通話はそこで切れた。
ナギョンは会議室を飛び出した。ミンソが後ろから名前を呼んだが、振り返る余裕はなかった。エレベーターを待つ数秒すら惜しく、非常階段を駆け下りる。踵が階段の角にぶつかり、ふくらはぎに鈍い痛みが走った。それでも足は止まらなかった。
ビルの前に出ると、夜明け前の道路は青黒く濡れていた。雨は降っていないのに、ソウルの空気には冷たい水の匂いが残っている。ナギョンは片手を上げ、通りかかったタクシーをほとんど体で止めた。
「ソンブク洞の旧郵便局まで。急いでください」
運転手がバックミラー越しに彼女を見た。
「この時間にあそこですか? 再開発で中は入れませんよ」
「入れなくなる前に行くんです」
短く言うと、運転手はそれ以上聞かなかった。車が発進した瞬間、ナギョンは膝の上で便箋を開いた。すでに書き終えたはずの紙だった。けれど、ミンソの電話を聞いたあとでは、まだ足りないことがはっきりわかった。
二十三歳の自分は、事実だけを読んでも走るかもしれない。ウジンの首をつかんで問い詰めるかもしれない。テフンキャピタルの階段を、一人で下りてしまうかもしれない。
ナギョンは車内灯をつけてもらい、万年筆のキャップを外した。タクシーが早朝の大通りを曲がるたび、紙の上の字が揺れる。インクはいつもより太く、ところどころ乱れた。それでも彼女は、感情の文を一つも足さなかった。
十一月十五日午後六時四十二分、ハンビッ医院の精密検査予約は保証金未納で保留。
同日午後八時十二分、匿名現金入金。処理者、医事課パク・ギョンジャ。
午後八時十四分、病院向かいの路地でウジンが拘束された写真あり。
向かいの貸金業者名、テフンキャピタル株式会社。旧住所、ソンブク洞市場裏路地、ハンビッ医院正門から横断歩道を渡って右手二軒目、地下入口あり。
住所を書いたところで、タクシーが段差を越えた。ペン先が紙を引っかき、黒い線が余白へ飛んだ。
ナギョンは奥歯を噛んだ。胸の奥から、母の遺影の前に立つ記憶がせり上がってくる。淡いブラウス。白い花。喪服の袖口。二十三歳の自分が、泣き声すらうまく出せず、焼香台の前で息をしていた記憶。
『やめて』
誰に言ったのか、自分でもわからなかった。母を失う記憶にか。過去の自分にか。あるいは、たった二文を書いた自分自身にか。
だが、その記憶は消えなかった。消えないからこそ、今は書かなければならなかった。真実を掘り起こさないまま誰かを遠ざければ、また同じ場所で失う。母も、ウジンも、若い自分も。
ナギョンは便箋を押さえ直した。
パク・ギョンジャには、入金処理控えが残っているか確認。正式な領収書を要求しない。窓口で大声を出さない。
ウジンには「誰から借りたのか」ではなく「誰に返せと言われているのか」を聞く。責める口調を使わない。彼が黙った場合、行き先と時刻だけを覚える。
警察へ一人で行かない。貸金業者へ一人で行かない。病院の検査予定を自分の判断で止めない。
最後の一文を書こうとして、手が止まった。
「ウジンを突き放さないで」と書きたい。そう書けば、二十三歳の自分にはいちばん伝わる。けれど、それだけでは駄目だった。突き放さないことと、抱え込むことは違う。守ることと、一人で走ることも違う。
ナギョンは息を吸い、ゆっくり書いた。
ウジンを突き放さない。ただし、あなた一人で救おうとしない。彼の事情を聞いたら、必ず記録して、第三者に共有してから動くこと。怖い時ほど、一人で結論を出さないで。
そこまで書いて、便箋の端を握る手が震えた。
最初の手紙は、盲目的な恨みだった。十年間、自分を支えてきた被害者の言葉を、そのまま過去へ投げた。あの二文には、病院の会計も、ウジンの震える手も、母の検査枠もなかった。
今回の手紙は違う。
これは謝罪ではない。懇願でもない。誰かの愛を取り戻すための文でもない。生き延びるための指示書だった。二十三歳の自分が、恐怖で誰かを切り捨てず、愛で自分を投げ捨てもしないように、事実だけで縫い止める紙。
「お客さん、急ぎますけど、あのあたり工事車両が多いです」
「路地の手前で降ります」
ナギョンは答え、携帯で時刻を見た。午前四時十七分。まだ間に合う。そう思った瞬間、ミンソからメッセージが入った。
現場、裏口開きました。中に作業員が入っています。郵便設備の搬出準備開始。
画面の文字が、胸の内側を冷たく刺した。
「もっと急げますか」
運転手は短く舌打ちしたが、アクセルを踏んだ。車窓の外で、眠った店のシャッターや街路樹が後ろへ流れていく。ナギョンは便箋を折り、封筒へ入れた。資料のコピーも一緒に挟む。厚みが出すぎるかもしれないと一瞬迷ったが、抜かなかった。数字が必要だった。過去の自分に、感情ではなく根拠を渡すために。
ソンブク洞に近づくほど、道は狭くなった。遠くから発電機の低い音が聞こえた。工事用の投光器が、まだ明けきらない空の下で白く光っている。
タクシーが路地の入口で止まる前に、ナギョンは料金を置いてドアを開けた。
「お客さん、お釣り!」
「要りません」
足元の砂利が跳ねた。仮囲いの隙間には、黄色い安全灯が点滅していた。旧郵便局の赤煉瓦は、投光器に照らされ、十年前よりさらに小さく、荒れて見えた。裏口の錠はすでに床へ落ち、ねじ曲がった金属片になっている。
「関係者以外立入禁止です!」
作業員の声を聞き流し、ナギョンは弁護士証を取り出す暇も惜しんで中へ滑り込んだ。埃が一気に喉へ入る。昨日まで見覚えのあった仕分け台の周囲は、すでにめちゃくちゃだった。棚は倒され、郵袋は裂かれ、古い書類束は床に散らばっている。鉄パイプの足場が組まれ、壁際には廃棄物袋がいくつも積まれていた。
黒い郵便受けが、ない。
ナギョンの心臓が一瞬止まった。
仕分け台の東側。そこにあったはずの、黒い金属の箱。受取人、過去の私、と貼られていた古い紙。手紙を吸い込む暗がり。すべてが、台ごとひっくり返されたように空白になっていた。
「どこ……」
声がかすれた。ナギョンは床へ膝をつき、倒れた棚の裏をのぞいた。破れた封筒、錆びた仕切り板、埃を吸った布。違う。こんなものではない。
奥で作業員が大きな黒い袋を持ち上げた。その袋の裂け目から、角の丸い黒い金属面が一瞬だけ見えた。
ナギョンの全身が反応した。
「待って!」
彼女は走り、袋へ飛びついた。埃が舞い、喉の奥が焼ける。袋の中に半ば埋もれていたのは、黒い郵便受けだった。正面の紙は剥がれかけ、金属の扉には新しい傷が走っている。それでも、間違いなかった。
ナギョンは封筒を取り出し、小さな投入口を探した。
「何してる!」
背後から荒い声が飛んだ。
次の瞬間、太い手がナギョンの腕をつかんだ。力任せに引かれ、封筒が指先から滑りそうになる。振り向くと、ヘルメットをかぶった現場監督らしい男が、険しい顔で彼女をにらんでいた。
「ここは立入禁止だ。誰の許可で入った!」
「この郵便受けは、まだ搬出できません。残置物リストの確認を――」
「知らん! 勝手に入って廃棄物に触るな。警察を呼ぶぞ」
男の手にさらに力がこもった。痛みが腕の骨まで食い込む。ナギョンは封筒を胸に押しつけ、もう片方の手で袋の縁をつかんだ。
「離してください。これは証拠物になり得ます」
「証拠? ふざけるな。ここはもう現場だ。法律ごっこなら外でやれ」
外からトラックのバック音が響いた。ピーピーという電子音が、郵便局の内部に反響する。作業員が廃棄物袋を搬出口へ運び始め、黒い郵便受けの入った袋も、床の上でずるりと引かれた。
ナギョンは腕をつかまれたまま、必死に袋を引き戻した。封筒の角が汗で湿る。投入口は目の前にある。あと十センチ。たったそれだけの距離が、鉄の鎖のように遠かった。
現場監督が携帯を取り出し、低い声で言った。
「不法侵入者がいる。今すぐ警察を――」
その言葉の途中で、搬出口の作業員が叫んだ。
「監督、この黒い箱、先に積みます!」
郵便受けの入った袋が持ち上げられた。黒い金属の口が、裂けた袋の隙間からナギョンを見返すように光った。
ナギョンの腕はまだ、男に握られていた。
受取人、10年前の私へ。どうか一人で消えようとする彼の手を離さないで
20話 今、ウジンを追ってもいい?
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