外扉が閉じると、ラオンの声は通信帯の奥へ沈み、代わりにローバーの駆動音が狭い車内を満たした。
アレス、ゼロスリー。
イソは胸ポケットの内側で折った透明フィルムの感触を確かめた。生態実験という四文字と、今聞いた末尾名が、補給路の地図の上に重なって離れない。だが外はもう火星だった。考えを深く沈めすぎれば、次の岩を踏み外す。
通信機から指揮部の声が短く響いた。
「通信同期、入っているか」
助手席のテソクが胸の記録器を確認した。赤い灯が規則正しく瞬き、指揮部へ彼らの呼吸まで送り返しているようだった。
「入っています。映像、音声、位置情報、全部リアルタイムです」
返事は指揮部に向けたものだった。イソへ向けた言葉ではない。彼は視線を前方の窓から動かさず、命令の線をローバーの中まで引いていた。
ミンジェは運転席で左手だけを使い、慎重に車体をクレーターの斜面へ滑らせた。前方軸は応急補強されたばかりで、低速でも足元から嫌な振動が上がる。包帯を巻いた右手は胸の固定帯に吊られ、指先だけがかすかに動いていた。
「前、段差。左へ二十センチ」
イソが地形端末を見ながら告げると、ミンジェは短く「了解」と返し、車体を傾けた。車輪が黒い玄武岩を噛み、赤い砂が窓へ細く跳ねた。背後ではハリンが低温サンプル容器の固定を確認し、医療箱の留め具を一つずつ押していた。
予定地まで七百キロ以上ある。今日の任務はそこへ到達することではない。ダソムが避けた道の入口に触れ、補給主群へ大人数を向かわせてよいかを確かめることだった。それでも、居住膜が見えなくなる瞬間、イソの胃の奥は冷たく縮んだ。三百六十八名の温度と酸素が、背後の薄い膜一枚に残されている。
「斜面下部、砂流が深い。迂回します」
ミンジェが言った。
「待って。経路を重ねる」
イソはダソムの航路断片とローバー用の地形図を同じ画面へ呼び出した。通信遅延で粗い砂嵐予測が上書きされ、赤い帯がちらつく。その中に、細く青い線が一本走っていた。夜明け号が最後に選んだ着陸軌跡から、予定地方面へ延びる自然の低地だった。
彼女は指で拡大した。クレーター斜面の亀裂、古い溶岩流のへこみ、風で削られた岩稜。その隙間をつなぐと、砂嵐の圧力が周囲より低い回廊になる。偶然に使える道ではない。大気密度、地形遮蔽、車輪沈下率を同時に読まなければ、線として見えない道だった。
「ミンジェ、今の迂回候補を右側へ三度。ダソムの残した線と一致します」
「またあいつの道ですか」
「ローバーが沈みにくい。風も弱い。人間が使える回廊を選んでいる」
ハリンが顔を上げた。
「着陸座標だけじゃない、ということ?」
イソはうなずいた。
「この移動経路も計算されています。予定地へ行くなら、ここを通るしかない。ダソムは落ちる場所だけでなく、落ちた後に動ける道まで見ていた」
テソクの記録器の赤い灯が一度強く光った。彼はすぐに報告を入れた。
「指揮部、探索隊より。ハン・イソが自律航法AIの経路計算を現行進路に反映。現時点で予定外進路変更なし。理由は地形遮蔽と砂嵐回避」
言葉は正確だった。だがそこからは、ダソムが人間の生存を計算していた痕跡への驚きが抜かれていた。イソは反論しなかった。今は記録器と喧嘩する時間ではない。
ローバーは青い回廊へ入った。左右の岩壁は高くないが、横から吹きつける砂を削り、車体の揺れがわずかに減る。外部マイクに当たる風音も一段低くなった。ミンジェが息を吐く。
「ここなら走れます。前方軸、もう少し持つ」
その言葉が終わらないうちに、足元で硬い音がした。車体が前へ沈み、警告灯が黄色へ変わる。ミンジェは即座に停止し、左手でブレーキを固定した。
「軸が鳴った。降ります」
「外気温」
ハリンが端末を見た。
「マイナス五十四。予測より高い。風速も低い。作業時間は七分までなら許容」
テソクが眉を動かした。
「予定外停止を報告します。理由は車体異常。作業者はク・ミンジェ。監視継続」
ミンジェは返事をせず、外へ出た。イソも補助灯を持って続く。ヘルメット越しの世界は赤く薄く、地平は砂でぼやけていた。だが荒れ狂うはずの午後の風は、岩の低い壁に裂かれて弱い。ダソムの線が、ここでも彼らを守っている。
ローバーの前方下部を覗くと、補強板の一枚が斜めに浮いていた。着陸衝撃で歪んだ前方軸が、斜面のねじれに耐えきれず、固定ボルトを噛み砕きかけている。
「帰れなくなる?」
イソが聞いた。
「今すぐなら帰れます。でも予定地手前まで行って戻るなら、ここで締め直さないと途中で終わる」
ミンジェは左手で工具を取り、膝で補強板を押さえた。右手を使えないぶん、動きは荒く見えたが、力のかけ方は正確だった。イソはライトを当て、沈む砂を靴でならした。
「右手は使わないで」
「使ったらハリン先生に縫われます」
外部通信にハリンの声が割り込んだ。
「縫う前に固定具を外す。減らず口は車内に戻ってから」
ミンジェが低く笑い、最後の圧着バンドを締めた。作業時間は六分四十秒。ハリンが車内から放射線値と大気圧の変化を読み上げる。
「放射線、予測値の半分以下。太陽風の遮蔽が効きすぎている。大気層も乱れていない。今日の砂嵐条件なら、もっと揺れるはず」
「機器の異常は?」
「二系統で同じ。記録に残す」
イソは顔を上げた。薄い空は赤茶色で、穏やかとは呼べない。それでも数値上は奇妙な安定を示している。着陸前の予測では、この一帯はもっと荒れていた。ダソムが最初からこの回廊を知っていたのなら、予定地の危険だけでなく、ここが緩衝になることも計算していたのかもしれない。
車内へ戻ると、テソクはすでに報告を終えていた。
「指揮部より確認。任務時間残り九時間四十一分。補給コンテナ主群への接近は禁止継続。地下反応上昇時は撤退」
「反応は」
イソが尋ねると、ハリンが地下探査の簡易画面を開いた。
「今のところ熱反応は低い。ただし背景値が低すぎる。普通はもう少しばらつく」
「低すぎる?」
「生き物の反応というより、周囲が静かすぎる。放射線も大気も、誰かが実験室の条件を整えたみたいに安定している」
実験室。その単語に、イソの胸ポケットが重くなった。生態実験。アレス、ゼロスリー。彼女はまだそれを口にしなかった。テソクの記録器がある。確証のない言葉は、指揮部で別の形に変えられる。
ローバーは再び走り出した。砂の回廊は夕方に近づくにつれて深くなり、車窓の影が長く伸びた。太陽は低く、岩の縁を銅色に焼いている。補給ビーコンの青い点はまだ遠いが、地下レーダーの深度表示が少しずつ鮮明になっていった。
最初に異変を捉えたのは、ミンジェの整備端末だった。
「下部レーダー、反射が変です」
「補給コンテナ?」
テソクが即座に身を乗り出す。
「違う。コンテナなら点で返る。これは……線です」
ミンジェが画面を中央に送った。砂の下、深度六メートルから九メートルにかけて、細い反射がまっすぐ伸びている。一本ではない。平行な線がいくつもあり、それを直角に横切る線が一定間隔で重なっていた。
イソは一瞬、呼吸を忘れた。
自然の岩盤なら、こんな格子にはならない。溶岩流なら曲がる。亀裂なら乱れる。これは、誰かが直線を引き、同じ幅で区切り、砂の下へ沈めたものだった。
ハリンが低く言った。
「金属反射ですか」
「合金か、被覆材か。少なくとも岩じゃない」
ミンジェは画面を拡大した。格子の端はレーダー範囲の外へ続き、ローバーの下だけで終わっていない。補給コンテナを探しに来た彼らの足元に、地図にない巨大な構造物が横たわっていた。
テソクの記録器が赤く点滅を速めた。
「指揮部へ。予定経路下に未登録反射体。形状は直線格子状。大きさ不明。探索隊は現在停止中」
返答を待つ数秒が、異様に長かった。イソは胸ポケットのフィルムを握りしめた。生態実験という文字が、砂の下の格子とつながっていく。
ミンジェが拡大画面から目を離さず、低くつぶやいた。
「誰かが埋めたものだ」
その瞬間、レーダー画面の格子の一部が淡く点滅した。電源の残滓ではない。規則正しい、応答のような光だった。
帰る船を燃やした朝、火星に憲章が生まれた
14話 アレス生態モジュール03
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