ソユンは無線機を持ったまま固まっていた。
スピーカーの奥に混じった震えは、声になる前の喉の動きそのものだった。本人の唇は閉じていた。なのに、錆びた金属の箱は、彼女がまだ吐き出していない恐怖だけを先に吸い上げたように鳴った。
「置いて」
ミンソの声は低かった。鋭くはない。だが命令として十分だった。
ソユンは反応できなかった。指が白くなるほど無線機を握りしめ、目だけをスピーカーに固定していた。ヘジュンは一歩近づきかけたが、ミンソに腕で制された。
「急に取らないで。落としても触れないで。ソユンさん、自分で床に置いて」
「……これ、何」
ソユンの声は、かすれていた。
「まだ決めつけない。置いて」
ミンソは膝を曲げ、ソユンの目線に合わせた。救助現場でパニックを起こした遭難者に向けるような、感情を削った声だった。
「手を開いて。ゆっくり」
ソユンの指が一本ずつほどけた。無線機は床に触れる直前、また短く、ひゅ、と鳴った。彼女はびくりと肩を跳ねさせたが、今度は声を出さなかった。錆びた機械はストーブの前の床板に転がり、赤い電源ランプを消したまま沈黙した。
ヘジュンはようやく息を吐いた。
「離れて」
ミンソはソユンを無線機から二歩下がらせ、間に自分の体を入れた。彼女は手袋越しに電池蓋を完全に外し、中をライトで照らした。空だった。端子は白く腐食し、電池を入れても通電するようには見えなかった。
ジェヒが横から覗き込んだ。
「接点が死んでいます。基板も湿気で膨らんでいる」
「じゃあ、鳴る理由ないじゃないですか」
ドユンが言った。言いながら、胸のカメラを無線機へ寄せていた。恐怖で顔はこわばっているのに、指は録画ボタンの位置を正確に探っていた。
ミンソが彼を睨んだ。
「近づけないで」
「いや、証拠ですよ。今の撮れてたら、とんでもないですよ。電池なしの救助無線、しかも声まね。怖いけど、こういう変なものほど映像の価値は上がるんです」
「価値?」
ソユンの目が冷えた。
ドユンは一瞬だけ口を閉じたが、すぐに無理な笑みを戻した。
「言い方が悪かったです。でも、ただの廃墟じゃないって証明できる。ヘジュンさんの店の宣伝どころじゃない。これ、ちゃんと出せば――」
「出す前に生きて帰る」
ヘジュンは短く遮った。
その言葉は自分にも向けていた。ドローンを回収する。映像を撮る。店を救う。ここまで来た理由はまだ頭の片隅でうずいていたが、錆びた無線機の息遣いを聞いた瞬間、順位は変わった。
ヘジュンは小屋の扉を見た。外の霧は、木戸の隙間から白い舌のようににじんでいた。裏口は動かず、窓の外は見えなかった。森へ戻るには暗すぎた。
「夜が明けるまで、ここで持ちこたえる」
ソユンが顔を上げた。
「本気で言ってるの」
「外は崖だ。目印も信用できない。動けば散る。扉を固定して、明るくなるまで待つ。朝になれば霧も薄くなるかもしれない」
「かもしれない、ばっかり」
「それでも、今動くよりはましだ」
ミンソは否定しなかった。扉の内側を確認し、ロープをほどいてドアノブと柱に回し始めた。
「扉を開ける判断は、全員一致のときだけです。外から声がしても、返事をしない。呼びかけ確認もしない。誰かが勝手に触れたら、止めます」
「声がしたらって」
ソユンの声は小さかった。
ミンソは答えなかった。答えられないからではない。答えれば、その想像が形を持ちそうだった。
ドユンは気まずさをごまかすように、カメラライトを壁へ向けた。
「じゃあ、せめて中の記録だけ。出口探すにも、何があるか見ないと」
ライトの白い円が釘跡だらけの壁を滑った。古い紙を剥がした四角い跡。黒く染みた板。湿気で膨らんだ継ぎ目。床には寝袋の輪が影を作り、その中央からは変わらず、ぐうん、ぐうん、と機械のような音が上がっていた。
「床、開けないんですよね」
「今は」
ヘジュンが答えると、ドユンは肩をすくめた。
「じゃあ壁から。こういう場所、文字とか残ってたりするんで」
「動画の定番みたいに言わないで」
ソユンが吐き捨てた。
ドユンは反論しかけたが、ライトが壁の低い位置で止まり、言葉を飲んだ。
「……待って。ここ、何かある」
最初はただの裂け目に見えた。黒ずんだ木目の間に、細い線が何本も走っていた。だがライトを斜めから当てると、線は自然な割れではなかった。木の表面を刃物の先で深くえぐり、何度も同じ溝をなぞった痕だった。
ジェヒがしゃがみ込み、指を近づけた。
「触らないで」
ミンソが言うと、ジェヒは手を止めたままうなずいた。
ドユンがライトを固定した。ヘジュンも自分のヘッドランプを外して壁へ向けた。二つの光が重なった瞬間、文字が浮かび上がった。
『外から自分の声が聞こえても、答えるな。』
誰も声を出さなかった。
刻まれた文字は乱れていた。まっすぐではなく、途中で刃が滑ったように曲がり、最後の「な」は木を裂くほど深く掘られていた。書いた者は落ち着いていなかった。時間もなかったのだろう。それでも、その一文だけは、読めなくならない深さで壁に残されていた。
ソユンは無線機を見た。床に転がる錆びた箱は、何も知らない道具のふりをしていた。
「悪ふざけ……じゃないの」
ドユンが言った。いつもの軽口ではなく、そうであってほしいという響きだった。
「昔の肝試し客が彫ったとか。廃墟にはありますよ、こういうの。怖がらせるために」
「山岳救助隊の救護記録がある場所で?」
ミンソの声が冷たくなった。
「だから、当時の誰かが警告で」
「悪ふざけと言ったのはあなたです」
「可能性の話ですよ」
ドユンは苛立ったようにカメラを下げた。
「じゃあ何ですか。本当に外から自分の声が聞こえるって? そんなの、ありえないでしょう」
「さっきの無線機は?」
ソユンが低く言った。
ドユンは答えられなかった。
ヘジュンは壁に近づき、文字の周囲を見た。木の板は全体に黒く腐り、湿気で膨れていた。だが刻字の周りだけ、妙に色が違った。新しく削られた木の肌が、黒ずみきらずに浅い茶色を残している。
ジェヒも同じところを見ていた。彼女はライトの角度を変え、溝の中を照らした。
「これ、古い文字じゃありません」
「どうしてわかるんですか」
「周囲の腐食が浅いです。板の表面は何年も湿気を吸って黒くなっている。でも削られた溝の内側は、まだ木の色が残っている。最近です。少なくとも、二、三十年前ではない」
ヘジュンの背中に冷たいものが走った。
「最近、誰かがここに来たってことか」
「来たか、いたかです」
ジェヒの声は静かだったが、その静けさがいっそう不気味だった。
ミンソは扉のロープを締め直し、結び目を二重にした。
「この警告を残した人が、まだ外にいる可能性もあります」
「生きていれば、ですけどね」
ドユンが小さく言った。
ソユンが彼を睨んだが、言い返さなかった。誰もが同じ考えを避けていた。警告を刻むだけの時間があって、ここから出られなかった者。自分の声が外から聞こえる経験をした者。
ヘジュンは重くなった空気をどうにかほどこうと、無理に口角を上げた。
「まあ、少なくとも親切な誰かはいたってことだ。注意書きがあるだけ、何もないよりましだろ。山のトイレの落書きよりは役に立つ」
自分で言って、ひどい冗談だと思った。声が少し高くなり、語尾だけが軽く跳ねた。昔から、都合の悪いことを隠すときに出る口調だった。
ソユンはすぐに気づいた。
「お兄ちゃん」
「大丈夫だ。朝まで声を出さずに――」
「それ」
彼女は真正面からヘジュンを見た。小屋のぬるい空気の中で、その目だけが痛いほど冷たかった。
「嘘つくとき、必ずその言い方になる」
ヘジュンは息を止めた。
ソユンは続けた。
「軽く言って、何でもないふりをする。あとで何とかなるみたいに笑う。私が怒る前に、先に冗談にする。お母さんの病院のときも、店の保証金のときも、今日の予約のことも、ずっとそうだった」
「ソユン」
「安心させたいなら、嘘みたいな声で言わないで」
その言葉は、壁の警告より深くヘジュンに刺さった。彼は謝ろうとした。だが何を謝れば足りるのか、すぐにはわからなかった。
そのときだった。
床の無線機から、ざ、と砂を噛むようなノイズが漏れた。
全員の視線が一斉に下がった。赤い電源ランプは消えたままだった。電池も入っていなかった。つまみも動いていなかった。
それなのに、ノイズは急速に大きくなった。ざざ、ざざざ。古いスピーカーの薄い膜が内側から震え、錆びた筐体が床板の上でかすかに跳ねた。ミンソが無線機へ手を伸ばしかけ、すぐに止めた。
「触らない」
誰に向けた言葉か、自分でもわからないような声だった。
ノイズの奥で、誰かが息を吸った。
ひゅ、と細く、浅く、怯えを押し殺すような呼吸。
ソユンの肩が震えた。だが今の音は、彼女が発したものではなかった。本物のソユンは唇を結び、呼吸を止めていた。
無線機の向こうで、もう一人のソユンだけが、まったく同じ間合いで息をしていた。
次の瞬間、その息遣いが、壁に刻まれた警告をなぞるように、ゆっくりと近づいてきた。
外から自分の声が聞こえても答えるな
11話 未来を告げる無線の声
次の話