通知から数分後、イソは未送信の第三案を端末に残したまま、空になった総会場へ向かった。
中央食堂区画は、数時間前の怒号をまだ床に貼りつけていた。ひっくり返った椅子、折れた発言札、誰かが踏み潰したタンパク質ジェルの外袋。配給列の番号札が水滴を吸って曲がり、壁面端末の下では白線テープが途中で剥がれていた。飢えと不信が通った跡は、片づけられる時間さえ与えられていなかった。
ハリンはサンプル容器のケースを胸に抱え、セユンは農業端末を両手で持っていた。二人とも何も言わなかった。言葉にすれば、さっき閉じられた経路の重さがはっきり形を持つからだと、イソは思った。
「ここなら、記録カメラが残っています」
イソは総会場の壁を見上げた。中央の議決用カメラは停止していたが、配給所側の補助記録灯だけが淡く点滅していた。指揮部が全てを切ったわけではない。まだ、残り火のような記録経路がある。
セユンが倒れた椅子を一脚起こした。
「正式議案棚は、もう開きません」
「棚に入らなくても、文書としては残せます」
イソは答え、折れた発言台の上に端末を置いた。画面には、外縁通路隔離菌糸農場・緊急第三案の第一版が開いている。赤い警告枠は消えない。安全検証未了区域。接近禁止。資材搬入禁止。測定機器設置禁止。文字は文書の上から蓋をするように重なっていた。
ハリンがその警告を見て、短く息を吐いた。
「解除を待てば、中心部が焼かれます」
「待ちません。提出経路が閉じているなら、提出できない文書として完成させます」
イソは新しい欄を作った。指揮部承認欄ではない。作成者、検証者、公開条件、停止条件。総会議案の形式から、指揮官承認の枠を外した。権限がない文書だと分かっていても、空欄にしておくよりましだった。
セユンが培養計画を入力する。菌株K-四を主株、F-二を予備。培養器三列、前処理槽一基。四日目試験採取、五日目薄層回収。想定収量は中心部案の四割以下。そこに彼は、味と消化負担についての注意まで書き加えた。
「不利な数字も入れます」
「全部入れてください」
イソはうなずいた。
「少なく見せても、多く見せても壊れます」
ハリンは汚染停止条件の欄を開いた。圧力差喪失、排水管外管の漏れ検知、培養室入退室記録の欠落、サンプル容器の周期変動異常。どれか一つでも出れば即時停止。停止時の廃棄処理は焼却ではなく密閉回収。彼女の指は速く、迷いがなかった。
「生命体と断定しない。けれど、空洞として扱わない。これを一行目に置いてください」
「わかりました」
イソは文書の冒頭に打ち込んだ。
《本案は、洞窟中心部を熱封印しない。入口外側の縁に隔離菌糸区域を造成し、地球由来菌糸、排水、有機残渣を火星地下構造へ接触させないことを第一条件とする》
その下に、ラオンのための公開記録欄を残した。配給端末の別棚に表示する項目。菌株、投入量、廃水残渣量、培養温度、圧力、排水量、収穫量、配給反映量、停止条件発生の有無。すべての培養記録を全員に公開する。食料を作る機械の内側を、もう誰かの権限だけに預けないための欄だった。
通信灯が点き、ラオンの声が低く入った。
「別棚、仮で開けました。正式名称はまだ出していません。文書を投げてください」
「総会棚ではなく配給端末へ?」
「議案棚は封印されています。配給端末の注意文なら、食料関連記録として通る可能性があります。文書名を短くします。外縁隔離案、公開草案」
イソは送信先を変更した。総会場の補助記録灯が一度だけ明るくなった。ハリンとセユンが画面を見つめる。未承認でも、配給端末へ出れば、人々は見る。怒りながらでも読み、読めば質問が生まれる。
ラオンが息を詰める音がした。
「行きます」
送信率が一、三、七と上がった。二十二で一度止まり、三十一まで進む。イソは無意識に発言台の端を握った。次の瞬間、画面全体が灰色に変わった。
《配給端末公開棚への登録は拒否されました。拒否権限:パク・ドヒョン指揮官。理由:生命反応保全規程に基づく未承認拡散防止》
続いて、文書の複製先が赤く塗り替えられた。
《関連ファイルは封印監査対象に移行しました》
セユンが小さく首を振った。
「配給端末まで……」
「僕の側にも来ました」
ラオンの声は、いつもの報告口調を保とうとして失敗していた。
「封印権限が先回りしています。文書名ではなく、外縁通路、菌糸、公開記録、熱封印という語の組み合わせで弾いている。別名にしても、おそらく通りません」
ハリンが椅子を一つ起こし、そこへ座った。疲れたからではなく、倒れている椅子を見下ろしたまま話せなくなったからのようだった。
「議論の入口も、食料記録の入口も閉じた」
「まだ個人端末には残っています」
イソは言った。だが、その言葉は自分の耳にも薄かった。個人端末に残る文書は、証拠にはなる。けれど、総会を動かす経路にはならない。
その時、総会場の外から早い足音が近づいた。ミンジェだった。防護服の胸留めを半分しか閉じておらず、包帯を巻いた右手をかばう余裕もない。
「格納庫三からです」
彼は息を整える前に言った。
「熱封印装置、再出発しました。ローバー二号、洞窟方向へ出ています」
セユンが立ち上がりかけ、椅子の脚を鳴らした。
「接近禁止を出したばかりで?」
「接近禁止は入植者向けです。指揮部作業班は除外。そういう扱いになっています」
ミンジェの声には怒りよりも、乾いた理解があった。現場で何度も見た、命令書の抜け道を見つけた時の声だった。
イソは画面の拒否通知を見た。外縁通路に近づくことは禁じられた。測定器を置くことも禁じられた。だが洞窟中心部へ向かう熱封印装置は、同じ命令の外側を通って動き出している。
「到着まで、どれくらい」
「砂の状態が悪い。最短でも一時間半。普通なら二時間以上」
ミンジェは答えた。
「ただ、止める指示は出ていません」
総会場の空気が沈んだ。誰かが怒鳴れば、まだ動けたかもしれない。だが今は怒鳴る相手も、押しかける先も、正式な入口もなかった。ハリン、セユン、ミンジェは散らばった椅子を一脚ずつ起こし、発言台の前に座った。イソも最後に座った。四人の間に、完成しかけた第三案の画面だけが明るく浮かんでいた。
総会の時、ここには人が詰まっていた。配給表を疑い、洞窟を焼けと叫び、子どもの問いを押し潰した声があった。いまは椅子だけが残っている。声を集める場は空で、空であることが権限を持つ者にとって都合がいいのだと、イソははっきり理解した。
彼女は端末から文書を開き直した。提出できない第三案。封印されることまで予測して作ったはずなのに、実際にどこにも届かない画面を見ると、胸の奥が冷えていった。
「署名欄を出してください」
ハリンが言った。
イソは顔を上げた。
「正式文書ではありません」
「だから署名します。正式な支持も提出経路もない文書に、誰が責任を持ったのかを残します」
ハリンは迷わず端末を引き寄せた。医師の名前、ソ・ハリン。汚染管理条件の作成者としてではなく、一人の署名者として、文書の下段に記した。
セユンがそれを見て、唇を噛んだ。ミンジェは工具袋の上で左手を握りしめていた。イソは署名欄の次の空白に視線を落とす。自分の名を書くことは、指揮部との対立をさらに明確にするだけではない。飢えた人々の前で、遅く少ない案に責任を持つという意味だった。
それでも彼女は手を伸ばした。
指先が入力欄に触れる直前、総会場の壁面端末がけたたましく鳴った。
配給警報ではない。医療警報でもない。洞窟方向の観測センサーだった。赤い点が外縁通路のさらに奥、番号のない空白領域の近くで点滅している。
《洞窟観測線三。局所温度上昇。原因不明。上昇幅、二・八度。継続中》
ミンジェが立ち上がり、端末へ走った。
「早すぎる。ローバー二号はまだ中間地点にも着いていない」
ラオンの通信が遅れて割り込む。
「熱封印装置の予熱ログとは一致しません。外部熱源、登録なし。温度上昇点は……外縁通路の奥です」
イソは署名欄に触れたまま、赤い点を見つめた。閉ざされたはずの緩衝層の向こうで、火星の地下が、彼女たちより先に何かを始めていた。
帰る船を燃やした朝、火星に憲章が生まれた
31話 火星外縁の自然廃熱議決
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