黒い手袋が窓の外で静止した瞬間、道潤は足裏の感覚を手放さなかった。
膝は痛んだ。右へ重さを移せば、内側から細い針が走る。それでも彼は治療台の端を掴まず、左足の親指と踵を床に沈めた。包帯を外したばかりの視界に、ガラスの暗い反射が映っている。
黒い四角。タブレットの縁。
「恩彩」
短く呼ぶと、カルテを閉じていた恩彩の目が窓へ向いた。彼女は一瞬で状況を読んだ。声を出さず、手書きカルテを胸の下へ伏せる。
外の影が下がった。
道潤は壁に肩を寄せ、右膝を伸ばさない角度で立ち上がった。走れない。踏み込めない。だから足音を殺す必要もなかった。痛みを中心に置かず、左足裏を先に置く。扉までは五歩。彼は一歩ごとに骨盤が逃げるのを抑え、取っ手へ手を掛けた。
廊下側の窓に、白衣の袖が映った。
道潤は扉を開けた。
「何を撮ってる」
廊下にいた医療スタッフは、白衣の上から黒い手袋をはめていた。昼間、テントで恩彩へ標準手続きを読み上げていた男の一人だった。男は一拍遅れてタブレットを胸へ抱え込もうとしたが、道潤の視線が画面へ届くほうが早かった。
そこには、恩彩の手書きカルテが拡大されていた。
「競技記録です」
男は同じ文をまた使った。だが声がわずかに浮いていた。
恩彩が道潤の背後から出た。
「医療行為中の無断撮影。患者情報の窃取。どの規定を読めば、それが競技記録になるの」
男は答えなかった。廊下の奥へ視線を投げる。仲間を探したのか、カメラの位置を確かめたのか。次の瞬間、彼は身をひるがえした。
「待て」
道潤は反射で追おうとした。右足が床を蹴る前に、膝の内側が沈んだ。恩彩の手が彼の肘を掴む。
「走らない」
その一言で、道潤は止まった。男は廊下を駆け、角を曲がる時に肩を壁へぶつけた。抱え損ねたタブレットが手から滑り、床へ落ちる。硬い音が廊下に跳ねた。
男は拾わなかった。
非常灯の赤い光の下で、白衣の背中だけが遠ざかり、外扉が乱暴に開いて閉まった。発電機の唸りが、何事もなかったように戻ってくる。
道潤は落ちたタブレットを見下ろした。
「罠かもしれない」
恩彩はそう言いながらも、すでに薄い手袋を取り出していた。自分の端末は使わず、タブレットの縁だけを持ち上げる。画面にはロックがかかっていなかった。逃げる前に閉じる余裕もなかったらしい。
道潤の名が、最上段に表示されていた。
『韓道潤。第三路後リハビリ観察。右膝内側損傷。復帰予測モデル更新中。』
その下に、数値の列があった。膝関節の予測可動域、腫脹増減、荷重可能時間、痛み申告と実反応の差。さらに、恩彩が紙へ書いた角度まで、ほとんど同じ数字で入力されている。
「見せて」
道潤が言うと、恩彩は画面を傾けた。彼女の指が止まったのは、表の中央だった。
『痛み適応時間』
『左足荷重偏位』
『視覚遮断時の均衡保持』
『他者動作想起による神経干渉』
道潤は喉の奥が冷えるのを感じた。
さっきの十秒が、もう項目になっていた。恩彩が数えもしなかった時間。彼が李偉の肘、エミルの腰、ンディアイの低い足を頭の中で捨てようとした、その揺れまで、誰かが言葉にして表へ押し込んでいた。
「映像だけじゃない」
恩彩の声は低かった。
「膝の壊れ方、戻り方、痛みに慣れるまでの時間。どの訓練でどれだけ反応が変わるか。全部、身体の弱点として整理してる」
道潤は画面を見つめた。試合映像を集めているだけなら、まだ分かる。勝敗を賭け、次の対戦者に情報を渡すためなら、悪質でも筋は通る。だがこの表は違った。
負け方ではなく、壊れた後の戻り方を欲しがっている。
「次の相手へ渡すためだけじゃないな」
「たぶんね。でも、これだけじゃ足りない。データを集めていることは分かる。何に使うか、誰へ流しているかまでは書いてない」
恩彩は画面を素早く送った。フォルダ名がいくつか並ぶ。第三路、下肢接触耐性。復帰保留者群。拒否反応記録。患者協力者影響。最後の一つに、恩彩の名が含まれていた。
彼女の指が止まる。
道潤は横顔を見た。左手首の白い傷跡が、袖の下でわずかに見えた。
「あなたの名前まで入ってる」
「私がどう止めるかも、材料にしてるってこと」
恩彩は感情を見せなかった。ただ、タブレットを下ろす動作が少しだけ硬かった。彼女は画面を自分の携帯で撮ろうとして、やめた。主催側の端末に触れた記録を残す危険を考えたのだろう。
「全部持っていけないのか」
「今は無理。通信が生きてる。下手に操作すれば、こっちの場所と端末が逆に抜かれる」
「なら、覚える」
道潤は画面へ目を落とした。盗む相手の動きではない。自分の弱点の表を、焼きつけるように読んだ。
『右足荷重開始、三・二秒遅延。視覚遮断時、初回三秒で崩れ。二回目十秒保持。痛み申告八、反応九・一相当。』
自分の身体を、自分以外の誰かが先に数字で持っている。
その事実は、ンディアイに膝をひねられた時より不快だった。
廊下の外で車のエンジン音が遠ざかった。恩彩はタブレットの電源を落とさず、画面を伏せてビニール袋へ入れた。
「ここにはもう置けない。明日、施設の管理者には機器故障で預ける。主催側に返すにしても、私の手を通した記録を残す」
「証拠にできるか」
「今のままなら弱い。盗撮した端末ひとつ。向こうは『紛失した個人端末』で逃げる。けど、同じ形式の原本がどこかにあるはず。そこまで行けば違う」
原本。
道潤はその言葉で、香港の管理棟に浮かんだ『モンゴル試験体セッション3』を思い出した。呉明植の名が、試合記録ではなく試験体として置かれていた画面。今回の表と、同じ匂いがした。
恩彩は処置室へ戻り、手早く片づけを始めた。使った包帯、冷却材、足裏の圧を確かめるための薄いマット。動きは正確だったが、いつもより一つ一つが短い。焦ってはいない。余分な感情を挟まないよう、自分で切り詰めているようだった。
道潤は治療台に座り直した。右膝は熱を持ち始めている。追わなくてよかった。そう思える程度には、痛みが現実的だった。
恩彩が、床に落ちていた彼の革のリストバンドを拾い上げた。
ダカールの砂と汗で汚れた古い革。呉明植が残し、道潤が巻き続けているもの。彼女は道具箱へ入れようとして、動きを止めた。
「……ここ」
道潤は顔を上げた。
恩彩はリストバンドの内側を親指でなぞっていた。革の一部分だけが、他より厚い。以前から分かっていた硬さだ。だが彼女の指は、ただ硬いものを触った時の反応ではなかった。境目を確かめるように、細く押している。
「縫い目が違う。補修じゃない。中に板状のものが入ってる」
「知ってる」
「開けたことは?」
道潤は首を横に振った。
恩彩の目がまっすぐ向いた。
「今の表と関係があるかもしれない。館長がこれを残したなら、記録装置か、鍵か、発信機か。少なくともただの革じゃない」
「館長は、先に開くなと言った」
「先に、でしょう。なら、いつならいいの」
その問いは正しかった。道潤にも分かっていた。これを開けば、呉明植の本当の記録に近づくかもしれない。黒手袋会がなぜここまで自分の身体を追うのか、その一部が分かるかもしれない。
恩彩の指が、厚い革の縁へ掛かった。
道潤はその手首を掴んだ。強くはなかった。ただ止めた。
「まだだ」
恩彩は眉を動かさず、彼を見た。
「理由は」
「館長が開くなと言ったものには、必ず開くべき時があるはずだ。今、焦って裂くなら、それは俺が知りたいだけだ」
「あなたは知る必要がある」
「知るために、館長の言葉を壊す必要があるとは限らない」
恩彩は数秒黙った。廊下の奥で、古い蛍光灯が一度だけ鳴った。彼女の手の中の革は、ただの汚れた装具に見えた。けれど道潤には、その内側の硬い部分が、ずっと以前から眠らずに待っているもののように思えた。
「なら、持っていて」
恩彩はリストバンドを返そうとした。
その瞬間だった。
革の内側が、掌を通して低く、短く震えた。
道潤の指が固まった。恩彩も動かなかった。機械音はない。光もない。ただ一度、心臓とは違う拍子で、革の奥が脈を打った。
二人は同時にリストバンドを見下ろした。
何も言えなかった。だが道潤には分かった。今の震えは、警告ではなかった。
どこかで、こちらの沈黙を待っていた扉が、内側から叩かれた音だった。
崩れざる模倣者は闇の格闘巡礼で世界の達人技を喰らい尽くす
18話 道潤だけの小さな一歩
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