灰色の塔の入口座標は、瞬き一つ分だけ浮かび、消えた。
ユチャンはその場で目を閉じなかった。瞼の裏に焼きついた線を逃がさないよう、割れた携帯の黒い画面へ視線を落とし、指先で配達伝票の裏に座標の形をなぞった。数字ではない。方位でもない。ラケイアが空間を檻として扱う時の、命令文の折り目だった。
【残り時間:七十一時間五十七分】
ウィンドウはまだ視界の端に残っていた。だが、そこにある表示はネオヘイルの広告で見たゲーム画面とは根本から違った。一般的なシミュレーターなら、プレイヤー名、職業、ステータス、クエスト目標が並ぶ。親切な説明文と確認ボタンがある。
これは命令だった。
対象を指定し、状態を分類し、失敗時の処理先を定める。文章の並びは、牧場で何度も聞かされた管理者たちの手順そのものだった。人間が読むための翻訳をかぶせているだけで、奥にある構造はラケイア語のままだ。
『味方の声じゃない』
ユチャンは喉の奥で脈打つ欠片を意識した。
『これは管理者権限の断片だ。俺を助けたいんじゃない。条件に合う動きを表示しているだけだ』
ならば、聞き方を間違えなければ抜け道も出る。
「質問。最初のチュートリアルダンジョンとは、ネオヘイル公式入口の第一選択に限定されるか」
声に出すと、ワンルームの薄い壁に吸い込まれた。隣室からテレビの笑い声が漏れている。世界の終わりの三日前にしては、あまりに普通の音だった。
ウィンドウの文字が硬く震えた。
【定義:最初に起動した覚醒判定用核を持つ隔離空間】
【公式入口との一致を要求しない】
ユチャンは短く息を吐いた。やはりだ。人気職業の派手なチュートリアルではない。灰色の塔が先に核を開くなら、そこが最初になる。
「全接続者に先行して破壊、の接続者とは」
【同一時刻帯に登録処理へ入った未覚醒人類】
「登録処理へ入らなければ、まだ接続者ではないな」
返答まで、一拍だけ間が空いた。
【否定不可】
ユチャンの口元が歪んだ。ラケイアの命令文は嘘を嫌う。隠すことはあっても、定義を問われれば隙間が見える。
「覚醒条件達成後、俺の情報はどこへ行く」
【地球側覚醒者登録網】
【監視網補助記録】
【ラケイア回収網:失敗時のみ】
「成功時に回収網へ送らない、と解釈していいか」
【成功処理に回収送信は含まれない】
完全な安全ではない。成功しても監視網補助記録には残る。だが最初から執行官に居場所を渡すよりはましだった。
ユチャンは古い財布を引き寄せた。中には紙幣が数枚、交通カード、期限の近いクーポン、配達用の身分証が入っていた。スマートフォンの銀行アプリを開くと、残高は笑えるほど少なかった。家賃を払えば終わり。食料を買っても終わり。だが三日後に失敗すれば、金など意味を失う。
彼は配達アプリを開き、未完了シフトの一覧を見た。赤い警告、評価低下、契約停止の通知。かつてはそれだけで胃が縮んだはずなのに、今はただの雑音だった。
「契約解除でいい」
退会ボタンを押す指に迷いはなかった。生活を捨てるのではない。二年後に屠殺場へつながる生活の首輪を、今ここで外すだけだった。
次に検索したのはネットカフェだった。大手チェーンは駄目だ。本人確認が厳しく、決済記録もきれいに残る。ネオヘイルの正式イベント目当てに客が殺到する場所も避けるべきだった。必要なのは、古く、雑で、監視カメラが壊れかけていて、夜中に客の顔を真面目に見ない店だ。
記憶を掘る。
未来で、何人かの下位ランカーが初日の失敗談を笑い話にしていた。九老(クロ)の飲食店街の地下にある古びたネットカフェ。椅子は破れ、ヘッドセットは片耳しか鳴らず、受付の老人は身分証より現金を信じる。だが回線だけは妙に太く、工場地帯の深夜作業者がよく使っていた。
ユチャンは店名を検索し、まだ営業していることを確認した。予約フォームは時代遅れで、名前と電話番号だけで席を押さえられる。彼は本名ではなく、配達先で何度も見たありふれた名字を入力し、午前零時をまたぐ六時間を予約した。
確認メールが届いた瞬間、右目の紋様が薄く熱を帯びた。
【接続候補地:登録】
「勝手に登録するな」
低く呟くと、ウィンドウは沈黙した。従ったわけではない。入力待ちに戻っただけだ。
ユチャンは部屋を見回した。残すべきものは少なかった。配達用ジャンパー、安物の靴、充電器、ノート。彼は食料代を削り、残りの金を現金と交通費に分けた。銀行口座から少額の残高を引き出し、電子決済の自動連携を切る。滞納家賃の督促は無視した。三日で追い出されるなら、三日間だけ使えばいい。
それから彼は、ノートを開いた。
灰色の塔を正常に攻略した人間はいなかった。だが未来のランカーたちは、初期に消えた奇妙なチュートリアルの断片を酒の席やインタビューで話していた。途中で弾かれた者、ログだけ残して昏睡した者、画面に灰色の石段を見たと言って笑われた者。失敗記録は、成功者の自慢よりはるかに役に立つ。
ユチャンの指が動き始めた。
一階、門番。戦闘力測定に見せかけた恐怖反応計測。過剰に抵抗すれば階層難易度上昇。視線を合わせるな。足首関節、三拍目。
二階、記録石。触れるな。記憶を読み取られる。壁面右側の排水溝に管理通路。恐怖数値を低くしすぎると不自然判定。
三階、処刑場幻覚。怒りを見せるな。復讐心は職業誘導に使われる。平凡な生存欲求だけを流す。
四階、存在登録前室。名前を入れるな。本名は餌。等級欄と職業欄の整合性を壊す。行動履歴を先に汚す。
書きながら、ユチャンは何度も息を止めた。記憶を辿るたびに牧場の臭いが戻ってくる。ラケイアはどの階で人間をふるい落としたか。どこで恐怖を測り、どこで欲望を誘い、どこで忠誠心を植えつけようとしたか。
指先は速かった。十年の死が、紙の上で罠の順番へと変わっていく。
だが、最後の欄に「核室」と書いた時、ペン先が止まった。
核を砕くには対価がいる。先ほどのウィンドウはそこまで言わなかった。だがラケイアの核は、ただ壊れるだけの石ではない。登録、偽装、権限の書き換え。そのどれも、何かを食う。
「何を要求する」
ユチャンはウィンドウへ聞いた。
返事はなかった。
「答えろ。核破壊時の対価は何だ」
灰色の文字がちらついたが、文章にはならなかった。沈黙。権限不足か、意図的な秘匿か。どちらにせよ、最悪を想定するしかなかった。
彼はノートの最後に短く書いた。
――対価あり。重要記憶は渡さない。
その一行を書き終えた瞬間だった。
紙の繊維の奥から、薄い灰色の数字が滲んだ。インクではない。ユチャンが書いた字でもない。ラケイア式の基数で組まれた、短い観測番号だった。
喉の奥のコアの欠片が反応するより早く、数字は消えた。
ユチャンは動かなかった。呼吸すら細くした。ノート、ペン、携帯、窓、鏡。どこにも異常はない。だが今の痕跡だけで十分だった。
コアの欠片は、ただ道を示しているのではなかった。
誰かが、その欠片の向こう側から、彼の手元を覗いていた。
システムすら騙すF級生産職〜人類初の覚醒者であることを隠し、廃業寸前のゲーム塾から異星への反逆を始める〜
4話 灰色の塔、最初の開門
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