鏡の内側を引っかく音は、テオの指先から腕へ、骨の中へ染み込むように続いている。
黒い蝋燭をつかんだまま、彼は息を止める。奥の闇は動かない。だが音だけが、ぎい、ぎい、と乾いた爪で透明な壁を削るように響く。囁きはまだ言葉になりきらない。ユ、とも、ユン、ともつかない湿った息が、月影堂の奥で膨らんでは潰れる。
逃げろ、と頭が言う。
だが足は動かない。学校へ戻れば、ジヒョクの背中がある。家へ戻れば、薬袋を握って眠るボクスンがいる。どこへ逃げても、彼らの笑い声は追ってくる。
テオはゆっくり息を吸う。黴と古い紙の匂いが喉に刺さる。肺の底まで入った冷気を、歯の隙間から吐き出す。指に食い込んでいた力を少しだけ緩め、黒い蝋燭を一本棚から抜いた。
その瞬間、奥の音が止まる。
静寂の方が、うるさい。
テオは携帯電話のライトを店内へ向ける。細い光が埃を切り、低い天井と、裂けた布の束と、倒れた木の椅子を浮かび上がらせる。床には護符のような紙が散らばっていた。黄ばんだ紙はところどころ破れ、墨で書かれた文字は水を吸ったようににじんでいる。踏むと、乾いた葉のように崩れそうだった。
「誰か、いるのか」
声は思ったよりかすれていた。返事はない。
テオは入口の敷居を越える。足元で護符が擦れる。壁際には、古い木箱がいくつも積まれている。そのうち一つは蓋が割れ、中から帳簿の角がはみ出していた。表紙は黒ずみ、端に白い黴が花のように広がっている。
ライトを近づけると、帳簿は一冊だけではない。床の上に何冊も倒れ、開いた頁が湿気で波打っている。そこには小さな文字で名前が並んでいた。姓、名、金額、日付。横には赤い拇印が押されている。古い血のような色だった。
テオは膝をつき、一番上の帳簿を開く。
紙は重い。乾いているはずなのに、指先にぬめりが残る。書かれている名前の多くは、知らないものばかりだった。だが金額の欄には、米代、薬代、葬儀費、避難費といった言葉が混じっている。高利貸しの記録だと直感する。借りた者の名。貸した者の名。返済期日。利息。遅延。赤い拇印。
頁をめくるたび、奥から微かな音が戻ってくる。
ぱさり。
濡れた紙を、誰かが別の場所でめくっている音。
テオは喉を鳴らす。ボクスンが言った昔話が、もう昔話ではない形で目の前にある。名前を食べる占い処。名前を食べられたら、借金も病気も、泣いたことも忘れる。彼女は怖いねえと笑った。けれどここに並んでいるのは、忘れたくて差し出した名前なのか、それとも奪われた名前なのか。
さらに頁をめくる。赤い拇印は次第に薄くなり、紙の色は黒ずむ。最後の方へ進むにつれて、文字は少なくなる。やがて、最後の一枚にたどり着いた。
そこだけが、奇妙に空白だった。
他の頁は隙間なく名前で埋まっているのに、その一枚だけには罫線も、金額も、日付も、拇印もない。白い紙ではない。湿り、黄ばみ、端に黒い染みまである。だが中央だけが、誰かが何年も避けてきたように空いていた。
テオはその空白を見下ろす。
胸の奥で、嫌な考えが浮かぶ。
『待っていたのか』
誰を。そう続けようとして、答えを考える前に指が震える。
自分を。
馬鹿げている。こんな場所を祖母の昔話で覚えていたことも、地下へ降りてきたことも、黒い蝋燭を持っていることも、全部偶然だ。そう思おうとするほど、空白は静かにこちらを向く。署名欄のように。合意書の白い場所のように。自分の名前を書くために残された場所のように。
「違う」
テオは低く言う。
自分の名を書くために来たのではない。奪われるために来たのでもない。書かせたい名前は、他にある。
制服のポケットを探る。小さなカッターナイフが指に触れる。倉庫で段ボールを切るためにいつも持っているものだ。刃を少しだけ出すと、錆びた銀色がライトを受けて鈍く光る。
テオは黒い蝋燭を膝の上に置く。表面は硬いのに、刃を当てると意外なほどすんなり沈んだ。削れた黒い蝋が爪の下に入り、指先を汚す。
最初の名前を刻む。
カン・ジヒョク。
文字を彫るたび、明け方の動画が目の裏に浮かぶ。片方の口角だけを上げた顔。警察、どうだった、と笑った声。祖母の声を盗んだ口。
次に、パク・ドンス。
大柄な体で通路を塞ぎ、壁へ押しつけた腕。祖母の口真似を太い声で繰り返した喉。
イ・ミンギュ。
携帯を構えて、撮るふりをして、誰かの痛みが動画になる瞬間を待っていた目。
最後に、マ・サンチョル。
ミョンジンヴィラ三階三〇二号、と丁寧に読み上げた赤い顔。線が首に絡むだけだと笑った声。大人の言葉の形をした脅し。
四つの名前が、黒い蝋燭の表面に歪んで並ぶ。きれいな文字ではない。刃が滑り、何度も線が重なり、いくつかの文字は潰れている。それでも読める。読めてしまう。
テオはもう一本、棚から蝋燭を取ろうとして手を止める。
オ・ミョンシク。チャン・ムンホ。カン・ムンシク。
名前はいくつも浮かぶ。だが刃を握る指は、そこで止まる。今の自分は、呪文も作法も知らない。ただ怒りに押されてここまで来ただけだ。これ以上刻めば、何が起こるのか分からない。
『分からない方が、いいのか』
自分の中の声に、テオは奥歯を噛む。
蝋燭を床へ立てる。棚の上に転がっていた古い燭台は錆びていて、底が少し傾いている。テオはそれを帳簿の横へ置き、黒い蝋燭を差し込む。名前が刻まれた面がこちらを向いた。
火はどうする。
そう思った時、鞄の底にライターがあることを思い出す。倉庫の喫煙所で落ちていた安物を、濡れた軍手を乾かす時に使うつもりで入れたままだった。指で探り当て、何度か擦る。火花だけが散る。
三度目で、小さな火が立つ。
橙色の炎を黒い芯へ近づける。その一瞬だけ、テオはためらう。もし何も起きなければ、自分は地下で一人、馬鹿なことをしただけだ。もし何かが起きれば、もう戻れない。
ボクスンの泣き顔が浮かぶ。薬袋を探して床を掻く手。ジヒョクたちの笑い声。警察官が開かなかったファイル。合意書の署名欄。
テオは火をつける。
黒い芯が静かに燃える。普通の蝋燭のような匂いはしない。焦げた紙と、濡れた土を混ぜたような臭いが立ち上がる。炎は小さい。だが色が黒い。光ではなく、周りの明るさを吸い込むように揺れている。
「呪文なんか、知らない」
テオは床に膝をついたまま、帳簿と蝋燭の間へ視線を落とす。
「何を言えばいいのかも知らない。俺は、巫堂でも占い師でもない。ただ……」
声が震える。悔しさか、恐怖か、自分でも分からない。
「俺にしたことを、そのまま返してほしい。俺から取った金も、押しつけた嘘も、ばあちゃんの名前で脅したことも、あの声を笑ったことも。全部、俺が受けた分だけ、あいつらに戻してくれ」
言い終えた瞬間、炎が細く伸びる。
月影堂の奥で、ぱさり、と音がした。
今度ははっきり分かる。鏡の裏側だ。店の一番奥、布に覆われた長方形の何か。その裏で、濡れた紙が一枚めくられる。ぱさり。少し間を置いて、また、ぱさり。
テオは立ち上がろうとするが、膝に力が入らない。帳簿の最後の空白から目を離せなかった。
空白の中央に、小さな黒い染みが生まれている。
最初は黴かと思う。だが染みは紙の繊維に沿って広がらず、縦にゆっくり伸びる。墨が内側から染み出すように、一本の線を作る。その線は曲がり、止まり、また少しだけ濃くなる。
文字だ。
誰も筆を持っていない。テオの手は帳簿から離れている。黒い蝋燭の炎だけが揺れている。それなのに、空白の中央に、誰かが見えない指で文字を書いている。
ユ。
ユン・テオの、最初の一文字。
テオの息が止まる。四つの名前を刻んだはずの蝋燭が、今はまるで彼自身の名を燃やしているように黒く揺れていた。奥の布が、内側から押されたように一度だけ膨らむ。
そして鏡の裏で、濡れた紙をめくる音が、次の頁へ進むようにゆっくり響いた。
黒い蝋燭にいじめっ子の名前を刻んだ夜、俺は裏社会の鏡王になった
9話 最後の債務者の黒い契約
次の話