Doyun_voice_backup.wav。
白い文字は、削除確認の下で呼吸するように薄く明滅していた。ドユンは画面を持つ手を動かせなかった。親指の先は削除の文字にも、復元の文字にも触れていない。ただ、液晶の光だけが彼の青ざめた顔を下から照らしていた。
扉の外のドユンが、のんびりと笑った。
「おいおい、そんな顔するなよ。バックアップって大事だろ。撮影者なら常識だ」
明るい声だった。いつもの軽い調子。動画の冒頭で視聴者へ語りかけるときの、少しだけ作った抑揚まで同じだった。だがその声が木戸の向こうにいるというだけで、小屋の空気は一段冷たくなった。
ヘジュンが壁の警告文を指で叩いた。
『外から自分の声が聞こえても、答えるな。』
木を叩く乾いた音が、返事の代わりに小屋へ落ちた。ヘジュンは続けて、口を閉じていろと目で合図した。声を出すな。反論もするな。確認もするな。
ソユンの肩を押さえたまま、彼はドユンへ目を向けた。ドユンは画面を凝視している。派手な防風ジャケットの胸元に固定されたカメラは、今も小さな赤いランプを光らせていた。録画が続いているのか、勝手に続けさせられているのか、もう区別できなかった。
外の声が言った。
「ドローンのバッテリー、本当に残ってるぞ。さっきは嘘っぽく聞こえたか? なら、もっとちゃんと言う。墜落した機体の後部カバー、右の爪が折れてる。おまえ、出発前にそれをテープで補強したよな。黒の絶縁テープ。見た目が悪いから撮影では映さないようにしてた」
ドユンの肩がひくりと跳ねた。
ヘジュンはその反応を見て、血の気が引くのを感じた。ドローンの機体の細かい破損など、ここにいる誰も知らない。まして、撮影で隠していた癖など、本人以外が知るはずがなかった。
外のドユンは、答えを待つように少し黙った。小屋の中では誰も動かない。ロープは扉を縛り、カラビナは柱に食い込んだままだった。だが扉板の向こうで、何かがこちらの沈黙を味わっている気配があった。
「まだ疑う? じゃあ、チャンネルの管理画面。ログインメールはpdyun.campじゃなくて、古いほうを使ってる。高校のときから変えてないやつ。パスワードは、最初が大文字のD、次におまえの誕生日を逆から入れて、最後に感嘆符二つ」
ドユンの唇が震えた。
「……っ」
声になりかけた息を、彼は自分で呑み込んだ。両手で口を押さえる。だが目は扉から離れない。唇の色が、みるみる青くなっていった。
ソユンが小さく首を振る。泣きそうな顔だったが、声は出さなかった。ジェヒは震える手でリュックのポケットを探り、メモ帳を取り出した。ペン先を紙へ押しつける音さえ、今は危険な音に思えた。
ヘジュンはドユンの前へ一歩出ようとした。だがミンソのほうが早かった。彼女は音もなくドユンの前に立ちはだかり、扉から半身を離してロープを片手で握ったまま、ドユンと木戸の間を遮った。黒い髪を結んだ背中は細く見えたが、扉へ向ける姿勢には揺らぎがなかった。
外の声が、楽しそうに続ける。
「最後に編集中だった動画のファイル名も言えるぞ。『last_ridge_teaser_v3_fix』。違うな、あとで自分で気に入らなくなって、『real_last_ridge_cut』に変えた。サムネ用の仮画像は、怖い顔に寄りすぎて安っぽいって思って、まだ出してなかった」
ドユンの目が見開かれた。
その情報は、ドローンの破損よりも深い場所に触れたのだと、ヘジュンにもわかった。本人のパソコンの中、誰にも見せるつもりのない編集途中の名前。頭の中でだけ考えた迷い。それを、扉の外の何かが、本人の声で並べている。
ドユンは一歩後ずさった。古い床板がきしむ。彼はすぐに自分の足音に怯え、膝を曲げたまま固まった。
外のドユンが、少しだけ優しくなった。
「なあ、こっちへ来いよ。俺はおまえだ。おまえが忘れそうになってるものを、こっちは覚えてる。パスワードも、ファイル名も、登録者が初めて千人を越えた日のことも」
ドユンの喉が上下した。
「覚えてるよ。コメント欄で初めて『役に立った』って言われたやつ。あれ、スクショして別フォルダに保存しただろ。誰にも見せないでさ。馬鹿みたいだけど、嬉しかったんだよな」
ドユンは両目を閉じた。閉じても声は入ってくる。むしろ、見えない分だけその声は近くなったようだった。彼の指がカメラの画面から離れ、震えながらポケットを探った。
ヘジュンは動くなと手で示した。ミンソも鋭く首を横に振る。
ドユンはスマートフォンを取り出した。通話圏外を示す表示の下で、メモアプリを開く。指先がうまく動かず、最初の数文字は意味のない線になった。彼は歯を食いしばり、もう一度打った。
画面をヘジュンたちへ向ける。
『俺の記憶が外にいる』
その一文を読んだ瞬間、ソユンの目から涙がこぼれた。ジェヒの表情も硬くこわばる。ミンソはメモを見ても顔色を変えなかった。ただ、ドユンの前へ半歩深く立ち、扉を完全に遮った。
ドユンは続けて打った。
『俺が思い出す前に、外が言う』
『俺しか知らないことを』
『頭の中から抜けて歩いてるみたいだ』
最後の文字は歪んでいた。彼の手が震えすぎて、同じキーを何度も押していた。
ヘジュンは声を出さず、手のひらを開いて見せた。スマートフォンを床に置け。扉を見るな。そう伝えるつもりだった。だがドユンの視線はすでに、ミンソの肩越しに木戸へ吸い寄せられている。
救急箱の中の無線機が、ざり、と短く鳴った。ヘジュンの声はもう笑っていない。何かを待つような、低いノイズだけが箱の隙間から漏れていた。
外のドユンが、さらに声を低くした。
「おまえ、最近ちょっと忘れてるよな。最初に買ったマイクのメーカー名。初案件の相手の名前。編集ソフトのショートカット。さっきから、何個か出てこないだろ?」
ドユンの目が揺れた。
「怖いよな。自分の中から、少しずつ空きができるの。そこに何が入ってたのかも、わからなくなる。なあ、答えさえすれば、まだおまえの中に残ってるものも全部返してやる」
返してやる。
その言葉だけが、小屋の中で妙に長く残った。
ヘジュンは即座に首を振った。強く、何度も。ジェヒもメモ帳へ急いで書きつけ、ドユンの目の前へ出す。
『返せる相手なら奪わない』
ドユンは読んだ。読んだはずだった。だが瞳の焦点は紙の文字ではなく、その奥の扉に合っていた。
外の声が囁く。
「おまえが答えればいい。ほかの奴らは関係ない。ひと言だけでいい。俺はここだって言え」
ドユンの唇が、ほんの少し開いた。
ミンソが動いた。彼女はドユンの肩を片手でつかみ、指が食い込むほど強く握った。ドユンの体がびくりと止まる。ミンソは彼の正面に顔を寄せ、声を出さずに、目だけで命じた。
言うな。
ドユンの目に涙が浮かんだ。恐怖なのか、奪われたものへの未練なのか、ヘジュンにはわからなかった。
そのとき、スマートフォンのメモ欄に、ドユンの指が触れていないのに新しい文字が一つずつ現れ始めた。
『じゃあ、俺が代わりに答えてやろうか』
ミンソの手が、ドユンの肩でさらに固まった。
外から自分の声が聞こえても答えるな
16話 奪われた声と扉の嘲笑
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