テオは人の輪を割って膝をついた。老人の胸はかすかに上下していたが、呼吸は浅く、口元から湿った音が漏れていた。首筋に指を当てると、脈は速く不規則だった。
「名前は」
「ナム・ギチョル。みんなナムじいさんって呼んでる」
「持病は」
キム係長が震える手で答えた。
「高血圧と糖尿です。薬が……二週間くらい切れて」
テオはバッグから聴診器と小型ライトを取り出した。弔問用の黒いスーツの膝が土で汚れたが、気にする余裕はなかった。
「横を向かせて。首を曲げない。誰か毛布を。水は飲ませないでください」
「本土へ運ぶのかい」
グムレの声がすぐそばでした。
「今は動かせません。まず呼吸を保ちます」
彼は老人の口の中を確認し、舌が落ち込まないよう顎を上げた。ポケットに入れていた簡易血糖測定器はソウルの病棟で使うつもりの予備だった。指先から一滴の血を取ると、数値は低すぎた。何度も食事を抜いたのかもしれない。薬が切れ、食事も乱れ、誰にも診てもらえないまま倒れた体だった。
「砂糖水じゃ駄目です。蜂蜜か、ブドウ糖の飴は」
海女の一人が走り、古い救急箱を抱えて戻ってきたが、中には変色した包帯や、期限の読めない錠剤が雑に入っているだけだった。別の住民が慌てて持ってきた飴を受け取り、テオはそれを砕いて老人の頬の内側へ少量ずつ含ませた。誤嚥しないよう、呼吸の音を聞きながら待つ。
数分後、老人のまぶたが震えた。
「ナムさん。聞こえますか」
老人は声にならない息を吐いた。周囲から安堵のざわめきが起きたが、テオは手を上げて止めた。
「まだ終わっていません。血圧計は」
誰もすぐには答えなかった。グムレがキム係長をにらみ、キム係長は集会所の奥へ走った。戻ってきた彼が差し出した血圧計は、収納袋に白い埃が積もっていた。電池は弱く、数字が一度消えかけた。テオは深く息を吐き、手動のカフを探した。
「保健支所にあるはずです」
「鍵は所長の机に……」
キム係長の言葉がそこで切れた。死んだ叔父の机。テオは老人の呼吸を聞きながら、ようやく理解した。ここでは、医療器具の一つを取りに行くにも、死んだ医師の机を開けなければならない。
ナムじいさんは夜半過ぎにようやく意識をつないだ。島の軽トラックで保健支所まで運び、古い酸素濃縮器をだましだまし動かし、血糖と血圧を繰り返し見た。機械は起動のたびにうなり、チューブは黄ばんでいた。テオが使える針と点滴ルートを探して戸棚を開けるたび、引き出しの底から空箱ばかりが出てきた。
「これで診療していたのか」
思わず漏れた声に、誰も答えなかった。
葬儀は翌日の午後、海風の強い中で終わった。読経の声が途切れ、参列者が一人ずつ帰っていくと、集会所の畳には線香の灰と疲れた沈黙だけが残った。テオは喪服の袖口を見下ろしながら、ソウル行きの船の時刻を頭の中で数えた。明日の朝一番なら、午後の会議には遅れても戻れる。教授への説明も、叔父の急逝なら通るだろう。
その夜、キム係長が小さな封筒を持ってきた。
「保健支所の鍵です。所長が使っていたものです」
テオは受け取らずに封筒を見た。
「私は明日戻ると言いました」
「分かっています。ただ、薬の在庫だけでも確認しておかないと、次に誰が来ても始められません」
封筒は軽かった。だが手のひらに乗せると、島の湿気を吸った紙の重さがあった。
翌朝、テオは保健支所の扉を開けた。潮で傷んだ鍵は二度引っかかり、三度目でようやく回った。中へ入ると、閉め切られていた空気が顔へ押し寄せた。消毒薬、古い紙、湿った壁。診察室の机には、叔父が最後に使ったらしいボールペンが一本、斜めに転がっていた。
テオはまず診療台の横の心電計を見た。電源を入れると、画面に線が一瞬走り、すぐ黒く消えた。ケーブルの一本は被覆が裂け、電極パッドの袋は開封済みだった。
点滴棚を開ける。生理食塩水は数本残っていたが、使用期限は二か月前に切れていた。ブドウ糖液も同じだった。抗生剤の棚はもっと悪かった。ラベルだけが整然と並び、中身はほとんど空だった。残っているアンプルは数が合わず、誰かが最後の一本まで使い切ろうとして、箱だけ戻したように見えた。
『数週間、止まっていたんじゃない』
テオは棚の前で立ち尽くした。
『その前から、ぎりぎりだったんだ』
受付のカルテ箱には、未処理の処方依頼が挟まっていた。血圧薬、糖尿病薬、喘息の吸入薬、解熱剤。名前の横には鉛筆で小さく丸がついている。叔父が後で回るつもりだった印かもしれなかった。丸は途中で途切れていた。
昼前、テオは面事務所へ行った。キム係長は彼を見るなり立ち上がった。
「先生、船の時間なら」
「一か月です」
キム係長が聞き返した。
「一か月だけ、臨時で保健支所を開けます。後任が来るまでの間です。それ以上は引き受けません。郡庁には正式な代診契約と薬品補充を今日中に要請してください」
言い切ると、自分の胸の奥で何かが軋んだ。戻る日を数えながら言っていることを、彼自身がいちばん分かっていた。
キム係長は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「感謝される話ではありません。医療機器は壊れています。薬も足りない。できることは限られます」
「それでも、扉が開くだけで」
その言葉をテオは遮らなかった。
保健支所に戻ると、彼は受付の横に紙を貼った。
本日午後二時より診療再開。
薬手帳、服用中の薬、検査結果があれば持参。
急患優先。
字は事務的で、温度のない告知文だった。だが貼り終えると、外を通る人の足が一度止まり、また遠ざかった。
午後二時、待合室の長椅子は空だった。窓の外には数人の影があった。老人が一人、入口の段差まで来て、靴先だけを中へ向けたまま立っている。子どもを抱いた若い母親がその後ろで迷い、さらに後ろには海女たちが固まっていた。
テオは受付から声をかけた。
「順番にどうぞ」
誰も動かなかった。視線だけが彼を測った。昨日、庭で膝をついた医師。明日か、一か月後には去る医師。どちらなのかを、彼らはまだ決めかねていた。
やがてグムレが道の端から現れた。作業上着の袖をまくり、海に出る前の海女たちを従えている。彼女は入口の前で足を止め、診療再開の紙を読んだ。
「一か月」
低い声だった。
「はい」
「一か月したら、帰るんだね」
テオは一瞬だけ黙った。
「後任が来るまでです」
「来なかったら」
「郡庁が手配します」
グムレは笑わなかった。怒鳴りもしなかった。ただ、彼をまっすぐ見た。
「外から来た医者は、みんなそう言う。手続き、後任、決まり。けど船が出れば帰る。残るのは薬の切れた年寄りと、熱を出した子どもだ」
海女の一人が小さく「会長」と呼んだ。グムレは振り向き、短く言った。
「今日は帰るよ。海へ出る」
「薬の確認だけでも」
テオの声は自分でも思ったより強かった。
グムレは足を止めたが、背を向けたままだった。
「どうせ去る人間に、名前を覚えさせても仕方ない」
その一言で、待合室の外にいた住民たちの気配が薄くなった。老人は杖をつき直し、若い母親は子どもの頭を抱えて引き返した。海女たちも、グムレの後を追って坂を下りていく。
テオは反論しようとした。だが、理由が見つからなかった。一か月だけだと告げたのは自分だった。ソウルへ戻る日を数えているのも自分だった。彼女の言葉は乱暴だったが、間違ってはいなかった。
夕方までに診察室へ入ったのは、ナムじいさんの家族が薬の残りを見せに来ただけだった。テオは血圧薬の種類を確認し、代替を計算し、補充要請書を書いた。ペン先は滑ったが、胸の内側は重かった。
夜になると、保健支所の前の道から人影が消えた。テオはシャッターを下ろそうとして、手を止めた。診察室の椅子が一脚、患者のほうを向いたまま空いていた。叔父はここで何週間、誰かが来るのを待ったのだろう。あるいは、来られない人の名前を思い出しながら、外へ出ていったのだろうか。
彼は明かりを一つだけ残し、空いた椅子に座った。窓の外では港の灯がかすかに揺れていた。潮の匂いが隙間風に混じり、机の上の古いカルテの端を震わせた。
夜明け前、うとうとしかけた瞬間、電話が鳴った。
保健支所の固定電話だった。テオは反射的に受話器を取った。
「ハン・テオです」
向こうから聞こえたのは、波とエンジン音と、息を切らした男の声だった。
「先生、港です。潜りのボンシクを……海から急いで引き上げたんですが、意識がないんです!」
テオの眠気は一瞬で消えた。
「場所は」
「防波堤の外です。息も変で……先生、早く来てください!」
受話器の向こうで誰かが叫んだ。
「関節がこわばってる! 体が硬い!」
テオは白衣をつかんだ。グムレの言葉が耳の奥でまだ冷たく残っていた。どうせ去る人間。だが今、港の向こうで誰かの呼吸が途切れかけている。
彼は受話器を置く前に、短く言った。
「酸素を探してください。漁船を動かせる状態で待っていてください」
その島では、雨が降る前に患者が増える
4話 減っていく選択肢の先
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