道潤はその場でバッグを開けなかった。空港の医務室で呉明植の唇が動いたように見えた、その曖昧な一瞬が胸に残っていたからだ。通訳と医師に短く頭を下げ、追加検査の連絡を受ける番号だけ残すと、古びた黒いバッグを両腕で抱えたまま春川へ戻った。
夜明け前の名声合気道場は、いつもより広かった。玄関の戸を開けると、畳に染みついた汗と消毒液の匂いが薄く立ち上がった。昨日までなら、奥の事務室から呉の低い咳払いが聞こえた。今日は何もない。道潤は照明をつけ、事務机の上にバッグを置いた。
「先輩」
背後で声がした。振り返ると、道場の後輩のミンジュンがジャージ姿で立っていた。彼は朝稽古の準備に来たらしく、手には雑巾と鍵束を持っている。道潤の顔とバッグの血の跡を見て、言葉を失った。
「館長は」
「病院だ。まだ意識はない」
ミンジュンの喉が鳴った。彼は何かを聞こうとして、机の上のバッグへ視線を落とした。角の擦り切れた革、乾いた泥、持ち手に残る薄い赤黒さ。道場で何度も見たはずのものが、その夜だけ別の物体に見えた。
道潤は椅子に座らず、立ったままファスナーへ指をかけた。空港では止めた指だった。今も、開けるなという声がどこかで鳴っている。だが黒いスーツの男の手首にあった十二個の鉄環と、隙間から覗いた硬い紙の紋章が、同じ強さで開けろと迫っていた。
ゆっくり引くと、ファスナーの歯が乾いた音を立てた。
最初に出てきたのは、革のリストバンドだった。黒ずんだ茶色で、ところどころに砂が噛んでいる。外側には汗と土が染み込み、内側にはモンゴルの乾いた土らしい赤茶けた粉がこびりついていた。呉がよく稽古の時につけていたものではない。遠征前、道場を出る時にも見なかった。
次に、分厚い封筒が出てきた。紙質は硬く、指先にざらりとした繊維が当たる。封蝋の代わりに、黒い金属粉を混ぜたような印が押されていた。十二個の鉄環が精巧に噛み合い、一つの円を作っている。
空港の男の手首と同じ紋章だった。
ミンジュンが小さく息を呑んだ。
「これ、何かの印ですか」
「空港の医務室で、館長のバッグを奪おうとした男がいた。その男の手首にも、これと同じものがあった」
道潤が低く答えると、ミンジュンは青ざめた顔で一歩引いた。
道潤は封を切った。中には厚い招待状が一枚、折り畳まれた地図の切れ端が一枚入っていた。招待状の表には、韓国語でも英語でもない文字が細く並び、その下に簡潔な日本語と漢字混じりの表記が添えられている。
非公開格闘巡礼。
鉄環十二路(てっかんじゅうにろ)。
呉明植殿。
第一路、香港・油麻地(ヤウマテイ)港湾倉庫。
指定日時、四月十八日、二十三時四十分。
道潤は文字を追うたびに、胸の中の何かが固まっていくのを感じた。格闘巡礼。非公開。第一路。試合の案内にしては、あまりにも儀式めいている。だが冗談や詐欺なら、呉が血まみれで戻るはずがない。
「館長が、これに出ようとしていたんですか」
ミンジュンの声は震えていた。
道潤は答えなかった。地図の切れ端を広げる。香港の港湾区域らしい線が乱雑に印刷され、いくつかの倉庫番号が黒く塗り潰されていた。残された数字と赤い点だけが、暗号のように浮いている。赤い点の横には小さく「一」とだけ書かれていた。
「これ、住所じゃないですね」
「座標だ」
道潤は携帯で地図を開き、数字を打ち込んだ。画面に港の一角が表示される。油麻地の倉庫街。夜中に格闘の試合をするには、人目が少なすぎ、逃げ道が多すぎる場所だった。
ミンジュンが机の端に手をついた。
「警察に出しましょう。空港の男も、この招待状も、普通じゃありません」
「出す」
道潤は短く言った。だがその言葉が、自分でも薄く聞こえた。警察に出す。病院に任せる。道場で待つ。それが正しいはずだった。呉なら、勝手に動くなと言うかもしれない。けれど黒いスーツの男はすでに呉のバッグを奪いに来た。警察に渡す前に、次は病室へ来るかもしれない。
道潤はリストバンドを手に取った。革は古く、表面は柔らかい。だが内側の一部だけが妙に硬かった。指先で押すと、薄い板のような感触があった。縫い目はそこだけわずかに盛り上がり、革の厚みが不自然に変わっている。
「先輩、そこ」
ミンジュンが身を乗り出した。
「何か入ってませんか。普通の芯じゃないです。ここだけ、分厚い」
「わかってる」
道潤はさらに押した。硬い部分は曲がらない。金属ともプラスチックともつかない、冷たい抵抗が返ってきた。頭の奥で、どこか見覚えのある感覚が引っかかった。道場の押し入れで、呉が古い受け身用の保護具を修理していた時。あるいは、遠征前に机の引き出しを閉める音。記憶の断片は浮かぶのに、形にならない。
「裂いてみますか」
ミンジュンが言った。
「カッターなら受付にあります。中に発信機とか、証拠とか……」
道潤の親指が縫い目の上で止まった。ここを切れば、何かがわかる。呉が何を握って戻ってきたのか、黒いスーツの男がなぜこれを奪いに来たのか、答えの一部くらいは見えるかもしれない。
だが、刃を入れる想像をした瞬間、担架の上の呉の青い唇がよみがえった。
開けるな。
実際に聞こえたわけではない。呉はまだ意識不明だ。けれど道潤には、その言葉だけがやけにはっきりした輪郭で胸に残っていた。館長が許していないものを、先に開いてはいけない。理由は説明できない。理屈でもない。それでも、畳の上で何千回も投げられてきた身体が、その直感を疑わなかった。
「切らない」
「でも」
「館長がこれを離さなかった。離さなかったものを、俺が先に壊すわけにはいかない」
ミンジュンは口を閉じた。納得した顔ではなかったが、反論もできない様子だった。事務室の空気が重く沈む。時計の秒針だけが、いやに大きく聞こえた。
その時、固定電話が鳴った。
古いベルの音が事務室を裂いた。道潤もミンジュンも動かなかった。一度、二度、三度。道場に朝の電話が来ることはある。稽古の問い合わせ、保護者からの欠席連絡。だがこの時間、この音は違った。招待状の黒い紋章が、机の上でこちらを見ている気がした。
道潤は受話器を取った。
「名声合気道場です」
数秒、何も聞こえなかった。次に、砂を噛んだような雑音が流れ、男とも女ともつかない声が現れた。電子的に変えられている。近いのに遠く、耳の奥だけを冷たく撫でる声だった。
「呉明植は出られない」
道潤の手に力が入った。ミンジュンが目を見開く。
「誰だ」
「代わりに立つ者がいるなら、革環をつけろ。招待は失効しない」
「館長に何をした」
道潤の声は低くなった。受話器の向こうで、短い笑いのようなノイズが跳ねた。
「呉明植は自分の足で門を叩いた。戻れたのは、彼がまだ壊れなかったからだ」
「答えろ。誰がやった」
「第一路。油麻地。指定時刻までに来い。遅れれば、呉明植の席は永久に閉じる」
「待て」
「革環をつけた瞬間から、君は観測される」
その一文だけ、声の加工がわずかに薄れた気がした。道潤の背筋に冷たいものが走る。観測。試合でも、招待でもなく、観測。単語の選び方が、闘う者のものではなかった。
「来なければ」
声は続けた。
「次に回収されるのは、バッグではない」
通話は切れた。
道潤は受話器を耳に当てたまま立っていた。ツー、ツーという無機質な音が事務室に漏れる。ミンジュンが震える手で携帯を取り出し、今の番号を確認しようとしたが、固定電話の表示は非通知のままだった。
「先輩、だめです。今のは脅しです。行ったら、向こうの思う通りに」
「わかってる」
「わかってるなら!」
道潤は受話器を置いた。胸の中で、恐怖と怒りが同時に噴き上がっていた。呉が倒れた姿。黒いスーツの男の無表情な目。招待状に押された鉄環。すべてが一本の線になり、道潤の背中を押してくる。
行けば罠だ。行かなければ呉の残したものは閉じる。警察に渡して待てば、誰かが守ってくれる保証もない。道潤は自分の手首を見下ろした。まだ何も巻かれていないそこが、急にひどく軽く感じられた。
彼はリストバンドを拾い上げた。ミンジュンが止めようと腕を伸ばしたが、道潤は静かに首を振った。
「道場を頼む。病院にも連絡を続けろ」
「先輩は、何をするんですか」
道潤は答えの代わりに、革を左手首へ巻いた。硬い部分が脈の上に当たる。留め具を通した瞬間、内側で小さく何かが噛み合う音がした。
同時に、机の上に置いていた道潤の携帯電話が震えた。画面には差出人不明のメッセージが開いている。
香港行き貨物船、仁川港北埠頭。
出航まで、十五時間五十九分。
数字が一秒減った。
崩れざる模倣者は闇の格闘巡礼で世界の達人技を喰らい尽くす
4話 香港へ向かう貨物船
次の話