人々の視線に気づいた。
工場の作業員たちは、もう彼をただの運転手の息子として見ていなかった。スネの使いで来た運転手も、ソンロクの顔色をうかがうだけでなく、ジェユンのノートへ目を落としている。誰も口に出さなかったが、分かっていた。ここから病院へ来る道を知っていたのは、この小さな子どもだった。どこへ電話し、誰へ金を頼み、どの時刻を残せばあとで消されにくいのかを知っていたのも。
ジェユンはその視線を受け止めなかった。受け止めれば、何かを期待される。期待はすぐに、次の責任になる。
『まだ早い』
そう思った時、救急室の内側から看護師が出てきた。
「カン・ビョンホさんのご家族。応急処置に入っています。煙をかなり吸っていますが、今すぐ危ない状態ではありません。ただ、しばらく観察が必要です」
妻がその場で泣き崩れた。年配の女が背中を支え、ソンロクは深く息を吐いた。ジェユンも、やっと鉛筆を置いた。
その瞬間、病院入口近くの公衆電話が鳴った。
夜明け前の待合室で電話が鳴ること自体がおかしかった。誰かがここへ折り返すと知っている。ソンロクが先に立とうとしたが、ジェユンの足のほうが早かった。
受話器を取ると、無線のような雑音の向こうでミョンスの声が割れた。
「ジェユンか? 第三倉庫だ。今度は大田近くで止まった。釜山に向かう核心部品を積んだトラックだって。エンジンが焼けて動かない。朝六時までに入らなければ、ラインがまた止まる」
ジェユンは待合室の壁時計を見た。午前四時前。残された時間は、二時間少ししかなかった。
受話器の向こうで、倉庫長の怒鳴り声がかすかに混じった。
「誰でもいい、道を知ってるやつを出せ!」
その言葉を聞いた瞬間、待合室にいた全員の視線が、今度ははっきりとジェユンへ集まった。
財閥家の末息子ではなく、財閥家の運転手の息子に転生した
23話 夜明け前の迂回路と閉じた扉
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