救急要員の靴音が、非常電源の白い光の中で乱れている。道允は床に片膝をついたまま、こめかみを押さえていた。意識が落ちていたのは数秒か、十数秒か。時間の感覚は裂け、倉庫の水滴の音だけがまだ耳の奥に残っている。
姜武鎮は記憶椅子から切り離され、神経端子を外されていた。口元の血を拭われても、唇は紫に近い色をしている。担架へ移される瞬間、彼の指が一度だけ痙攣した。生きている。ただ、それが彼にとっての救いなのか、単に『証拠』がまだ呼吸しているという意味に過ぎないのか、道允には判断できない。
「白執行官、動かないでください。あなたも診察を」
世羅が肩に触れようとする。道允はその手を避け、執行卓へ視線を戻す。
「対象者を先に」
「でも、あなたの神経値も跳ねています」
「俺は後でいい。ログを閉じるな」
声は掠れているが、命令としては通る。世羅は唇を噛み、救急チームに道を譲るように一歩退く。担架が扉の外へ消え、執行室には血の匂いと焦げた樹脂の匂いだけが残った。扉が閉まり切る前に、廊下の向こうで保安要員の短い無線が飛ぶ。事故処理班ではない。上層部へ直結する回線の硬い口調だった。
道允は椅子に座らず、執行卓に両手をつく。指先が震えている。自分の手ではないような遅さで認証パネルへ触れると、端末が彼の生体署名を読んだ。
『執行官、白道允。強制遮断後ログ閲覧』
画面には、整然とした公式記録が並んでいる。開始時刻、注入強度、対象者反応、緊急停止要求、手動遮断。どの項目も既定値の範囲内へ丸められていた。第三視野混入は『外部感情ノイズ疑い』に変わり、自動補正の発動理由は『対象者急性過負荷防止』とだけ記されている。
姜武鎮が血を吐いたことも、倉庫が開いたことも、十歳の道允が映ったことも、そこにはない。神経発作の最大値は安全閾値の一歩手前で止められ、手動遮断は『計画内の保全処置』に分類されている。あれほど鳴り響いた警告音まで、記録の上では存在しない。
「もう、書き換わってる……」
世羅が背後で低く言った。救急搬送を見送った彼女の顔は白い。だが目だけは、分析官のそれに戻りつつある。
「公式層だけだ」
道允は深呼吸し、事故ログの下に隠れた原本差分を呼び出す。通常なら主系統停止後、三十秒で一時領域は封印される。だが強制遮断の衝撃で、補正回路の同期履歴が完全には閉じていない。まだ脈がある。
「世羅、外部保全ではなく、執行椅子のローカルキャッシュを見る」
「権限が要ります。今の封印等級だと、次長級が――」
「事故直後の神経保全例外なら、執行官署名で一分だけ開く」
「そんな抜け道、監査で殺されますよ」
「生きているうちに見る」
世羅は返事をしなかった。代わりに、分析卓で補助回線を開き、保安監視の自動通知を遅延させる。目は笑っていない。道允は自分の手首端末を卓下の有線ポートへ差し込み、音を立てずに記録複製用の隔離領域を開いた。
原本差分が立ち上がる。
画面の色が、公式記録の清潔な青から、低く濁った灰色へ変わった。波形は乱れ、時刻の列に欠落が走っている。道允は深層同期の項目を絞り込み、緊急停止要求が保留された直後の一帯を拡大する。
そこにあった。
『未承認感覚同期、継続七・四秒』
『接続先、対象者姜武鎮/執行官白道允/不明第三層』
『同期種別、感覚基準臨時共有』
世羅が息を呑む音が聞こえる。
七・四秒。たったそれだけの時間で、道允は倉庫の床の冷たさを思い出し、姜武鎮は自分のものではない恐怖に脳を裂かれかけた。公式記録では、存在しない時間になっている。
道允はさらに承認経路を開く。指が一瞬止まった。見たくないと身体が先に拒んだ。それでも彼は画面を展開する。
承認者欄は二段に分かれていた。上段は自動補正回路。下段には、臨時承認補助署名が残っている。
『承認補助、白道允生体署名。一致率九十九・九九一』
世羅の声が震えた。
「そんなはずありません。白執行官、あなたは遮断しようとしていました。承認なんて――」
「していない」
道允は即座に言う。だが自分の声が、思ったよりも硬く響いた。
無意識に触れたのか。補正に巻き込まれた瞬間、身体が勝手に許可を出したのか。ありえない。生体署名は血流、神経反応、皮膚電位、微細な記憶反射を束ねた本人確認だ。単なる接触や痙攣で、臨時承認にはならない。まして対象者と第三層をつなぐ違法同期を認める権限など、執行官の通常権限には存在しない。
では、誰が彼の署名を使ったのか。
道允の背中を、倉庫の湿った冷気がなぞる。十歳の自分が両腕を広げ、黒く塗り潰された何かを庇っていた。そこへ行く前の道。そこから出た後の時間。すべてが白い。
彼はこれまで、それを普通の物忘れだと思っていた。幼少期の記憶は誰でも曖昧になる。父の怒鳴り声が強すぎたから、細部が抜け落ちただけだ。母の食卓、学校の廊下、雨の日のバス停。断片が残っているなら、自分の過去はつながっているのだと信じてきた。
違う。
十歳前後だけ、輪郭が奇妙に滑らかすぎる。傷口が治ったのではなく、縫い目を見えないように磨かれている。何を怖がったのか。誰の手を握っていたのか。誰を背に庇ったのか。そこだけが、深い井戸のように底を見せない。
『俺の署名は、いつから盗まれている』
胸の内に浮かんだ言葉は、声にならない。言った瞬間、それが事実へ固まってしまう気がした。
端末が短く警告を鳴らした。
『原本差分領域、封印処理まで二十秒』
道允は迷わなかった。七・四秒の同期区間、承認経路、生体署名照合値、第三層の未分類波形を選択し、個人端末の隔離領域へ複製する。公式保全へ送れば、さっきの公式記録と同じように正常値へ均される。今は、自分の手元に置くしかない。
「白執行官、個人端末への複製は完全に規定違反です」
世羅が小声で言う。止めるための声ではなかった。記録に残らない警告だ。
「知っている」
「見つかったら、事故責任だけじゃ済みません」
「見つからなければ、これはなかったことになる」
転送率が七十を超える。八十。九十。道允の喉が乾く。執行室の空調は冷えているのに、背中には汗が滲んでいた。扉の向こうの足音が一度近づき、遠ざかる。保安課がまだ事故区画を封鎖しきれていない。今だけだ。
『複製完了』
表示が出た瞬間、道允は端末を引き抜き、袖の内側へ滑り込ませる。続けて原本画面を閉じる。遅れて、封印処理が走り、灰色の差分領域は何もなかったように消えた。公式記録だけが、青く清潔な顔で残る。
そのとき、第五特殊執行室の重い扉が開いた。
空気が変わる。救急要員でも、保安課でもない。黒い外套の裾が非常電源の光を切り、韓泰錫が入口に立っていた。整った顔には事故現場へ駆けつけた焦りがない。冷たい目が、記憶椅子、血の跡、世羅、そして最後に道允の手首へ順に落ちる。
「白執行官」
低い声だった。叱責ではない。すでに処分を決めた者の声だ。
「事故報告書は不要だ。書面ではなく、君が直接持ってこい」
道允は袖の内側の端末を動かさない。韓泰錫の視線は、そこに触れたまま動かなかった。
「今すぐ私の執務室へ来るんだ。君が何を見たのか、そして何を持ち出したのか、順に聞こう」
罪を消す国は、妹の記憶でできていた
7話 消された七・四秒の証拠
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