薄いメモリーカードが、濡れたコンクリートの上を音もなく滑る。
アルマの足元で止まったそれを、現場指揮役の目が拾う。男は笑わない。D-3で水を運んでいた時と同じ、相手がまだ人間か荷物かを決めるだけの目だ。
「動くな」
散弾銃を拾った部下が言う。だがヘナはもう動いている。
彼女はアルマの肩を片手で押し、非常梯子の方へ突き飛ばす。アルマの体が壁へぶつかり、息が詰まる。ヘナは床に落ちた折りたたみ椅子を両手でつかみ、二人目の部下の脚へ横から叩き込む。
金属脚が膝の外側に入る。男が声を上げ、片足を折るように崩れる。
「上がって!」
ヘナの声は低い。叫びではなく、命令だった。
アルマはカードへ手を伸ばしかける。ジョアンの血のついた指が、その袖を強く引く。先に逃げろ。声にならない命令が伝わる。アルマは歯を食いしばり、メモリーカードを拾えないまま梯子へ足をかける。
ディナは倒れた男の散弾銃を蹴って遠ざけ、救急キットをもう一度振る。だが肩で息をしている。来た道である階段は、もう塞がれている。彼女は受信機の横に転がった小型無線をつかみ、親指で送信を押す。
「グラディス、聞こえる? 食料品店の倉庫へ、端末を持って逃げて。最後の送出はそこでやるの」
返事はすぐ来ない。ノイズの向こうで、冷蔵機の低い唸りが混じる。
「ディナ?」
「ここへ戻らないで。端末を持って。換気口じゃない方、非常口から出て」
グラディスの息が短くなる。冷蔵倉庫の向こう側で、何かを持ち上げる音がする。古い外来受付端末は軽くない。だが彼女はそれを抱え上げる。
「送信は?」
「あなたがやる。最後まで」
グラディスは短く「わかった」とだけ返す。すぐに金属扉の開く音が混じる。冷蔵倉庫の非常口は換気口とは反対側、搬入口の裏に出る。黒いピックアップが教会側へ寄っている今なら、数十秒だけ死角がある。
地下室ではその数十秒が血の値段で買われている。
現場指揮役はメモリーカードを拾うために屈まない。代わりに、手で合図する。三人がジョアンへ向かう。ヘナが止めようとするが、膝を折られた部下が床から腕を伸ばし、彼女の足首をつかむ。
ヘナは蹴る。だが別の男が肩からぶつかってくる。背中がコンクリートの壇の角へ叩きつけられる。
鈍い衝撃が地下室に響く。ヘナの口から息が抜ける。視界の端が白く弾ける。それでも彼女の右手は胸元の内側へ滑り込む。そこには、ジョアンから受け取ったもう一枚の写しがある。薄いカードは汗と血で肌に貼りつく。
『ここだけは渡さない』
声にはならない。ヘナは呻きながら外套の合わせを押さえる。
ジョアンは抵抗できない。三人の部下に肩と足を押さえられ、毛布から引きずり出される。ガーゼが床の釘に引っかかり、右手から剥がれる。爪を失った指先が、裸電球の消えた闇の中で白く浮く。血は新しくない。だが剥き出しの肉は、見る者の喉を塞ぐほど生々しい。
ディナが飛びかかる。救急キットの角が一人の頬をかすめる。だが今度は届かない。男の肘が彼女の腹へ入る。ディナは膝をつき、吐く息だけで床へ沈む。
「口を」
現場指揮役が言う。
布がジョアンの口へ押し込まれる。ジョアンは喉の奥で音を殺す。目だけがアルマの方を見る。
アルマは梯子の途中にいる。片手は上の木枠へ届いている。あと一段で西壁の低い通路へ体を入れられる。食料品店の裏へ出られる。グラディスが端末を抱えて逃げる時間を、少しでも増やせる。
その足首を、下から誰かがつかむ。
「やめろ!」
ミゲルの声ではない。地下室の隅、石炭搬入口の下に隠れていたリハビリセンターの被害者の若い男が、思わず声を出す。彼の隣には、灰色の作業服を着た女がもう一人いる。D-3から戻ったあと、立てずに奥へ隠されていた二人だ。
その声が、最悪の合図になる。
部下のライトが隅へ向く。
アルマは梯子に爪を立てる。裸足が木をこすり、古い傷が開く。だがつかんだ手は離れない。彼女の体が一段、また一段、引きずり下ろされる。肩が壁にぶつかり、息が途切れる。
「アルマ!」
ジョアンが布の奥で叫ぼうとする。声は濁った息にしかならない。
アルマは床へ落ちる。すぐに腕を背中側へねじられる。ヘナが立ち上がろうとするが、背中の痛みで膝が沈む。ディナもまだ息を戻せない。
隠れていた二人も引き出される。若い男は足を引きずり、女は両手を胸に抱えている。どちらも保安ブレスレットの古い跡が手首に残っている。男たちは慣れた手つきで四人をまとめ、鉱山用の細いロープで手首を縛る。ジョアンだけは別に、口の布をさらに強く結ばれる。
「女記者。若い女。残り二人」
現場指揮役は確認するように言い、床のカードを靴先で押さえる。拾い上げ、ライトへかざす。薄いプラスチックの表面に、ヘナの指紋とジョアンの血が曇っている。
ヘナはそれを見ても動かない。動けないのではない。動けば胸元のもう一枚が浮く。彼女は痛みに顔を歪め、ただ息を浅く保つ。
その時、断熱材の山が崩れる。
さっきの乱闘で押された外壁側の袋が裂け、薄いビニールに包まれた紙束が一部だけ床へ抜け落ちる。封筒ノートの写しだ。ディナの目がそれを見て凍る。トミーの名、封筒の厚み、曜日、保安官代理の顔。町の金の流れを、店が焼ける前からヘナが書き続けた小さな記録。
部下の一人が拾おうとする。
ディナは床を這い、紙束へ覆いかぶさる。すぐに髪をつかまれ、壁へ引き戻される。それでも彼女の肘が紙束を断熱材の下へ押し込む。全部は戻らない。角が少しだけ見える。
「持てるものは後で拾う」
現場指揮役は急がない。だが無線の向こうは急いでいる。
換気口の上で足音がする。誰かが外から身を乗り出し、縛ったロープを引き上げる準備をしている。雨の匂いと泥が地下室へ落ちてくる。遠くでは広場の騒ぎが続いているはずなのに、ここでは人の息と布のこすれる音だけが大きい。
ヘナは胸元を押さえたまま、ジョアンを見る。ジョアンも見る。口は塞がれている。手は縛られている。それでも目だけはまだ折れていない。
アルマは床に膝をつき、足首を押さえられたままヘナの方を見る。泣かない。叫ばない。だがその目に、ミゲルの屋上、赤いドローン、戻ると言った少年の顔がよぎっているのがわかる。
その時、換気口の上から黒い無線機が一台、地下室へ落ちてくる。
床に当たり、割れたスピーカーからノイズが走る。全員の動きが一拍だけ止まる。
ヴィンス・マローンの声が、雨と金属音の向こうから低く落ちる。
「ジョアン、アルマ、残り二人。廃鉱へ移せ」
短い命令だった。
だがその一言で、ヘナの背中の痛みより冷たいものが地下室へ広がる。廃鉱。D-3。爆薬図の赤印。零時に吹き飛ぶはずの薬品倉庫と、その奥へ戻される人間たち。
現場指揮役が無線機を拾い、ジョアンの髪をつかんで立たせる。アルマも引きずられる。隠れていた二人は声も出せずに続く。
ヘナは床に落ちた断熱材の角と、胸元の内側に残る一枚の写しを押さえる。まだ全部は奪われていない。だがジョアンは、今まさに奪われる。
換気口の外でエンジンが二台、同時に低く唸り始めた。
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
96話 雨の鉄道駅に置いた囮
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