地下の奥で吸い込まれた息は、蓋を持ち上げているヘジュンの指先まで冷たくした。
ミンソは金属輪から手を離さず、顎だけでヘジュンへ合図した。もう少し。蓋を倒す場所を確保する。閉じるときの動線を残す。彼女の目はそう言っていた。
ヘジュンは頷き、ソユンを一度だけ振り返った。妹は壁に背を押しつけ、片手で口を押さえ、もう片方の手で兄の袖を掴んでいた。声を出さないために唇を噛みしめているのが、ライトの端で見えた。
外のドユンは黙っていた。さっきまで甘く開けろと囁いていた声が消えたことで、小屋の中の静けさはかえって悪くなった。待っている。そう感じた。
ミンソとヘジュンは息を合わせ、床板ほどもある重い蓋をさらに起こした。蝶番が錆を噛み砕くように軋み、防塵テープの残りがねばついた音を立てて裂ける。蓋の裏には黒い染みがびっしり広がり、ところどころに乾いた泥のような塊が付着していた。
ジェヒの懐中電灯が、開いた穴の縁をなぞった。
急な階段が、濃い闇の中へ落ちていた。人一人が横を向いてようやく通れるほど狭く、踏み板は古い木と錆びた金具で無理やり組まれている。壁は土ではなく、荒いコンクリートだった。表面に白い粉が吹き、ひび割れの奥から湿った空気が細く漏れている。
ジェヒの光が一段目の横で止まった。
そこには爪痕があった。蓋の縁に残っていた傷と同じ、浅く、何度も重なった白い線。だがよく見ると、ただ引っかいただけではなかった。
名前だった。
ハングルで、いくつも、いくつも。読めるものもあれば、途中で崩れているものもある。指先の爪で削ったような細い文字が、踏み板の横木から壁の低い位置までびっしり刻まれていた。最後の線だけ深くえぐれている名前もあった。途中で力尽きたように、母音だけで途切れているものもあった。
ソユンが息を呑みかけ、すぐに自分の口を両手で塞いだ。
ヘジュンはその手の震えを見た。彼も声を出せなかった。名前を書くという行為が、ここでは救助要請ではなく、墓標に近かったからだ。誰かがこの扉が開くことを願って残したのか。あるいは、永遠に閉じたままでいてほしいと願いながら、最後に自分がここにいた証拠だけを削りつけたのか。
ミンソの表情がわずかに険しくなった。元救助隊員の彼女は、名前を残す者の気持ちを知っているのだろう。助かるための情報。見つけてもらうための印。だがこの階段に刻まれた名は、見つけてもらえなかった人間の列にしか見えなかった。
ドユンがふらつく足取りで近づいた。胸のカメラはまだ光っているが、彼自身は画面を見ていない。喉を押さえたまま、スマートフォンを開く。指が何度も滑り、やっと文字が浮かんだ。
『下に』
『俺の声もある気がする』
ヘジュンはその文を読み、胃の奥が沈んだ。
外に奪われた声。扉の向こうで笑っていたドユンの声。もしそれが、ただ外にいるだけでなく、下にもあるのなら。この階段は出口でも倉庫でもない。声が落ちていく通路なのかもしれなかった。
ジェヒがドユンの画面を見て、すぐに首を横に振った。断定ではない。誘惑に乗るな、という警告だった。ミンソもドユンの肩を押し、階段から距離を取らせる。ドユンは抵抗しなかった。ただ、自分の喉から二度と戻らないものを追うように、暗い階段を見下ろし続けた。
そのとき、地下の奥から、細い声が上がった。
「……私、お兄ちゃんを恨んでる」
ソユン自身の声だった。
無線機がさっき吐き出し、あとで彼女の口からも同じように出た言葉。その声が、今度は階段の下の闇で、濡れた壁に貼りつくように囁いた。
ソユンの目が見開かれる。ヘジュンは反射的に妹のほうへ伸ばしかけた手を止めた。名前を呼んではいけない。大丈夫だと言ってもいけない。否定も、謝罪も、返事になる。
ソユンは兄を見なかった。自分の声に返事をしてしまわないよう、両手で口を塞ぎ、肩を震わせていた。涙だけが頬を伝う。ヘジュンは近づき、彼女の手首にそっと触れた。声ではなく、圧だけで、ここにいると伝える。
地下の声は続かなかった。かわりに、闇の底で何かが笑わずに息を吸った。
ミンソはライトを受け取り、階段の縁を照らした。降りるかどうかは決めない、と彼女はさっき書いた。だが今、上に残れば地下から何が這い上がってくるかわからない。扉も窓も裏口も封じられている。床下がこの小屋の肺なら、そこを見ずに逃げ道を探すことはできなかった。
彼女はメモ帳に短く書いた。
『私が先』
『一段ずつ』
『音を立てない』
『危険なら戻る』
ヘジュンはすぐ首を横に振った。ミンソ一人を先に行かせることへの反射的な拒否だった。だがミンソは彼の目を正面から受け、さらに一行だけ足した。
『足場を見るのは私の仕事』
反論できなかった。
ヘジュンは工具袋から細いロープを出し、ミンソの腰にハーネス代わりに巻いた。専門の装備ではない。だが彼女は結びを見て、小さく頷いた。もう一端をヘジュンが握り、ジェヒがライトを補助する。ソユンは壁際に残り、ドユンは階段を見下ろす位置から一歩離された。
ミンソが一段目へ足をかけた。
木が小さく沈んだ。だが折れない。彼女は体重を分散させ、踵を置かず、次の段を探る。懐中電灯の光が細く揺れ、階段の壁に刻まれた名前をひとつずつ撫でた。
キム・ヨンホ。
チェ・ミラ。
読めない姓。
途中で消えた名。
同じ名前が二度刻まれたものもあった。最初の一つは丁寧で、二つ目は乱れていた。時間が経って、もう一度ここへ戻されたのではないかと思えるほど、筆跡が違っていた。
ミンソは三段下で止まり、手を上げた。異常なし。さらに降りる。ロープがヘジュンの手の中で少しずつ滑る。冷たい繊維が汗を吸い、指に食い込んだ。
階段の途中から、匂いが変わった。
上に噴き上がっていた血に似た鉄臭さの下に、甘く腐ったものが混じった。湿った布。古い革。長く密閉された人の荷物の匂い。そこへ薬品の刺激が絡み、肺の奥にざらざらした痛みを残す。
ジェヒが布越しに口元を押さえ、目だけで警告する。ヘジュンも頷いた。長くは吸えない。
ミンソのライトが、ようやく階段の底に触れた。
狭い踊り場の先に、低い地下室が広がっていた。天井は大人がまっすぐ立てないほど低く、コンクリートの梁が頭上に黒く走っている。床には水が薄く張り、ライトを受けて油膜のように虹色へ光った。
そして、その奥。
色があった。
赤、青、黄色、緑。山の中では見慣れたはずの、登山用のリュックの色だった。だがそれが何十個も、壁際に不気味なほど高く積み上げられている光景は、キャンプ場の倉庫とはあまりに違った。
リュックは泥と黒い染みで汚れ、ベルトは切られ、バックルは割れていた。小さな子供用のものも混じっている。外ポケットから水筒が半分だけ突き出し、別のリュックのファスナーには古いお守りがぶら下がっていた。
ミンソは最下段まで降りきり、ライトを横へ振った。
登山靴の靴底が散らばっていた。靴そのものではなく、剥がれた底だけが何枚も、濡れた床に重なっている。踏みしめて逃げようとした痕跡のように、泥が裏に固まり、爪先のゴムだけが裂けていた。
その散らばる靴底の間に、身分証が落ちていた。
水を吸って膨らんだカード。顔写真の部分だけが擦れて白くなったもの。名前の印字がまだ読めるもの。古い財布からこぼれたままのもの。ジェヒのライトが一枚を照らした瞬間、ヘジュンは無意識に息を止めた。
ここは倉庫ではなかった。
失くし物の置き場でもない。
誰かが人から剥ぎ取り、分類も処分もせず、ここへ積み続けた遺品の山だった。
ミンソの肩が、はっきり震えた。彼女は救助現場で遺留品を見たことがあるはずだった。水に浸かった靴も、泥を吸った上着も、持ち主だけが戻らない荷物も。それでも、この数は違った。
彼女は口元を押さえ、声を漏らさないように深くうつむいた。
そのとき、リュックの山の奥で、何かが小さく沈んだ。
布と金具が擦れる音。積まれた荷物の隙間から、ぬめる水が一筋、床へ流れ出す。ジェヒの光がそこを追い、ヘジュンの手の中でロープがきつく張った。
濡れた床の上に、今ついたばかりの足跡があった。
地下室の奥から階段のほうへ向かって、裸足の跡が二つ。小さくはない。大人の足だった。踵にはまだ水が盛り上がり、縁が崩れていない。
ミンソがゆっくりライトを上げた。
リュックの山の陰で、埃をかぶっていない登山靴が一足だけ、こちらを向いて揃えられていた。
そしてその靴紐が、誰も触れていないのに、ゆっくりとほどけ始めた。
外から自分の声が聞こえても答えるな
21話 濡れた足跡
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