白い蛇の印は、鏡の内側でまだ光っている。テオは息を殺したまま、その白い線が紙の上からほどけるのを見る。ジンミョン人材の控除明細。東洋金属の帳簿。その下に隠れていた「白蛇金庫回収委託」の八文字が、水面に浮いた傷のように脈を打つ。
「回収……金庫」
低くつぶやくと、鏡の奥の影が肩をすくめる。テオと同じ顔。同じ目の下の影。同じ額に張りついた髪。けれど目だけが、古い井戸の底みたいに冷たい。
「ジンミョンが人を集める。ソンジンが書類を作る。東洋金属が閉じ込める。じゃあ、最後に取り立てるのは誰だと思う?」
「黙れ」
テオは携帯を机に置き、ラヒムから受け取った帳簿写真を鏡へ向ける。白蛇の紋様を指で拡大した瞬間、鏡の表面にも同じ動きが重なった。白い線が蛇のようにほどけ、黒い水面の奥へ潜っていく。
月影堂の空気が一段冷える。棚の黒い蝋燭が、火もないのに薄く汗をかいたように光る。テオはそれに触れない。ただ鏡の木枠を両手で押さえ、白い蛇の行き先を追う。
数字の列が浮かぶ。フォルダ名、日付、委託番号、暗号化されたファイル。テオにはすべての意味が分かるわけではない。だが月影堂の鏡は、紙の契約線と電子の記録を同じものとして噛み砕いていく。口座番号も送金履歴も、古い借用書の赤い拇印と同じ匂いを放っていた。
「見るだけにしなよ」
影が言う。
「触らなきゃ、助けられない」
テオは白蛇の紋様が押された階層の奥へ意識を沈める。そこに「回収帳簿」とだけ名づけられたファイルがある。黒い鍵のような線がかかっていたが、東洋金属の控除明細から伸びる委託番号が、その鍵穴へ勝手に差し込まれる。
かちり、と硬い音がした気がした。
鏡の表面に、白蛇金庫の回収帳簿が開く。
最初に現れたのはジンミョン人材の名前だった。派遣手数料、保証控除、紹介料、違約金。どの項目も人間の生活を少しずつ削るために並んでいる。その下にソンジン下請け。さらに東洋金属、富平の夜間寮、松林洞(ソンニムドン)の違法賭博場、朱安(チュアン)駅裏の無人店舗、私設の貸金業者の屋号が枝分かれしていく。
一本ずつではない。すべてが同じ幹から伸びていた。
「……全部、同じ線か」
テオの声がかすれる。学校の実習室で押しつけられた合意書。ジヒョクが奪った給料封筒。ソンジンの事故。東洋金属の檻。ばらばらに見えていたものが、鏡の中で一つの白い蛇の胴体へつながっていく。
帳簿の分類欄が開いた。
未回収債権。
延滞者。
保証人。
労務担保物。
その四つ目で、テオの指が止まる。
ラヒムの名があった。たどたどしい発音で自分の名を告げた男の名前が、ハングルとローマ字で二重に記されている。ナルギザの名も、少年二人の仮名もある。働いた時間も、未払い賃金も書いてある。だが賃金債権ではない。彼らは未払いを請求する人間ではなく、回収不能時に移送可能な担保物として分類されていた。
テオは息を吸うのを忘れる。
状態、移送可、身分証保管、身体労務換算、紹介先候補。ラヒムの負傷した手も、ナルギザの奪われた登録証も、少年たちの年齢さえ、誰かが値段へ変えるために入力している。
「人じゃないみたいに……」
言葉の終わりが喉で潰れる。鏡の奥の影は笑わない。ただ、濡れた紙をめくる音だけが背後から聞こえる。
テオは次の頁を開く。ヘジン貸付、港湾前払金、私設回収班、賭博場の管理口座。赤い線が、ジンミョン人材の未払い賃金明細へ戻り、そこから白蛇金庫の回収委託へ集まる。学生、移住労働者、配達員、商人。借りた者だけではない。名前を書かれた者、保証欄に押し込まれた者、知らないうちに手数料を背負わされた者まで、同じ帳簿の上で数字になっている。
『あいつらだけを焼けば終わると思ってた』
ジヒョクを、ドンスを、ミンギュを、サンチョルを。自分を踏んだ相手の名だけを返せば、苦しみは少し釣り合うと思っていた。だが鏡の前に広がるのは、誰か一人を倒して終わる形ではない。弱い者の名前を束ね、紙の端に押された印一つで売り渡す仕組みそのものだった。
「全部、写す」
テオは携帯を取る。普通のカメラでは黒い水面しか撮れないと分かっている。それでも指は止まらない。鏡の縁へ爪を立て、帳簿そのものを引き出そうとする。
「証拠にする。ジュヨンさんにも、労働団体にも送る。ジンミョンだけじゃない。白蛇金庫まで、全部」
鏡の右上に小さな窓が現れる。ファイル出力。圧縮。転送先。テオの考えに合わせるように文字が勝手に並ぶ。
「やめておけ」
影が初めて短く言う。
「君はまだ、扉の中に片足入れただけだ。丸ごと引けば、向こうも気づく」
「もう気づかれてる」
ジヒョクは玄関写真を持っていた。ムンシクはシェルターを洗わせている。白蛇金庫の印は、ラヒムたちの名前の横に冷たく座っている。見ないふりをする方が遅い。
テオが転送の白い枠へ触れようとした、その寸前だった。
鏡の表面に、黒でも白でもない線が割り込む。
細い矢印。パソコンの画面で見るカーソルに似ていた。それがテオの指先より先にファイル一覧をなぞり、回収帳簿の中へ滑り込む。テオは反射的に手を引いた。
「……何だ」
カーソルは迷わない。ジンミョン人材、東洋金属、労務担保物、回収予定者一覧。まるで探している場所を知っているように次々開く。そして白蛇金庫本部のアクセス制限フォルダの前で一瞬だけ止まり、別の小窓を呼び出した。
コピー進行率、十二パーセント。
テオの背筋に冷たい汗が落ちる。自分ではない。鏡の影でもない。誰かが同じ帳簿に同時に入り、ファイルを抜いている。
「誰だ」
影は答えない。鏡の中の同じ顔は、薄く目を細めている。楽しんでいるのではない。計算している目だった。
カーソルが回収帳簿の下層にあったアクセス記録を開く。そこへ残る奇妙な項目をなぞった。
mirror_surface / unknown route / active
その単語を見た瞬間、テオは自分のことだと直感する。鏡で覗いている痕跡が、サーバー側には奇怪な接続として残っている。白蛇金庫の誰かが見つける前に、別の誰かがそれを読んでいる。
「切る」
テオは黒布をつかむ。だがカーソルは先に動き、ラヒムたちの一覧と、白蛇金庫の委託契約番号だけを抜き出していく。売るためか、暴くためか分からない。けれど他人の手に渡った瞬間、彼らの名前はまた商品になる。
「やめろ」
テオは鏡へ手を押し当てる。水面が冷たい膜になって指を拒む。濡れた紙をめくる音が荒くなり、棚の蝋燭が一斉に小さく鳴った。
黒いカーソルがぴたりと止まる。
次の瞬間、鏡の中央に短い文字が打ち込まれた。
見えてる。
テオの喉が固まる。文字はすぐ消え、カーソルは何事もなかったようにコピーを続ける。進行率は五十六パーセント。テオは携帯を掴み、通信を切ろうとする。だが画面が勝手に点灯した。
発信者不明。
『鏡で見てる子、君だよね? この帳簿を売る前に一度会おう』
テオの指から力が抜けかける。文章は軽い。まるで夜中の取引相手に声をかけるような調子だ。だが内容は、首筋に刃を当てるより冷たい。鏡。帳簿。売る。こちらの手札を、相手はもう三つも知っている。
すぐに電話番号が表示される。テオは反射的にスクリーンショットを撮る。だが保存完了の表示が出る前に、番号が別のものへ変わる。さらに次の瞬間、また別の番号へ。国番号も桁数もばらばらで、追跡そのものを笑うように変化していく。
「ふざけるな」
テオは低く吐く。返信欄を開くと、勝手にカーソルが点滅した。こちらの携帯にも、向こうの指が届いているようだった。
鏡ではコピー進行率が八十九パーセントを越える。黒布をかぶせれば切れるかもしれない。だがその前に、相手が何を抜いたのか分からなくなる。放置すれば、ラヒムたちの名前ごと売られる。
テオは歯を食いしばり、携帯に一文字だけ打つ。
『誰だ』
送信の直後、番号はまた変わる。返事はすぐに来た。
『名前は会ってから。朱安駅裏、無人漫画カフェ。二十分後。黒い蝋燭は持ってきてもいいけど、火はつけないで』
テオの血が、音を立てずに冷える。
相手は黒い蝋燭まで知っている。
鏡の中のカーソルが最後のフォルダを閉じる。コピー進行率は百パーセントになり、白蛇の紋様の上に一瞬だけ別の小さな印が残った。蛇ではない。ひび割れた鍵穴のような、見たことのない印だ。
そして画面の奥から、もう一通のメッセージが携帯へ落ちる。
『遅れたら先に売る。ラヒムって人の名前、高く買う相手がいるから』
テオの手が黒い蝋燭へ伸びる。だが指先が触れる寸前で止まる。ラヒムの名前は救う名前だ。縛る名前ではない。火をつければ、また線はどこへ走るか分からない。
彼は蝋燭を新聞紙に包み、鞄の奥へ押し込む。鏡の影が何か言おうとする前に、テオは月影堂の扉へ向かう。
背後で、鏡の表面に白い蛇の紋様が再び浮かび上がる。その蛇の目が、いまはテオではなく、別の誰かが残した鍵穴の印を静かに見つめていた。
黒い蝋燭にいじめっ子の名前を刻んだ夜、俺は裏社会の鏡王になった
27話 無人漫画カフェの取引
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