二度目の消印が鳴った瞬間、ナギョンはもう非常口へ近づけなかった。足は路地に立ったままなのに、背中だけが暗い作業場へ引かれていくようだった。
黒い口を開けた旧郵便局の奥で、何かが受理された。
そう思っただけで、胃の底が冷えた。ナギョンは携帯電話を握りしめ、壁に残るチョン・ウジンの名前から目をそらした。確かめに戻れば、今度こそ見てはいけないものを見る。弁護士としての冷静な判断ではなかった。ただ、生き物の本能に近い拒絶だった。
彼女は走った。濡れた路地を抜け、仮囲いの隙間を通り、車のドアを閉めるまで一度も振り返らなかった。車内に座ってからも、しばらくエンジンをかけられなかった。雨の止んだフロントガラスには、街灯の光だけが長く伸びていた。
午後八時四十七分。
画面の数字は、何度見ても変わらなかった。
眠れないまま朝になった。
ナギョンはシャワーを浴び、濡れてもいない髪を丁寧に結び直し、いつもの薄い口紅を引いた。鏡の中の顔は普段と同じだった。疲れを隠すための端正な表情。依頼人の前で崩れないために、長い時間をかけて身につけた顔。
けれどリビングへ出た瞬間、その顔は保てなかった。
本棚の前で、足が止まった。
昨日までなかった額縁が一つ、そこに置かれていた。法律書と古い判例集の間、母が数年前にくれた小さな花瓶の隣。まるで最初からそこにあったように、自然な角度で立っている。
ナギョンは息を呑んだ。
額縁の中には、二十三歳の自分がいた。
ロースクール合格を祝う横断幕の前で、彼女は明るく笑っていた。今のナギョンがもう思い出せないほど素直な笑顔だった。肩までの髪は雨で少し乱れ、頬は寒さのせいか赤い。手には合格通知書らしき封筒を握っている。
その横に、青い傘があった。
雨に濡れた青い傘が、斜めに壁へ立てかけられていた。誰かが写真に入らないよう、急いで脇へ置いたような角度だった。持ち主の姿は写っていない。それなのに、ナギョンはその傘から目が離せなかった。
「……なに、これ」
声はリビングの床に落ちた。
ロースクールに合格した日のことは覚えている。発表掲示板の前で、一人で結果を確認した。母に電話をかけ、少し泣かれ、早く帰って温かいものを食べなさいと言われた。写真など撮らなかった。横断幕の前で笑う余裕もなかった。
まして、青い傘を持った誰かがそばにいた記憶などない。
ナギョンは額縁に手を伸ばした。ガラス面は薄く冷たく、指紋がついた。裏返すと、厚紙の隅に日付が書かれていた。
二〇一三年十一月十五日。
雨。合格の日。
間違いなく自分の字だった。
三十三歳の硬い署名ではない。昨夜、白い葉書に浮かんだ字と同じ、少し右へ傾く若い字。講義ノートを急いで埋めていた頃の字。疑いようがないほど、イ・ナギョンの筆跡だった。
ナギョンは額縁を落としそうになり、慌てて胸に抱えた。
昨日、過去の自分へ送ったのは二文だけだった。チョン・ウジンを待たないで。彼は結局、来ない。それだけだ。合格発表の日の写真を撮れとは書いていない。青い傘を置けとも、笑えとも書いていない。
それなのに、部屋の中に証拠だけが増えていた。
過去が、返事もなく勝手に動き始めている。
その考えが浮かぶと同時に、ナギョンは携帯電話をつかんだ。昨夜から何度も確認した画面。通話履歴、写真フォルダ、カレンダー。どれも大きく変わっていないように見えた。だから、額縁も見間違いだと、どこかでまだ思いたかった。
指は自然に、古いメッセンジャーアプリを開いていた。
チョン・ウジン。
退会済みのアカウント名は、昨日と同じく灰色だった。プロフィール写真は空白。最後にやり取りした十年前の履歴は、ナギョンが消せずに残していたものだった。消さなかったのではない。消せなかった。捨てられた証拠を手元に残しておくことで、かろうじて怒りの形を保っていた。
画面を下へ送る。
最初は、何も変わっていないように見えた。講義の時間、レポートの締切、母の薬を買って帰るという短い連絡。若い自分の軽い絵文字。ウジンのぶっきらぼうな返事。どれも見覚えがあった。
だが、途中から文が途切れ始めた。
白い空白が、会話の間に挟まっていた。一行分ではない。数日分が丸ごと抜け落ちたような、妙に広い空白。送信時刻だけが端に残り、本文がない。吹き出しの枠さえ消えている場所もあった。
ナギョンは画面を拡大した。
空白は、最後の約束の前後に集中していた。
ソンブク洞の旧郵便局。夜九時。必ず行く。
昨日まで、そこへ至るまでのやり取りは残っていた。ウジンが妙に返事を遅らせた日、ナギョンが不安を隠して冗談を送った夜、彼が短く大丈夫だと返した行。ナギョンは十年の間、その冷たさを何度も読み返した。どこで心が離れたのか、どの一文が別れの前兆だったのか探した。
その履歴の半分が、空白になっていた。
「どうして……」
問いは誰にも届かなかった。
ナギョンはソファに座ることも忘れ、本棚の前に立ったまま画面を追った。昨日の夜、自分が葉書に書いた警告が過去の自分へ届いたなら、二十三歳のナギョンはウジンを待たなかったのかもしれない。電話を切ったかもしれない。会う約束を変えたかもしれない。
だから履歴が消えた。
そう考えると筋は通る。だが通りすぎて、余計に怖かった。証拠のないことは信じないはずの自分の頭が、現実の変化を前に、勝手に理由を組み立てている。
ナギョンは指先で空白を押した。何も反応しない。削除されたメッセージの表示もない。エラーでもない。ただ、最初からそこに何もなかったように、白い余白だけが沈黙していた。
それでも、ひとつだけ残っていた。
消えた行と行の間、ほとんど潰れたような吹き出しの端に、短い文が浮かんでいた。画面を最大限に拡大すると、文字はくっきり現れた。
『病院代のことは心配するな』
ナギョンは瞬きを忘れた。
ウジンの口調だった。余計な説明を嫌い、肝心なことほど短く切る。大丈夫だ、任せろ、心配するな。優しさを優しさとして渡すのが下手で、いつも命令のように置いていく。十年前の記憶の底で、彼の低い声がそのまま再生された。
ナギョンは一度目を読んだ。
『病院代のことは心配するな』
二度目も読んだ。
病院代。
三度目に読んだ時、指先がかすかに震えた。
誰の病院代なのか。なぜウジンがそんなことを言うのか。ナギョンの記憶にはなかった。あの頃、母が体調を崩して通院していたことは覚えている。自分がバイト代と奨学金の計算を何度もしたことも覚えている。けれど、ウジンに病院代を相談した記憶はない。
相談するはずがなかった。
彼に弱みを見せたくなかったからではない。当時のナギョンにとって、ウジンはそばにいるのが当たり前の人だった。話したのなら覚えている。忘れるはずがない。
しかし画面には残っていた。
ウジンは十年前、病院代のことを知っていた。
ナギョンは急いで前後の履歴を探した。だがその文の上も下も、白く抜けている。まるで誰かが重要な説明だけをこそぎ落とし、たった一文だけをわざと残したようだった。
胸の奥で、昨夜の消印の音がよみがえった。
受理されたのは、葉書だけではないのかもしれない。あの二文が、十年前の自分の行動を変えた。その結果、今まで存在しなかった写真が現れ、残っていた履歴は消え、見えなかった文だけが表に出た。
過去は、ナギョンが考えていたよりずっと近く、ずっと残酷だった。
彼女は額縁をもう一度見た。若いナギョンは横断幕の前で笑っている。隣には青い傘。写真に写らない場所に、誰かがいた。今のナギョンが知らない、けれど二十三歳の自分が確かに知っていた誰か。
ウジンだ、と認めるのが怖かった。
認めれば、十年間握りしめてきた言葉が崩れる。彼は来なかった。彼は捨てた。彼は何も説明しなかった。その単純な怒りの中に、別の事実が入り込んでくる。
病院代のことは心配するな。
ナギョンは画面をスクリーンショットで保存しようとした。次の瞬間また消えるかもしれないという焦りが、指を乱した。保存音が鳴る。写真フォルダに残った画像を確認して、ようやく息を吐いた。
その時、拡大した画面の端に、見落としていた小さな時刻が見えた。
二〇一三年十一月十五日、午後八時二分。
額縁の裏に書かれていたのと同じ日付だった。ロースクール合格の日。写真の中で、二十三歳のナギョンが青い傘の横で笑っている日。
ナギョンはゆっくり、壁にもたれた。
その日付には、もう一つだけ覚えがあった。母が初めてハンビッ医院に入院した日だった。
受取人、10年前の私へ。どうか一人で消えようとする彼の手を離さないで
5話 二十三歳のナギョンへ
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