革の内側が脈を押し返した感覚は、港の夜明けまで消えなかった。
道潤は洗面所を出てから、すぐには倉庫の出口へ向かわなかった。第二の出場権カードを握ったまま、油麻地の埠頭に積まれたコンテナの間を歩いた。海から来る湿った風が、血と油の匂いを薄めていく。東の空はまだ暗く、クレーンの骨組みだけが灰色に浮かんでいた。
左手首は重かった。革環の内側にある硬い板状の何かが、骨に沿って存在を主張している。春川の事務室でミンジュンが切って確かめようと言った時、道潤は止めた。呉明植が最後まで離さなかったものを、自分が先に壊すわけにはいかなかったからだ。
だが今は違う。
呉の最後の試合記録。その言葉を聞いた瞬間から、革の中身が答えに近い場所を指しているように思えてならなかった。もし開けば、次の港を待たずに何かが分かるのではないか。呉が何を見て、誰に倒されたのか。黒いスーツの男が奪おうとした理由も。
道潤は親指を革の縁へかけた。古い縫い目は汗を吸って柔らかくなっている。少し力を込めれば、糸一本くらいは切れるかもしれなかった。
その時、遠くでフォークリフトの警告音が鳴り、道潤は指を離した。
『開けるな』
呉の声が聞こえたわけではない。だが病室でかすかに曲がった人差し指、港へ向かう許しにも制止にも見えたあの合図が、今になって手首の奥へ戻ってきた。
道潤は息を吐き、コンテナの角を曲がった。第一路の倉庫は背後でほとんど明かりを落としていた。賭博客たちは消え、黄色いテープの四角も、今は誰も踏んでいない。ただ、倉庫群のさらに奥、低い管理棟のような建物の一角だけに細い光が残っていた。
作業灯ではない。窓に布が掛かっているのに、下の隙間から青白い画面光が漏れている。
道潤は足を止めた。
扉の前には警備員がいなかった。だが油断できる場所ではない。彼は壁沿いに近づき、鼻の痛みで息を浅くしながら、錆びた扉の隙間へ片目を寄せた。
中には二人いた。どちらも黒手袋を外していない。第一路で判定員の後ろに立っていた進行係と、タブレットを伏せた男だった。机の上にはノート型端末が三台並び、壁のモニターには試合映像が止められている。
映っていたのは、道潤が李偉の顎下膝蹴りを受けて浮き上がる瞬間だった。
「三十二フレーム目。視線消失」
一人が広東語混じりの英語で言い、もう一人が表へ数字を打ち込んだ。画面の右側には、韓道潤という名前の下に項目が並んでいた。
反応速度。怒り誘発後の視野狭窄。顎下衝撃後の意識回復時間。受け身による頸椎保護。右足着地遅延。痛み持続時間。
道潤は喉の奥が乾くのを感じた。
単なる試合記録だ。そう思おうとした。格闘興行なら映像分析くらいする。相手の癖を測り、次の関門へ回す。李偉も言っていた。勝った者の弱いところを、次の者が知っている場所だと。
だが、表は癖だけを見ていなかった。
「怒り誘発語句、呉明植。成功率、高」
黒手袋の男が淡々と読み上げた。
「関節制圧成功条件。対象が攻撃継続時、落下反動利用。破壊意図なし。保存価値あり」
保存価値。
道潤の指が扉の縁へ食い込んだ。勝ち負けではない。彼らは、どの言葉で怒るか、どの痛みなら戻ってくるか、どこまで壊さず相手を止められるかを、同じ表の中で扱っていた。
モニターの映像が巻き戻る。今度は李偉が囁く瞬間で止まった。音声波形の横に字幕が出る。
『呉明植もこの角度で倒れた』
道潤の奥歯が鳴った。
次のクリックで、別のフォルダが開いた。道潤は息を止めた。画面の左上に、見慣れた漢字三文字が浮かんだからだ。
呉明植。
その名の右に、英数字の並ぶファイルがぶら下がっていた。日付、場所、処理番号。そして最後の行に、日本語と英語が混ざった題名があった。
『モンゴル試験体セッション3』
道潤の視界が狭くなった。
試合記録ではない。試験体。呉明植を、彼らはそう呼んでいた。
モニターの中で、別の映像が読み込まれかけた。荒い屋内照明。コンクリートの床。画面端に映る白髪まじりの短い髪。道潤の胸が勝手に前へ出る。もっと見なければならない。ここで目を離せば、次の港までまた餌を追わされるだけだ。
扉をこじ開けるか。
その考えが生まれた瞬間、左手首が焼けた。
「っ……」
声を押し殺したが、膝がわずかに沈んだ。革環の内側の硬い部分が、熱した金属のように皮膚へ食い込んでいる。痛みではない。警告に近かった。脈を押し返した時とは違う。内側から、開こうとする指を拒む熱だった。
道潤は反射的に右手で革を掴んだ。外したい。だが外せば、何かが終わる。そんな理屈のない確信が背筋を冷やした。
室内の男たちが顔を上げた。
「外か」
椅子がきしむ音がした。道潤は身を引いた。鼻と顎の痛みで足が重い。走れば音が出る。戦えば、また記録される。
その時、背後の闇から韓国語が落ちた。
「館長は、それを開くなと言っていただろう」
道潤の身体が止まった。
聞き慣れた抑揚だった。春川の道場で聞く韓国語とも、ミンジュンの若い声とも違う。けれど、呉明植の名前を「館長」と呼ぶ距離だけは、妙に近かった。
道潤はゆっくり振り返った。
コンテナの影に、一人の女が立っていた。年は道潤より少し上に見える。黒い短い上着の下に動きやすい服を着て、肩には小さな医療バッグのようなものを掛けている。港の薄明かりでは顔色まで分からないが、目だけがまっすぐだった。逃げ道を探す目ではなく、患者の歩き方を一目で測るような目だった。
道潤はカードを握る手に力を込めた。
「誰だ」
女はすぐには名乗らなかった。視線は道潤の顔の腫れ、顎の下の痕、左手首の革環へ順に落ちる。試合を見ていた者の目だった。だが黒手袋会の観測とは違う。数値ではなく、傷がこれ以上どこへ広がるかを見ている目だった。
「今ここで扉を開ければ、君は二分も持たない。中の二人は進行係に見えるが、一人は制圧要員だ。鼻も顎もその状態で、まともに呼吸できないだろう」
「答えろ。誰だ」
道潤は低く言った。怒りを押さえた声になったつもりだったが、手首の熱がそれを裏切るように脈を打った。
女は一歩だけ近づいた。柔らかい底の靴がコンクリートをほとんど鳴らさなかった。
「今、名乗れば君は信用するのか」
「しない」
「なら、後でいい」
女はそう言って、管理棟の裏手へ目を向けた。室内では扉が開く音がした。さっきの二人が外を確認しに来る。
「呉明植の本当の記録は、あの端末にはない。あれは餌だ。君が開け、怒り、また測られるための映像だけが置かれている」
道潤の息が止まった。
「本当の記録を知っているのか」
「どこにあるかは知っている」
女は道潤を真正面から見た。海の向こうで夜明けの色が濃くなり、コンテナの壁に細い光が差した。その光で、彼女の左手首に古い白い傷跡が見えた。まるで何かを強く巻かれていた痕のようだった。
「知りたいなら、私について来い。ここで一歩間違えれば、呉明植の記録より先に、君自身が次の試験体になる」
背後で管理棟の扉が完全に開いた。
黒手袋の男が外へ出てくる。道潤が振り返るより早く、女はコンテナの影へ滑り込んだ。暗がりの奥で、彼女の声だけが低く残った。
「選べ、韓道潤。館長の言葉を守るか、彼らの表に自分で飛び込むか」
革環の熱が、二度目の警告のように手首を焼いた。
崩れざる模倣者は闇の格闘巡礼で世界の達人技を喰らい尽くす
11話 エディルネの低い構え
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