エディルネの芝の冷たさは、飛行機を二度乗り継いでも右膝の奥から消えなかった。道潤がダカールの砂へ足を下ろした時、そこにはまだ濡れた草の感触が残っていた。だが耳に届いたのは草を踏む音ではない。波が低く崩れる音と、腹の底を叩く太鼓の音だった。
海辺に造られた闘技場は、壁も屋根もなかった。砂の上に太い縄が半円を描き、その外側に観客が何重にも立っている。賭札を握る男たちの声が潮風に混じり、道潤の皮膚をざらつかせた。黒手袋の進行係だけが、砂に沈まない板の上でタブレットを持っていた。
医療用の簡易テントで、恩彩は道潤の腰へ両手を当てた。押す動きは静かだったが、指は容赦がなかった。
「骨盤が右へ逃げてる。エミルに持ち上げられた時のまま、腰が戻りきってない」
道潤は黙って息を吐いた。言い返せるほど痛みは小さくない。右膝の内側は熱を持ち、左肘にはまだ泥の下で裂けた皮膚の痛みがあった。
恩彩は膝を曲げ伸ばしさせ、足首の向きを見た。最後に黒いテープを手に取ると、巻く前に視線だけを上げた。
「出ないで」
短い言葉だった。
道潤は彼女を見返した。恩彩の目は、止める人間の目ではなく、もう壊れ方を見てしまった理学療法士の目だった。
「次を逃したら、呉明植の記録から遠ざかる」
「近づくために膝を壊したら、そこから先へ歩けない」
「歩く」
「根性の話をしてない。右足が砂に取られたら、抜く時に遅れる。相手がそこを狙えば、膝の内側が開く」
道潤は左手首の革環へ視線を落とした。泥は拭き取ったが、内側の硬い部分だけが妙に重く感じられる。開けるな、という呉の声がまだ残っていた。答えは中にはない。なら、道の先にある。
「館長は、倒れても戻った」
「今のあなたは、戻る前に折られる」
恩彩の声に怒りはなかった。だから余計に重かった。道潤はテントの外へ目を向けた。太鼓が三つ続けて鳴り、観客の輪が揺れる。縄の内側で、ンディアイが砂を踏んでいた。
大きな男ではなかった。だが肩から腕にかけて厚く、腰が低い。上半身は油の光ではなく、海風で乾いた筋肉の陰影をまとっている。彼は道潤の顔を見なかった。胸も、腕も見ない。最初から、右膝だけを見ていた。
その視線は長すぎた。
恩彩も気づいた。テープを持つ手が止まる。
「もう情報が渡ってる」
「エミル戦を見れば分かる」
「見ただけじゃない。あの目は、どの角度で壊すかまで知ってる」
道潤は返事をしなかった。否定すれば、彼女の観察を軽んじることになる。肯定すれば、足が止まる。だから右膝のテープを自分で受け取り、恩彩の手の上から巻いた。
「止めるなら、今ここで俺を倒してくれ」
恩彩は一瞬だけ唇を閉じた。次に、テープを奪い返すように引き締めた。痛みが膝の奥へ刺さる。
「倒す力があるなら、先にあいつを止めてる」
それが許可ではないことは、道潤にも分かった。ただ、同行者としての最後の処置だった。
進行係が腕を上げた。太鼓の拍子が細かくなり、観客の半円がさらに詰まる。砂は足首まで沈むほど深くはない。だが表面が乾き、下が湿っていた。踏み込めば沈み、抜こうとすればまとわりつく。
道潤は縄を越えた。右足の裏で砂の粒を押す。芝よりも乾いているのに、返ってくる力は弱い。春川の畳、香港の床、エディルネの芝。どれとも違う。
ンディアイが近づいた。挨拶の手は出さない。ただ胸の前で両手を軽く打ち、砂へ指先を触れさせる。道潤も黙って頭を下げた。
その間も、ンディアイの目は右膝から離れなかった。
鐘の代わりに、太鼓が一つだけ強く鳴った。
道潤は先に動かなかった。エミルの時に先に触れ、接触そのものを失った。今度は相手の始まりを待つ。ンディアイの肩は揺れない。だが左足が砂を小さく削った。
低い蹴りが飛んだ。
脛ではない。硬い足裏の縁が、道潤の右ふくらはぎの外側を叩いた。痛みよりも、筋肉が一瞬で縮む感覚が先に来る。道潤は膝を抜いて距離を取った。砂が足首を離すのに、半拍かかった。
ンディアイはその半拍を見ていた。
次は太腿だった。道潤が腕を上げるより低く、右太腿の前へ短い蹴りが入る。大きな振りではない。点ではなく面で叩き、筋肉を鈍らせる。観客は派手な投げを待っていたらしく、一拍遅れてどよめいた。
道潤は歯を噛み、エミルの低い重心を思い出した。腰を落とし、膝を開き、相手の下へ潜る。油はない。触れれば今度こそ骨を取れる。右足を深く踏み、左手でンディアイの手首を探る。
ンディアイは上半身を渡さなかった。
道潤の指が空を切った瞬間、足首の内側を蹴られた。砂の中で右足が横へずれる。踏み直そうとした時には、ンディアイの肩が目の前ではなく脇にあった。ランブの低い入りは、エミルより荒い。だが荒さの中に、脚を崩す明確な順序があった。
ふくらはぎ。太腿。足首。もう一度、太腿。
上を狙わない。顔も肋骨も捨てている。道潤の右足から、地面に残る力だけを削っている。
『見るな。足裏だ』
恩彩の声ではなく、前に聞いた自分の理解が胸の中で鳴った。道潤はンディアイの肩ではなく、自分の足裏を感じようとした。砂がどこで沈み、どこで抜けるのか。右足に頼れば遅れる。なら、左へ重さを置いて右を軽くする。
一瞬、うまくいった。
ンディアイの低い蹴りが空を削り、道潤の右足は砂から早く抜けた。道潤は左へ回り込み、合気道の手首制圧へつなげる角度を見つけた。ンディアイの右手首が、ほんの一寸だけ前へ出る。
道潤は掴んだ。
骨があった。油ではない。滑らない。親指の付け根を押さえ、肘の逃げ口を塞ぐ。ここだ。腰を置き直せば、相手の低い姿勢ごと崩せる。
だが、ンディアイは手首を囮にしていた。
掴ませたまま、彼は自分の右足を道潤の右足の外側へ差し込んだ。砂を蹴り上げる音がした。道潤の右足は、抜いたばかりでまだ軽すぎた。軽い足は、踏ん張れない。
恩彩の声が飛ぶ。
「右、逃がして!」
道潤は逃がそうとした。だが足裏はもう砂へ戻っていた。戻った瞬間、湿った層に踵が食われる。抜く。遅れる。半拍。たったそれだけの遅れが、ンディアイの膝と腰に読まれていた。
ンディアイの左手が道潤の肩を押した。強くはない。押す方向が悪かった。上半身だけが外へ流れ、右膝が内側に残る。
次の瞬間、ンディアイの脛が道潤の右膝の内側へ入った。
蹴りではなかった。刈りでもない。砂に埋まった足を固定したまま、膝だけを内へひねる角度だった。
道潤の身体が、遅れて危険を理解した。
腰を落とせ。受け身に入れ。手首を離せ。いくつもの命令が同時に走った。どれも間に合わない。膝の内側で、これまで聞いたことのない細い音が鳴った。
ぱきり、ではなかった。
濡れた革を奥で擦り潰すような、低く、嫌な音だった。
波の音も、太鼓も、観客の声も一瞬消えた。道潤の耳には、その音だけが残った。軟骨が悲鳴を上げるような音。自分の身体から出たとは思えない、知らない音。
右膝から力が抜けた。
砂が視界の高さまで跳ね上がる。道潤は倒れまいとして左手を伸ばしたが、掴んでいたはずのンディアイの手首はもうなかった。目の端で、黒手袋の進行係のタブレットに赤い線が走る。
恩彩が縄を越えようとして、係に腕を止められた。
「まだ終わっていない」
進行係の声は、太鼓より冷たかった。
道潤は片膝を砂についた。右膝の内側に、熱ではなく空洞が広がっていく。ンディアイは一歩離れ、またその膝だけを見下ろした。次に来る足が、もう見えていた。
動け。
そう命じたのに、右足は砂の中で返事をしなかった。
崩れざる模倣者は闇の格闘巡礼で世界の達人技を喰らい尽くす
15話 砂に沈む進出保留判定
次の話