裸足の小さな足跡を前に、誰も動かなかった。
湿った土の上に残ったそれは、森へ向かう登山靴の列に寄り添うようでいて、深さがまるで違っていた。子供がふざけて踏んだにしては、指先まで土に食い込んでいる。冷たい地面を、急いで、痛みも構わず進んだ跡だった。
「……子供?」
ドユンの声だけが場違いに軽く浮いた。だがカメラを向ける手は、さっきより少し低い。
ミンソはしゃがんだまま、足跡の周囲へライトを当てた。黒い髪を結んだ後ろ姿が固い。救助隊にいたころの癖なのか、彼女はすぐに足幅や向き、土の崩れ方を見ていた。
「古くありません。雨の前でもない」
「じゃあ、今もこの中に?」
ソユンが森を見た。霧はまだ薄いのに、木々の奥だけが早く夜を受け入れたように暗かった。
ヘジュンは無意識に一歩踏み出しかけた。もし本当に子供がいるなら、管理人を探すどころの話ではない。だが同時に、昨夜の電話の音が耳の奥でまた低く回った。ぐうん、ぐうん。どこにも発電機などないはずなのに。
ミンソが彼の袖をつかんだ。
「今、入るのは危険です。日没まで時間がありません。足跡を追うなら、装備をそろえてからです」
「でも、子供なら」
「子供だと決めつけるのが危険です」
短い言葉だった。そこに私情の震えが混じったことに、ヘジュンだけでなくソユンも気づいた。ミンソはそれ以上説明せず、立ち上がった。
ヘジュンは案内板の赤い文字をもう一度見た。裏手の稜線、立入禁止。誰がいつ書いたのか、赤はまだ妙に生々しかった。
「今日は入らない。テントを張って、明日の朝、管理人が戻らなければ撤収する」
口にした瞬間、自分がやっと妥協点を作ったのだとわかった。ここまで来て帰るとは言えない。だが、いま森へ踏み込む勇気もなかった。
「朝まで泊まるんですか」
ソユンの目が冷えた。
「暗くなってから山道を下りるより安全だ。ミンソさんもそう言うだろ」
ミンソは少し間を置いてうなずいた。
「車で下るなら、今すぐです。残るなら、明るいうちに設営して、夜は動かない。それ以外は勧めません」
「だったら残る意味あります?」
ドユンが胸のカメラを指で弾いた。
「無人の管理棟、立入禁止、謎の足跡。ここで普通にテント張って寝ました、じゃ動画にならないですよ。外周くらい撮らないと」
「撮影は二の次です」
ミンソが低く言った。
「いやいや、そもそも撮影のために来たんでしょう。ヘジュンさんの店の宣伝も、こういう雰囲気があってこそですよ」
ヘジュンは反論しかけて、言葉を失った。間違ってはいない。だからこそ、胸の奥がみじめに縮んだ。
結局、五人はAサイトの端にテントを二張り立てた。炊事場に近く、駐車場へも走れる場所だった。ミンソがペグの角度を確認し、ヘジュンは慣れた手つきでフライシートを張った。風は弱いのに、布地がときどき内側から押されるようにふくらんだ。
ジェヒは管理棟から持ち出した古い場内図と自分の地図を重ね、薬品臭が強い場所へ印を付けていた。ソユンは黙って荷物を運び、兄とは目を合わせなかった。
「ソユン」
設営が一段落したころ、ヘジュンは声をかけた。彼女はランタンの箱を置き、振り向かずに言った。
「何」
「明日の朝には出る。約束する」
「約束って便利だよね。今この場を越えるために使えて」
ヘジュンは息を呑んだ。ソユンはやっと振り向いた。夕方の光の中で、彼女の顔は怒っているというより疲れていた。
「無理に予約取った本当の理由、まだ言ってないよね」
「店の宣伝だ。前に話した通りだ」
「それだけなら、誰もいないキャンプ場で水も電気もない時点で帰れる。お兄ちゃんは帰らない理由を探してる」
ヘジュンの指が、ポケットの中の予約確認書を握った。無音電話。入力していない備考欄。最後のお客様です。言えばいい。今なら、まだ。
だが口から出たのは、薄い言い訳だった。
「撮れるものを撮っておきたいんだ。店の支払いが、本当にまずい。これを逃したら、次がない」
金のことを口にしたつもりなのに、いちばん言うべき金額も、誰にどれだけ借りているかも、喉で止まった。ソユンは彼の沈黙を見て、ふっと笑った。乾いた、失望だけの笑いだった。
「やっぱり、都合の悪いところだけ黙るんだ」
彼女はそれ以上責めず、ランタンを持って離れた。怒鳴られるより、その背中のほうがこたえた。
そのころドユンは、ひとりで外周を歩いていた。もちろん、勝手な行動であることを隠すために「素材撮ってきます」と言い残してはいた。胸のカメラは赤い録画ランプを点け、彼は売店跡、空の薪棚、倒れた注意看板を順に映した。
「閉鎖寸前の山奥キャンプ場、最後の客が見たものとは。いいですね、かなりいい」
自分に言い聞かせるようにしゃべりながら、彼はBサイトの奥へ進んだ。そこには古いサイト番号札が、半分土に埋もれて並んでいた。B7、B8、B9。どれも白い板に黒い数字が消えかけている。
ミンソが彼の後を追ってきたのは、B10の札の前だった。
「単独行動はやめてください」
「すぐ戻りますって。ここ、雰囲気あるんで」
「雰囲気で人は助かりません」
ミンソは番号札へライトを向けた。B10の白い板には、数字の上から刃物か釘で大きなXが刻まれていた。塗料ではない。板そのものを深く削った跡だった。
彼女の表情が変わった。
「何ですか、それ。バツ印?」
ドユンが近づこうとすると、ミンソは手で制した。
「救助現場で、確認済みや危険箇所を示す時に似た印を使うことがあります。でも、これは……」
言い終える前に、彼女は視線をそらした。脳裏に別の現場がよぎったのだろう。雨、濁流、呼び続けても返らなかった誰か。ヘジュンは遠くからその横顔を見て、胸の中に冷たいものが落ちるのを感じた。
一方、ジェヒは管理棟へ戻っていた。薬品臭が床だけでなく、奥の事務机からも漂っている気がしたからだ。引き出しは鍵が壊れ、湿った書類が何枚も丸まっていた。
彼女は手袋をはめ、紙を一枚ずつ取り出した。古い点検表、利用申込書、未払いの修繕見積もり。その下に、県の書式に似た閉鎖通知書があった。上半分は残っている。老朽化に伴う営業終了。利用者安全確保のため。そこまでは記事と同じだった。
問題は、下半分が乱暴に破り取られていることだった。ちょうど閉鎖理由の詳細と、添付資料名が書かれる欄だけがない。
「……隠した?」
ジェヒは小さくつぶやいた。紙の破れ目には、新しい繊維が白く残っていた。何年も前ではない。最近、誰かがここを開け、この紙だけを破った。
外でドユンの声がした。
「ヘジュンさん、これ、上から撮りましょうよ!」
ジェヒが書類を資料ケースへ挟んで外へ出ると、ドユンはもうAサイトの広場で機材ケースを開いていた。黒い操縦機と折り畳み式のドローンを取り出し、嬉しそうにプロペラを広げている。
「稜線側の森の上に飛ばせば、キャンプ場全体が一発で見えます。小屋が本当にあるかも確認できますし」
「立入禁止の上です」
ミンソの声が硬くなった。
「上空ですよ。地面に入るわけじゃない」
「地形を確認せずに飛ばすのは危険です」
「でも電波もないし、管理人もいないし、上から見たほうが早いでしょ。ヘジュンさん、店の宣伝動画としても、ここ逃すのはもったいないですよ」
ヘジュンは答えられなかった。ソユンの視線が横から刺さる。彼が何を選ぶか、もうわかっているような目だった。
そのとき、ジェヒのスマートフォンが震えた。圏外のはずの画面で、青い現在地の点が管理棟から案内板へ跳び、次に稜線の奥へ跳び、また入口へ戻った。地図の空白部分に、灰色の細い線が一瞬だけ伸びる。
最後の目的地まで、あと四十一キロ。
表示はすぐ消えた。だが全員がそれを見るより早く、森の向こうで何かが瞬いた。
稜線の向こう。電気など止まっているはずの、地図にも道にもない深い森の奥で、黄色い灯りが一つ、息をするように明滅した。
一度、消える。
そして二度目に灯ったとき、その光はさっきより明らかに近かった。
外から自分の声が聞こえても答えるな
5話 墜ちたドローンの黒影
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