封印されたはずの地図が、彼女の記憶の中でまた点滅した。
イソは作業台の端をつかみ、セユンの図面から目を上げた。すぐに答えれば、配給列の向こうにいる誰かを一日だけ長く立たせられるかもしれない。だが、線一本を見落とせば、まだ名前もつけていない地下の何かを永久に変えてしまう。
「ラオン」
イソは短く呼んだ。
通信盤の前にいたラオンが顔を上げた。目は赤く、指はすでに端末の上を走っている。
「封印前のコピー、残っています。完全版ではありません。配給表に偽装した時の縮小データと、ダソムの三秒表示分だけです」
「十分。セユンさんの洞窟候補地と重ねて」
ドヒョンの眉が動いた。
「封印済みの生命反応データを再表示するつもりか」
「座標照合です。解釈ではありません」
「君の解釈で人が飢える」
イソは返事をしなかった。ラオンが作業台横の補助画面へ、二つの地図を並べた。左にはカン・セユンが示した地質班の初期図面。右にはアレス03長期観測系列から抜き出された生体反応マップ。赤い点と線は低解像度で、ところどころ欠けている。それでも、設計者の目に必要な情報は残っていた。
「縮尺補正、入れます。洞窟入口座標を基準。ダソム表示の火星測地系へ変換……誤差、最大二十七メートル」
ラオンの声が少し低くなった。
二枚の地図が重なった。
食品工程区画にいた者たちが、同時に息を止めた。セユンの指した洞窟入口は、赤い脈の端ではなかった。濃い線の上に、ほとんど釘のように刺さっていた。そこから地下へ伸びる空洞線は、地下塩水層から最も強い信号が上がってくる亀裂構造へ、まっすぐ降りている。
「これは……」
セユンが言葉を失った。彼の案は嘘ではない。温度も湿度も距離も、食用菌株には都合がいい。だがその都合のよさは、火星の地下が熱と水分を上げてくる裂け目と同じ意味だった。
ハリンが画面へ近づいた。白い医療ベストの胸元には、まだサンプル容器の固定具の跡が薄く残っている。
「洞窟の奥へ入れば、地球由来の菌糸がこの亀裂へ落ちる可能性があります。胞子でなくても、細胞片でも代謝物でも、排水の微粒子でも」
「完全密閉すればいい」
ドヒョンは即座に言った。
ハリンは彼を見た。
「完全という言葉は、現場では使いません。とくに今の資材と人員では」
「では、汚染を理由に食料を諦めるのか」
「諦めろとは言っていません。焼くなと言っています」
その単語で、イソの背筋が硬くなった。ドヒョンが指揮端末を開いたからだ。
「ベルを呼べ」
警備員の一人が通信を入れる。数十秒後、灰色の防護服の肩を赤い砂で汚したマーシャ・ベルが食品工程区画に入ってきた。工具ベルトから細い切断器がのぞき、彼女は画面を一目見て眉をわずかに動かした。
「状況は」
ドヒョンが短く告げた。
「洞窟入口を菌糸農場に転用する。内部を完全密閉し、熱処理で無菌化する。必要な装置を出せ」
ベルはすぐには返事をしなかった。技術者として、命令の輪郭ではなく、その重さを測っていた。
「熱封印装置なら使えます。船体外壁の生物汚染を焼くための可搬ユニットです。ただし本来は表面処理用。洞窟内部なら複数回走査が必要です」
「可能か」
「可能です。ただ、電力を食います。ローバー一台をほぼ専有します。予熱、搬送、密閉膜展開、熱循環。戻りの余裕は薄い」
「必要資材を出せ」
ミンジェが画面から顔を上げた。
「待ってください。熱封印装置を洞窟まで運ぶなら、ローバーのバッテリーは片道と作業でほぼ空です。予備セルを積んでも、帰りは低速。途中で砂嵐が来たら押して帰れません」
「砂嵐予測は」
「ダソムがない。今の地形補正だけじゃ読めないです」
ドヒョンの目が細くなる。
「では、何もしないのか」
「そうは言ってません。洞窟の外側で、入口を閉じて、もっと小さい区画から始める方法を探すべきです。装置をいきなり奥まで入れたら、バッテリーも、人員も、逃げ道もなくなります」
ミンジェの声は荒くなかった。現場の危険を、見えた順に置いているだけだった。だからこそ重い。
セユンが図面を握りしめた。
「熱処理で洞窟を無菌化できるなら、菌糸の汚染リスクも減ります。地球菌糸を入れる前に、全部焼く。農業的には一番わかりやすいです」
ハリンがすぐに首を振った。
「焼く対象を間違えています。地球側の菌を減らすために、火星側の亀裂まで熱を入れるんですか。地下塩水層に熱衝撃が伝われば、反応の周期が変わるかもしれない。変わるだけならまだいい。地球の有機物と熱を同時に押し込めば、何が増えるかも、何が死ぬかもわかりません」
「わからないもののために、わわかっている飢えを放置するのか」
ドヒョンの声が低く落ちた。
ハリンは一歩も引かなかった。
「わからないから、不可逆な処理をするなと言っています。地球の菌糸が火星地下へ微量でも漏れれば、生態系を取り返しのつかない形で変える可能性があります。私たちが食べるために、先にいるかもしれないものを培地にしてはいけません」
「先にいるかもしれない」
ドヒョンはその言葉を鋭く拾った。
「確定ではない。生物と断定もできない。だが飢えは確定している。配給表はもう確定している。患者も、整備班も、子どもも、十日後には数字ではなく倒れる」
イソは画面を見た。赤い亀裂と、配給在庫の残量表示が、別々の窓に同時に開いている。どちらも嘘ではない。どちらも、選ばなければ誰かを壊す。
「指揮官、少なくとも総会へ」
「総会で何を決める」
ドヒョンが遮った。
「菌糸の代謝経路か。地下塩水層の生命定義か。ローバーのバッテリー計算か。飢えた三百六十八名に、専門家が今ここで決められない不確実性を投げるのか」
「決める材料を共有する必要があります」
「共有している間に、食料は増えない」
彼は作業台に指揮端末を置いた。画面には熱封印装置の起動手順が開いている。承認枠は赤く、指揮官権限の生体認証を待っていた。
イソは一歩前に出た。
「洞窟はただの空間ではありません。ダソムが避けた反応域へつながる通路です。ここを熱処理するなら、私たちは飢えを理由に、地下へ最初の攻撃をすることになります」
「攻撃ではない。生存措置だ」
「言い換えでは変わりません」
ドヒョンの顎が硬く動いた。彼の目には、外縁膜の夜と、配給列と、黒く落ちた培養肉が全部重なっているように見えた。イソにもそれはわかった。彼は火星を憎んでいるのではない。失敗を、飢えを、統制不能を恐れている。そして恐怖の形が、いつも命令になる。
「飢え死にしたあとで環境を論じるのは、順序が違う」
ドヒョンはそう言い、承認パネルに手を置いた。
《指揮官承認》
《熱封印装置、搬出準備》
《対象候補:クレーター下洞窟入口一帯》
赤い文字が白い壁へ反射した。ベルは短く息を吐き、工具端末を操作した。
「技術班、格納庫三へ。可搬熱封印ユニットをローバー二号へ固定。密閉膜、予備電源、熱循環ダクトを積む。作業ログは全部残します」
最後の一文だけ、彼女はイソの方を見ずに言った。
食品工程区画の空気が動いた。命令が出ると、人は動けてしまう。迷っていた整備班が走り、農業班が空の培養容器を確認し、警備員が通路を開ける。セユンは唇を噛みながら図面を丸めた。彼の案は採用された。だが、彼が望んだ形ではなかった。
ハリンは画面の赤い亀裂を見つめていた。
「熱処理ログだけでは足りません。サンプル容器の温度周期、アレス03の観測系列、洞窟座標を同時に公開してください」
「今は搬出が先だ」
ドヒョンが言った。
「いいえ。今止めなければ、次は検証ではなく、事後報告になります」
イソはハリンの言葉を聞きながら、ラオンへ目を向けた。ラオンは小さくうなずき、重ね合わせた地図のコピーを別領域へ保存した。指揮部サーバーではない。配給表の端でもない。まだ閉じられていない、住民端末の近距離同期領域だった。
「ラオン、消えない形で残して」
「了解。低解像度ですが、座標一致は読めます」
ドヒョンはそのやり取りを聞いていたが、止めなかった。今の彼にとって、データの小さな漏れより、装置の出発の方が優先だった。
格納庫三へ向かう通路に、黄色い警告灯が点いた。イソたちが移動すると、ローバー二号の荷台に黒い円筒形の装置が固定されていくところだった。外壁焼却用に設計された熱封印ユニットは、人の背丈より高く、前面に厚い遮熱板を持っていた。まるで小さな炉を車輪に載せたようだった。
ミンジェが固定具を確認し、低く悪態を飲み込んだ。
「この重さで坂を下りるのか」
ベルが答える。
「下りる。問題は戻り」
「戻らない前提で組むなよ」
「戻すために、あなたが見る」
短いやり取りのあと、ミンジェは工具を握り直した。反対しても、固定が甘ければ死人が出る。彼はそういう場所では手を抜けない。
ローバーの下部バッテリー表示は、装置への接続と同時に一段落ちた。青い残量バーが短くなる。その色の変化を見たイソは、配給表の赤線を思い出した。どの数字も、別の命を少しずつ削って道を作っている。
格納庫の外扉が開き始めた。赤い砂が細い霧のように流れ込み、床の黄色い誘導線を覆う。遠く、クレーター下の洞窟方向は、外部カメラの中で黒い裂け目として映っていた。その奥に、地図の赤い脈が重なって見える気がした。
《ローバー二号、搬出準備完了》
《熱封印装置、予熱待機》
《洞窟入口到達予測、四十一分》
ドヒョンは格納庫の中央で、腕を組んで立っていた。ハリンは医療ケースを抱えたまま、扉の光を見ている。ラオンの端末には、重ね合わせ地図の転送率が静かに上がっていた。
ローバー二号が低く唸り、ゆっくり前へ動き出した。
イソはその後ろ姿を見つめた。今、止められなかったのではない。もっと悪い。今、始まってしまったのだ。
そして装置の予熱ランプが、洞窟へ向かう前から赤く灯った。
帰る船を燃やした朝、火星に憲章が生まれた
24話 黄色い線の向こうの飢え
次の話