木剣が固定布へ届く直前、都賢九(ト・ヒョング)の巨体が横から割り込んだ。
彼は押し返さなかった。避けもしなかった。ただ半身をひねり、柳建(ユ・ゴン)の右脚と木剣の間へ、自分の肩を差し入れた。
鈍い音が練武場に響いた。木剣の先にまとわりついた白気が、都賢九の肩口で弾ける。布越しでも分かるほど重い衝撃だった。都賢九の膝が砂に沈み、太い指が木剣を取り落としかける。
「都賢九!」
郭進(クァク・ジン)が叫んだ。
都賢九は歯を食いしばったまま、首だけを振った。
「通さない……」
声は掠れていた。だが、そこから一歩も退かなかった。
沈有剛(シム・ユガン)の目が鋭くなり、腰牌を握った手に力が入る。白書河(ペク・ソハ)の筆は宙で止まったままだった。観客席の笑いも、その一撃で途切れていた。
俊瑞(ジュンソ)は相手の男ではなく、柳建の顔を見た。恐怖で息が乱れている。固定布は無事だ。揺れは強いが、折れる角度ではない。
「柳建、痛み!」
「脚は……来てない。怖い、けど、脚は来てない!」
「小平、記録。郭進、板を止めるな」
小平(ソピョン)は顔を真っ青にしながらも、声を張った。
「都賢九、肩、強打! 柳建、脚への接触なし!」
「世琳!」
俊瑞が呼ぶより早く、南宮世琳(ナムグン・セリン)の手が上がっていた。二本指を下へ切る。後退。だが逃走ではない。通路幅を保ったまま、寝板を安全線へ下げる合図だった。
「左外、空いてる。荷箱の影へ入る」
世琳の報告は短かった。郭進と小平は寝板の両側で呼吸を合わせ、柳建を載せたまま斜め後ろへ滑らせる。以前なら、誰かが相手の男へ飛びかかっていただろう。趙傑(チョ・ゴル)なら、間違いなくそうした。都賢九を打った相手を、門派の面子のために叩き伏せようとしたはずだった。
だが趙傑は、動かなかった。
木剣を握る手の甲に筋が浮いている。目は血走っていた。それでも彼は、寝板の後方の線から足を離さなかった。相手の左の男が、怒りを誘うように肩を揺らして見せても、趙傑は半歩だけ横へ動き、空いた穴を塞いだ。
「来るなら来い。ここは抜かせん」
低い声だった。見栄ではなく、位置を守る声だった。
相手中央の男は舌打ちした。内功を帯びた木剣を都賢九に受けられたことで、狙いが露わになった。彼は一瞬、沈有剛の方を見た。その目に、規則を破った者の焦りより、予定が狂った者の苛立ちが浮かんでいた。
俊瑞はその視線を見逃さなかった。
『やはり、任務戦を崩すための動きだ』
沈有剛の第一問。分舵の名簿の赤字。負傷者役に柳建を選んだ即断。偶然が重なりすぎていた。だが今は、問い詰める時ではない。目標地点までは、まだ十数歩ある。
「都賢九、肩は動くか」
「動く。強いけど、通さない」
「押し返すな。そこから半歩下がる。防御役を交代する」
「俺が下がったら」
「下がるから守れる。趙傑、前」
趙傑の目が一瞬だけ俊瑞へ向いた。
「俺か」
「斬るな。受けるだけだ。三呼吸」
「……分かった」
趙傑は前へ飛び出さなかった。都賢九の右肩の外側へ入り、剣を低く構えた。内堂で覚えた鋭さを、攻めではなく壁に変えるような構えだった。
俊瑞は戦況板の石を二つ動かした。都賢九を後ろへ、趙傑を前へ。世琳は外側へ走らず、相手中央の男の視線と沈有剛の位置を同時に見た。
「中央、まだ柳建を見てる。右は都賢九の肩。左は趙傑兄を誘う」
「郭進、寝板を低く。小平、痛み確認は短く。目標旗まで一気に行かない。三歩、止まる、三歩だ」
「三歩、止まる、三歩!」
小平が復唱し、郭進が寝板の前紐を握り直した。
銅鑼は鳴っていない。沈有剛はまだ中止を宣言していなかった。違反を見たうえで、流河門が崩れるかを見ている。冷酷だったが、監察官らしい判断でもあった。
相手の右の男が、都賢九の肩へ追撃を入れようと踏み込む。
「後ろ」
郭進が言う。
「行ける」
柳建が返した。
「痛みは」
小平が叫ぶ。
「脚、弱し。肩の音が怖いだけ!」
その言葉で、都賢九の顔がほんの少し緩んだ。自分の肩で受けた意味があったと分かったのだ。
趙傑が一撃を受けた。乾いた音が鳴り、彼の足が半寸だけ滑る。だが追わない。流さない。三呼吸だけ、寝板の前から相手を入れなかった。
「交代」
俊瑞が告げる。
都賢九は息を吐き、痛めた肩をかばいながら前へ戻った。趙傑は悔しげに口元を歪めたが、命令通り後ろへ下がった。交代はぎこちなかった。美しくはない。だが、穴は開かなかった。
観客席から、誰かが小さく言った。
「……今、守ったのか」
別の声が続かなかった。さっきまで荷運びと笑っていた者たちが、木剣に内功を通した一撃と、それを受けても目標を捨てない流河門の動きを見比べていた。
白書河の筆が再び動き出した。今度は、以前より速かった。
二つ目の荷箱を越えるところで、相手三人の連携が乱れた。中央の男は柳建の脚を狙えず、右の男は都賢九の肩を気にし、左の男は趙傑を引き出せない。世琳はその乱れを見て、低く言った。
「今なら、目標旗まで直線が取れます」
俊瑞は即答しなかった。直線は速い。だが、寝板が揺れる。
「柳建、揺れに耐えられるか」
「三歩なら」
「郭進、小平。三歩だけ速く。その後、旗の手前で止まる。都賢九、最後の狭門。趙傑、左の差し込み。世琳、中央の足を止めろ」
世琳は返事をせず、もう動いていた。相手中央の男が再び低く沈む前に、彼女は足元へ砂を蹴った。目潰しではない。踏み込みの位置を一歩ずらすだけの砂だった。
男の足が乱れた。
「上げる!」
郭進と小平の声が重なった。寝板が低く持ち上がり、柳建の身体が小さく揺れる。
「痛み!」
「強い、でも脚じゃない!」
「三歩!」
一歩。二歩。三歩。
都賢九が狭門を塞ぎ、右肩をかばいながらも左腕と木剣で道を消した。趙傑は左から入る剣を横へ払った。相手を倒すためではなく、寝板へ届かせないために。
最後の木杭が近づく。
相手中央の男が歯を剥いた。もう規則を繕う気配もない。再び白気が木剣に走りかける。
その瞬間、沈有剛の声が練武場を裂いた。
「そこまでだ」
男の動きが止まった。止めざるを得なかった。江湖盟の腰牌が、彼の眼前へ突きつけられていたからだ。
だが俊瑞は止めなかった。
「目標旗まで進め」
「え、止めって」
小平が迷う。
「任務は終わっていない」
郭進が先に動いた。柳建も歯を食いしばってうなずいた。都賢九は肩を押さえたまま、狭門から退かない。趙傑は沈有剛をちらりと見たが、今度は俊瑞の指示を優先した。
寝板が、最後の三歩を越える。
江湖盟の小旗の下、郭進と小平が同時に膝を落とし、柳建を載せた板を静かに置いた。
「到達!」
小平の声は裏返っていた。それでも、練武場の端まで届いた。
沈有剛は腰牌を下ろさず、白書河へ短く命じた。
「任務完了と記せ。勝敗記録ではない。任務完了表だ」
白書河はうなずき、別紙を取り出した。敵を倒した数の欄ではない。負傷者を守り、目標地点まで運んだかを記す欄だった。筆先が紙へ落ちる音が、やけに大きく聞こえた。
観客席は静まり返っていた。誰も喝采しなかった。だが、もう笑いもしなかった。
沈有剛はゆっくりと相手中央の男へ向き直った。
「監察対練において、木剣に内功を通すことを禁じた。負傷者役への故意の打突も禁じた。なぜ破った」
男は唇を動かしたが、声を出さなかった。右の男と左の男が、わずかに距離を取る。仲間を庇う動きではない。巻き添えを恐れる動きだった。
都賢九の肩から、血ではなく、鈍い赤みが武服越しに広がっていた。小平が駆け寄って布を当て、郭進は柳建の固定板を確かめる。柳建は震えながらも、自分の脚を見て、深く息を吐いた。
「折れてない……」
俊瑞はうなずいた。
「お前が声に出したから、折れなかった」
その時だった。
沈有剛が男の襟元をつかんだ拍子に、懐から何かが滑り落ちた。乾いた音を立て、木製の小さな牌が砂の上を転がる。
誰もが、それを見た。
流河門の伝令木牌ではない。洛陽分舵の札でもない。黒く焼き締めた木の表に、雲を裂く牙の紋が刻まれていた。
黑雲館の伝令木牌だった。
木牌は白い石灰線の上で止まった。沈有剛の目が細くなり、白書河の筆先から墨が一滴落ちる。俊瑞は、告発状の最初の問いが誰かに整えられていたという直感を、今ようやく形あるものとして見た。
沈有剛が低く言った。
「この監察対練に、なぜ黑雲館の木牌がある」
男の顔から、色が消えた。
剣気より業務マニュアル 下級武人になった大企業代理、帳簿一冊で長老を裁く
37話 告発状に残された筆跡
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