「中へ」
ヘナは扉をそれ以上開けず、体だけを横へずらした。
ドギョムは路地の奥を一度見る。モーテルの方角から聞こえた無線ノイズは、もう雨に溶けている。だが切れたわけではない。誰かが押し黙っただけだ。
彼は食堂の裏口をくぐる。ヘナはすぐに鍵を戻し、チェーンを掛ける。厨房の空気は古い油と漂白剤の臭いがした。鉄板は冷めている。カウンターの向こう、夜の客席は暗く、椅子がテーブルの上に逆さに載せられている。
ヘナは「そこで止まって」と低く言う。
ドギョムは止まる。濡れた外套から水が落ち、床に黒い点を作る。彼女は棚から乾いた布を取り、彼の足元へ投げた。
「拭いて。足跡を残さないで」
ドギョムは従う。軍用ブーツの底を布で押さえ、泥を落とす。血の混じった水も一緒に吸い込まれていく。ヘナはそれを見ても、顔色を変えない。ただ厨房奥の細い扉へ向かい、鍵束から一本を選ぶ。
「こっち」
扉の向こうは短い廊下で、その奥に倉庫があった。
冷たいコンクリートの床。壁に沿って缶詰の箱が積まれ、水のタンクが三つ並んでいる。業務用の小麦粉袋や紙ナプキンの箱の陰に、古い軍用寝袋が丸めて置かれていた。床には折りたたみ式の簡易ベッド。棚の下には予備の靴が二足。男物と、もう一つは小さめの運動靴だった。
ただの食材倉庫ではない。
誰かがここで息を殺して寝た。何日も。たぶん一人ではない。
ドギョムは寝袋の縁を見る。古い泥の跡。タンクの横の壁には、爪か鍵で刻まれた浅い線が三本ある。日数を数えた跡か、約束を忘れないための印か。どちらでもいい。ここは一度、逃げ場として使われている。
ヘナはそれに気づいている。気づいているが、説明しない。
「外套を脱いで」
ドギョムはダッフルバッグを床に置き、外套を脱ぐ。肩の布は雨で重い。袖口には他人の血が少し固まり始めている。ヘナは乾いたタオルを渡し、続けて紙コップを差し出した。
黒いコーヒーだった。熱い。薄い湯気が倉庫の冷えた空気に白く立つ。
「砂糖はありません」
「いらない」
ドギョムはタオルで手を拭く。指の関節に赤い擦り傷がある。細身の保安官代理の膝を砕いたときのものか、首の太い男の拳銃を逸らしたときのものか、覚えていない。覚える必要もない。
ヘナは倉庫の入口に立ったまま、腕を組む。左手首の古い火傷の跡が、蛍光灯の下で白く引きつっている。
「何をしたか、聞いたほうがいいですか」
「聞かないほうがいい」
「でしょうね」
それで会話は切れる。
ドギョムはコーヒーを一口飲む。舌が焼けるほど熱い。体の芯に残っていた雨の冷たさが、少しだけ剥がれる。彼はダッフルバッグを壁際へ寄せ、寝袋には触れない。そこは自分のために用意された場所ではない。少なくとも、まだそうではない。
内ポケットの紙片が胸に当たっている。
五桁の数字と日付だけのメモ。ミゲルが二か月と一年分の恐怖を握りしめて守っていた紙だ。
ヘナの目は、何度かそこへ落ちた。シャツの胸元に何かがあると読んでいる。だが彼女は聞かない。ドギョムも出さない。食卓の上に置けば、それは食堂の問題になる。ヘナの問題になる。町の誰かが扉を蹴破ったとき、彼女が知っていたと言われる紙になる。
まだ早い。
「モーテルに戻るつもりだったんですか」
「部屋に誰か来てた」
「だからここへ」
「他に開いてる扉がなかった」
ヘナは小さく息を吐く。笑いではない。
「うちは、開いている扉じゃありません」
「知ってる」
その答えに、ヘナの目が一瞬だけ細くなる。怒ったわけではない。値踏みの線が変わっただけだ。
厨房のほうで冷蔵庫がまた低く唸る。雨音は屋根を叩き続けている。表通りを車が一台通る。ゆっくりだ。タイヤが水を裂く音が、食堂の前で少しだけ鈍る。
ヘナは倉庫の明かりを落とした。完全には消さない。棚の下の小さな電球だけが残る。
「午前五時まではここにいてください。それ以上は無理です」
「十分だ」
「寝るなら寝袋を使って」
「起きてる」
ドギョムは壁に背を預け、床に座る。コンクリートの冷たさがジーンズ越しに上がってくる。眠気はある。だが眠れば、音を取り落とす。
ヘナは扉を閉めかけ、そこで止まる。
「少年は」
ドギョムは目だけを上げる。
「逃がした」
「捕まりますか」
「今夜は、まだ」
ヘナはその短い答えの中身を読む。今夜だけ。明日はわからない。あの町では、誰かが一晩逃げたことと、生き延びたことは同じ意味ではない。
彼女は何も返さず、扉を閉めた。
残ったのは水のタンク、缶詰、古い寝袋、コーヒーの苦味だけだ。
ドギョムは内ポケットの上から紙片を押さえる。出さない。広げない。数字を覚えようともしない。覚えれば、考えがそちらへ寄る。いま必要なのは、午前五時にどう出るかだ。
町の外へ行く道はまだある。
貨物トラック整備場には、メンフィスへ向かう早朝のトラックが一本ある。ガソリンスタンドの若い店員が昼に言った場所と、配送表の黒く塗られた列から逆算すれば、出発は五時半前後。運がよければ、運転席の隣の空席を買える。運が悪ければ荷台の隅だ。もっと悪ければ、保安官代理の検問が先に待つ。
それでも町に残るよりは、まだ計算が立つ。
留まれば逃亡者になる。よそ者が保安官代理二人を壊した。それだけで町は物語を作れる。少年に薬を仕込んだことも、折られた指も、白いバンも、リハビリセンターも、その物語の外へ追い出される。
去れば。
ドギョムは目を閉じないまま、倉庫の壁を見る。
去れば、ミゲルはまた数字だけを握る。アルマという名前は窓口で消される。母親も同じだ。掲示板の七つの顔は、雨と埃でさらにぼやける。ジョアン・リバースの右下に書かれたJR32も、やがて誰かが剥がすか、別の求人票で隠す。
その計算には、まだ答えが出ない。
午前四時五十分、ヘナが戻ってきた。
彼女は何も言わず、彼の前に乾いた靴下を一足置く。サイズは合わない。だが濡れたものよりはましだ。
「いらない」
「店の床に足跡を残されたくないだけです」
ドギョムは靴下を受け取る。古いスニーカーのような洗剤の匂いがした。彼は履き替え、濡れた靴下をビニール袋へ入れる。余計な痕跡を残さない動きだ。ヘナはその手つきを見て、また何かを判断する。
午前五時。
雨は弱まっていない。霧が低く降り、表通りのネオンをぼやけた赤に溶かしている。
ドギョムは外套を羽織り、ダッフルバッグを担ぐ。コーヒーの紙コップは潰して、袋へ入れる。タオルは使った面を内側に折り、倉庫の隅に置く。ヘナはそれを見ても、礼は言わない。
裏口ではなく、食堂の表の扉を開ける。
表通りへ出たほうが、隠れているように見えない。ヘナも同じことをわかっているのだろう。彼女はカウンターの内側から鍵を外し、看板のスイッチには触れず、扉だけを細く開けた。
冷たい雨の臭いが入ってくる。
「引き止めないんだな」
ドギョムが言う。
ヘナは彼を見ない。外の通りを見る。無人の歩道、濡れた郵便局、閉まった薬局、そして遠い保安官事務所の方角。
「引き止めて、残る人なら、昨夜戻ってきません」
短い言葉だった。
ドギョムは返さない。片足を外へ出す。
その背中に、ヘナの声が落ちる。
「あなたが昨夜したことは、一時間後には保安官事務所に知られます。カール・ラウク保安官は、よそ者の顔を忘れません」
名前が初めて出た。
カール・ラウク。
ドギョムはその音を頭の奥に置く。保安官代理ではない。保安官。町が怯える構造の上にいる男。足跡を読めるかもしれない相手。
「忠告か」
「事実です」
ヘナの声は低い。そこに祈りはない。頼みもない。ただ、自分が知っている町の重さを一つ渡しただけだ。
ドギョムは答えず、道へ出る。
扉が背後で閉まる。鍵の音が一つだけ鳴る。
霧と雨は低く垂れ込めている。道路の端には昨日からの水が溜まり、銅山の古い看板は灰色の輪郭だけになっている。町はまだ眠っているように見える。だが眠ってはいない。窓の奥で誰かがカーテンを少しだけ動かし、郵便局の軒下で影がすぐ引っ込む。
ドギョムは停留所の方へ歩く。
ダッフルバッグの重みが肩にかかる。内ポケットの紙片が胸に当たる。彼は歩きながら、損益をもう一度並べる。
メンフィス行きの早朝トラック。助手席。現金。町の外。名前を残さない次の安い部屋。
その反対側に、ミゲルの腫れた指。アルマ。母親。トミー・グレンジャーの妻。掲示板の七枚。JR32。ヘナの倉庫にあった小さな運動靴。
どちらも重い。だが片方は背負えば遠ざかる。もう片方は置いていけば、この町に残る。
停留所が見える角まで来たとき、ドギョムは足を止める。
右へ曲がれば貨物整備場に近い。まっすぐ進めば停留所だ。霧の向こう、停留所の屋根の下に人影はまだ少ない。始発を待つには早すぎる時間だが、ブラスヒルでは早く並ぶ人間ほど理由がある。
そのとき、遠くの保安官事務所の駐車場で、明かりが一つ点いた。
続いて二つ目。
さらに奥の窓に、白い蛍光灯が灯る。
午前五時を少し過ぎたばかりだ。早すぎる。偶然にしては、順序が整いすぎている。駐車場の影で車のドアが開き、カーキ色のシャツを着た人影が一人、雨の中へ出てくる。
ドギョムの胸元で、ミゲルの紙片が濡れてもいないのに冷たく感じられた。
保安官事務所の扉が開き、別の男が外へ出る。その手には、新しい紙の束が握られていた。距離があって文字までは読めないが、雨に濡れていくその紙が誰を探すためのものか、ドギョムには見なくてもわかった。
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
10話 メンフィス行きに背を向ける
次の話