顎の下から突き上げられた衝撃で、道潤の意識は白く裂けた。床も天井も消え、首の後ろへ走る火と、舌の奥に広がる鉄の味だけが残った。
落ちている。
そう理解した時には、身体は勝手に動いていた。顎を引け。床を見るな。怖いものを見ようとすると、首から落ちる。春川の畳で何千回も聞いた呉明植の声が、怒りで焼けた神経の底から浮き上がる。
道潤は肩を丸めた。背中を固めず、左手を湿ったコンクリートへ流す。頭を守り、腰を逃がし、衝撃を一点で受けない。ばしん、と手のひらが鳴った。身体は床に潰れず、斜めに転がった。
観客の歓声が遅れて膨らむ。顎の痛みは消えない。目の奥で火花が散る。それでも首は折れていない。背骨は生きている。足裏はまだ床を探していた。
『倒れる力は、返せる』
それもまた、呉に転がされながら身体へ染みた感覚だった。投げられた時、ただ逃げるな。落ちる線を読め。読んだ線の終わりに、次の中心を置け。
道潤は半回転の途中で右膝を腹の下へ引いた。立つためではない。李偉へ向かうためでもない。床に落ちる自分の重さを、反対側へ押し返すためだった。
李偉が追撃の一歩を踏んだ。小さい歩幅。音のない足裏。道潤はそれを見て盗もうとはしなかった。見たものを写す時間などない。ただ、転がる自分の踵がそこへ届くことだけを感じた。
道潤の右足首が、李偉の左足首の外側を引っかけた。
「……っ」
初めて、李偉の息が乱れた。細い身体が前へ泳ぐ。彼はすぐ腰を抜き、詠春拳の近距離で姿勢を戻そうとした。手首が道潤の腕に触れる。接触を変え、力の出口を消すための手だった。
道潤はその感触を追わなかった。手首の角度を盗むな。肩の抜け方を真似るな。頭の中で、パクのジャブ、李偉の肘の短さ、鼻を貫いた手首の折れが光った。全部使えば遅れる。全部混ぜれば壊れる。
道潤はそれらを捨てた。
残したのは、呉明植が何度も畳を叩きながら示した中心移動だけだった。自分の腰を先に置く。相手の腕を折りに行かない。倒れる道を塞ぐ。
李偉の手首が触れた瞬間、道潤は親指の付け根を押さえた。力ではない。押す位置を一寸低くし、肘の逃げ口を自分の胸の前へ閉じる。肩は上げない。顎は引いたまま。足首を引っかけた右脚が支点になり、床から返った重さが腕へ上がる。
李偉の肘が、止まった。
倉庫の音が一瞬だけ薄くなった。観客の野次も、カメラの小さな駆動音も、遠くへ退いた。李偉の顔から、穏やかな観察の色が消えていた。
彼はすぐに身体をひねった。肩を抜き、手首の痛みの線から逃げる。さっきまでなら、それだけで道潤の制圧は空振りしたはずだった。だが道潤は追わない。腕を追えば、また李偉の線に乗せられる。追うべきは自分の中心だった。
右足裏が滑った。顎の衝撃で首が重い。鼻血が唇から顎へ垂れ、息がうまく入らない。李偉が腰を切るたび、道潤の指は外れかけた。
『耐えろ。勝つためじゃない』
道潤は奥歯を噛んだ。
『崩れないために』
床へ落ちた背中の痛みを、支えに変えた。半身のまま腰を小さくずらし、李偉の肘を自分の腹の前へ抱え込む。相手の関節を壊す角度ではない。動けば自分の重さで動けなくなる角度。呉が子ども相手にも絶対に外さなかった、優しいが逃げ場のない線だった。
李偉の膝が床に触れた。
その音は小さかった。だが倉庫全体がそれを聞いたように静まった。判定員が一歩近づく。黒手袋の進行係がタブレットへ視線を落とす。コンテナ上のカメラが、今度は李偉の表情を拾おうと角度を変えた。
李偉はなおも抜けようとした。指先を開き、肘を回し、肩を内側へ沈める。詠春拳の粘る接触が、道潤の手の中で何度も形を変えた。
道潤はそのたびに新しい技を出さなかった。ただ腰を一寸ずつ移した。足裏から腹へ、腹から肩へ。自分の重さを置き直すだけで、李偉の肘の出口がまた消える。
「君は……」
李偉が低く言いかけた。
道潤は答えなかった。答える余裕もなかった。意識の端が暗く、顎の奥で痛みが脈打つ。ここで一度でも怒りに戻れば、指の力が増し、線が壊れる。相手を壊す手になれば、李偉は抜ける。カメラはそれを待っている。
道潤は短く息を吐いた。喉に血の味が絡む。それでも吐き切った分だけ、腰が床へ沈んだ。李偉の肩が止まり、手首の動きが止まり、最後に抵抗の呼吸だけが残った。
判定員が手を上げた。
「第一路、勝者。韓道潤」
遅れて歓声が爆発した。罵声と拍手と金の動く叫びが混ざり、倉庫の鉄骨を震わせる。道潤はすぐに手を離さなかった。判定員の視線を確認し、李偉が抵抗を解いたのを感じてから、ゆっくり指をほどいた。
李偉は床に片膝をついたまま、自分の手首を見ていた。皮膚は赤くなっているが、壊れてはいない。彼はそれを確かめるように指を握り、道潤へ視線を上げた。
「最後だけ、違った」
静かな声だった。挑発も測定の色も薄れていた。
道潤は片手を床につき、どうにか身体を起こした。世界がまだ斜めに揺れている。勝った実感はなかった。顎に残る痛みと、受け身で擦った背中の熱だけがある。
「館長を倒したのは、お前か」
問いは、さっきより低く出た。喉を掴むための声ではなかった。
李偉は首を横に振った。
「違う。私は接触しただけだ。君の師は、私の前で倒れていない」
「なら、誰だ」
李偉は立ち上がろうとして、一度だけ肘を押さえた。顔をしかめはしない。ただ、敗北を認める者の静けさで道潤を見た。
「君が探している者は、ここにはいない」
その一言は、勝者宣告より重く落ちた。
道潤は追って聞こうとした。だが黒手袋の進行係が間に入るように歩いてきた。表情のない男は李偉を下がらせ、道潤へ小さなカードを差し出す。そこには次の案内はまだなく、ただ第一路通過を示す鉄環の印だけが押されていた。
「処置室へ」
進行係の声は事務的だった。道潤はカードを受け取ったが、足は動かなかった。倉庫の片隅で、別の進行係がタブレットを叩く音が聞こえたからだ。乾いた連打音。試合の熱とは違う、机の上で数字を整える音。
道潤は血のにじむ視界をそちらへ向けた。黒手袋の指が画面を滑り、選手名の一覧を開く。そこに、韓道潤の名があった。横には短い評価欄が増えている。
『不安定だが収集価値あり』
胸の奥が冷えた。
勝ったはずだった。呉が叩き込んだ受け身で、怒りの底から戻ってきたはずだった。だが彼らにとっては、倒れ方も、戻り方も、足首を引っかけた一手でさえ、次に売るための材料でしかない。
進行係は道潤の視線に気づき、無造作に画面を伏せた。その動きで、道潤は理解した。第一路は終わっていない。勝者が決まっただけで、観測は続いている。
倉庫の出口へ向かう足は重かった。観客の騒ぎは背後に残り、夜の港の湿った風が血の匂いを薄める。道潤は手首の革環を押さえた。硬い内側は沈黙している。それでも、李偉の声だけが耳の奥で消えなかった。
『君が探している者は、ここにはいない』
では、どこにいるのか。誰が呉明植をあの姿にしたのか。道潤が振り返ると、半分消えた倉庫の灯りの中で、伏せられたタブレットの画面が一瞬だけまた光った。
そこには彼の評価の下に、まだ入力途中の空欄があった。
『次経路候補――』
黒手袋の指が、その先へ新しい地名を打ち込もうとしていた。
崩れざる模倣者は闇の格闘巡礼で世界の達人技を喰らい尽くす
9話 次の港へ向かう出場権
次の話