『テソ先輩に帳簿の写しを預ければ、私たち、安全になれるよね?』
ナギョンはその一文の上に指を置いたまま、しばらく息をすることを忘れていた。
返事を書く言葉は、まだ出てこない。規則はいつも残酷なほど正確だった。過去から返事が届いたばかりの今、こちらから送れるのは次の一通だけ。しかも、根拠のない警告は過去の自分を止めるどころか、もっと危険な場所へ走らせる。
『テソを信じないで』
そう書くことは簡単だった。だが、なぜ信じてはいけないのかを説明できなければ、二十三歳のナギョンは迷う。ウジンは疑う。追ってくるパク・ドギュンから逃げながら、警察にも戻れず、母の病室も危うい二人が、最後に見つけた頼みの綱を根拠もなく捨てるはずがなかった。
ナギョンは封筒を机に置いた。希望法律センターの資料室は朝の光を吸い込めず、古い蛍光灯の下で白く沈んでいた。傷だらけの黒い郵便受けは、証拠品のように棚の上に置かれている。昨日までならただの古い金属箱だったものが、今は誰かの命の喉元を握っているように見えた。
「先生?」
入口からミンソの声がした。彼女は紙コップを二つ持ったまま、ナギョンの顔色を見て足を止めた。
ナギョンはすぐに封筒を裏返した。
「カン・テソを調べて」
「カン・テソ……ですか?」
「十年前にソウル大法学部にいた人。検事志望だったはず。現在の所属、担当事件、家族関係、報道記事。特にセミョングループ、テフン、チョンアム警察署と重なるものを全部」
ミンソは理由を聞きかけ、飲み込んだ。ここ数日のナギョンが、説明できるものとできないものを区別していることを、彼女なりに察していた。
「急ぎます。公開資料から先に見ます」
「検索履歴は残していい。むしろ残して。誰に見られても、依頼事件の関係調査に見える形で」
「はい、先生」
ミンソが戻っていく足音を聞きながら、ナギョンは椅子に座り直した。すぐに手紙を書かない自分を責める声が、胸の底から上がってくる。けれど、最初の二文が何を壊したかを忘れることはできなかった。
待たないで。
彼は来ない。
あれは事実ではなく、傷口から出た命令だった。その命令のせいで母の検査は遅れ、ウジンは一人でさらに深い闇へ沈みかけた。今また、理由も示さず「信じるな」とだけ書けば、同じことになる。
ナギョンは古い封筒の端を握った。
『お願い。もう少しだけ、渡さないで』
声にならない願いは、十年前へは届かなかった。
その頃、二十三歳のナギョンとウジンは、ソウル大学法学部の図書館前に立っていた。
夜明けに近い空はまだ青く暗く、石畳には昨夜の雨が薄く残っていた。図書館の前の階段には、徹夜明けの学生が数人、紙コップを持って座っている。試験期間の名残のような疲れた空気が、追われている二人をかえって目立たなくしていた。
ナギョンはコートの内側を押さえた。そこには帳簿の写しを入れた封筒がある。原本ではない。ソヒに預けた赤いUSBでも、旧郵便局に隠した透明なUSBでもない。テソへ見せるためだけに作った写し。それでも、今の二人には重すぎた。
ウジンは彼女の半歩後ろにいた。背が高いせいで人目を引くのを気にしているのか、肩を少し丸めている。濡れた髪は乾ききらず、額に細く張りついていた。
「寒い?」
ナギョンが小さく聞くと、ウジンは首を振った。
「君のほうが震えてる」
「これは寒いからじゃない」
「わかってる」
短い返事だった。けれど、その声には責める響きがなかった。警察署を出てから、二人は何度も息を潜め、走り、隠れた。怖い時ほど一人で決めない。未来の手紙に書かれていたその一行が、今は二人の間に薄い紐のように張られていた。
階段の上から、落ち着いた声がした。
「イ・ナギョン?」
ナギョンは顔を上げた。
カン・テソは濃紺のコートを着て、片手に本を抱えていた。寝不足の学生たちの中で、彼だけがきちんと整って見えた。柔らかく笑う目元。相手を急かさない立ち方。記憶の中の先輩そのものだった。
「先輩……」
「電話の声が普通じゃなかった。何があった」
テソの視線がウジンへ移る。探るようではあったが、露骨な警戒ではなかった。少なくとも、そう見えた。
ナギョンは喉を鳴らした。
「警察へ行きました。でも、チョンアム署の刑事が……証拠をどこかへ流していました。パク・ドギュンという刑事です」
テソの眉がわずかに動いた。
ほんの一瞬だった。見逃してもおかしくないほど小さな動き。だがウジンの目はそこを見ていた。
「パク・ドギュン?」
テソはゆっくり繰り返した。
「強力二班です。赤い結び紐をしていました。テフンの人間と同じものを」
ナギョンが続けると、テソは深く息を吐いた。驚いた人間のため息というより、問題の形を整理するための息に見えた。
「まず、ここでは話さないほうがいい。図書館の裏に休憩室がある。人目はあるが、声は届かない」
「先輩、警察の中に通じている人がいるんです」
「だろうね」
即答だった。
ナギョンは瞬いた。テソはすぐに言い直すように、穏やかな声を重ねた。
「いや、そう考えるのが自然だ。証拠を持って行った直後に足止めされたなら、内部で処理された可能性が高い。内部監察を通す。検察の監察窓口にも、信頼できる先輩がいる」
その言葉は、ナギョンが期待していた答えそのものだった。
内部監察。
検察。
正しい手順。
壊れた橋の向こうに、ようやく制度の足場が見えた気がした。
ウジンが低く口を開いた。
「あなたは、なぜそんなに早く判断できるんですか」
ナギョンははっと彼を見た。問い方は無礼ではなかった。だが、空気が少し冷えた。
テソは気を悪くした様子もなく、ウジンへ視線を向けた。
「君は?」
「チョン・ウジンです」
「ナギョンの友人?」
ウジンは一瞬迷った。
「一緒に追われています」
テソの口元に、薄い苦笑が浮かんだ。
「なら、疑うのは当然だ。いい判断だと思う」
その言い方は穏やかだった。相手の警戒を褒めて、ほどくのに慣れている人の声だった。
ナギョンは封筒を握る指に力を入れた。先輩は変わっていない。人を見下さず、弱い側が怖がる理由を先に認める。だからこそ、信じたいという気持ちがまた胸の内側を押した。
テソは階段の陰へ少し移動し、声を低くした。
「証拠は持っている?」
ナギョンは黙った。
「全部ではありません」
代わりにウジンが答えた。
「それでいい。全部を一度に誰かへ渡してはいけない」
テソは頷いた。
「写しがあるなら、まず中身を確認したい。警察内部の名前、資金の流れ、被害者名簿。どれか一つでも具体的に使えれば、監察へ出せる」
彼の視線が、ごく自然にナギョンのコートの内側へ落ちた。
「USB?」
何気ない一語だった。
けれどナギョンの背中を、細い冷気が走った。
ウジンも同じように固まった。封筒の中身がUSBだとは、まだ言っていない。帳簿の写し、としか伝えていなかったはずだ。
テソは二人の沈黙に気づいたように、小さく肩をすくめた。
「今どき紙だけで持ち歩く人はいないだろう。写真ならなおさらだ。違う?」
筋は通っていた。疑うほうがおかしいほど自然な説明だった。
ナギョンは自分の動揺を恥じた。ここで疑いすぎれば、助かる道を自分で塞ぐことになる。パク・ドギュンに追われている。ファン・マンシクは母の病室を知っている。ソヒも巻き込んでしまった。時間はない。
「写しだけです」
ナギョンは封筒を取り出した。
ウジンの指が、彼女の袖をかすかにつかんだ。
止める力ではなかった。ただ、確認するような触れ方だった。全部は渡さない。原本は渡さない。そう約束した手の名残。
テソはその仕草を見て、柔らかく言った。
「ここで受け取って、すぐ複製する。君たちの前で中身を確認するよ。必要なら僕の名前で預かり証も書く」
「先輩を、信じてもいいんですよね」
言ってから、ナギョンは自分の声が幼いことに気づいた。
テソは少し悲しそうに笑った。
「信じなくていい。手順を信じればいい」
その言葉で、最後のためらいがほどけかけた。
ナギョンの手が前へ出る。封筒の角がテソの指先に近づいた。
現在のナギョンの携帯が、その瞬間、鋭く震えた。
資料室の静けさが破れた。画面にはミンソからのメッセージが表示されている。添付画像が一枚。検索結果のスクリーンショットだった。
ナギョンは息を止めて開いた。
カン・テソ。
現職検事。
セミョングループ裏金公益訴訟、特別代理人。
文字は冷たく整っていた。見慣れた法律ニュースの書式。けれど、その肩書きだけが異物のように画面へ突き刺さっていた。
セミョングループ。
裏金。
公益訴訟。
特別代理人。
ナギョンは一語ずつ、口の中で噛みしめた。理解が追いつかないのではない。理解したくなかった。
過去のナギョンの手は、まだ封筒を差し出しかけている。
現在のナギョンの指先が、ゆっくり冷えていった。
十年前の封筒が、テソの手に触れるまで、あと指一本分しか残っていなかった。
受取人、10年前の私へ。どうか一人で消えようとする彼の手を離さないで
32話 父の名、カン・ムンソク
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