ヒョンジュの目の前にある文字を、彼女だけが見ていなかった。
ミンジェは台帳の上に置いた自分の指をゆっくり引いた。紙の圧痕はまだ読める。三階賃貸区域。蛍光灯の白い光が斜めに落ちるたび、貼り重ねられた訂正紙の下で古い文字が沈んだ水脈のように浮いた。
「コピーをお願いします」
「四階用途欄の写しですね」
「いいえ。この訂正紙の下にある痕跡も含めてです」
ヒョンジュは困ったように笑いかけ、すぐ真顔に戻った。笑うべき場面かどうかも判断できないような、遅れた反応だった。
「痕跡、ですか」
「今は見えなくても構いません。原本台帳の該当ページを、閲覧記録付きで保存してください」
「撮影は禁止です。コピーも、こちらで確認してからです」
「では確認してください」
ミンジェは声を荒げなかった。焦れば窓口は閉じる。だがこの数秒のあいだにも、彼女の中で三階という言葉だけが抜き取られていくのがわかった。建物の中で入居者から反復記憶を奪っていたものが、市役所の閲覧室で行政職員の認識まで削っている。
ヒョンジュは台帳へ顔を近づけた。目は紙を追っている。だが三階の圧痕の上だけ、視線が薄く滑った。
「四階の前に……空欄がありますね」
「空欄ではありません」
「すみません、少し待ってください。コピー担当に聞いてきます」
彼女が席を離れた瞬間、ミンジェはスマートフォンを取り出した。禁止の札が閲覧台の端に立っている。通常なら絶対にしない。だが、目の前で職員の記憶が抜けていく状況で、通常の手続きを待つほうが危険だった。
シャッター音は切ってある。彼は台帳全体、表紙、ページ番号、綴じ穴、四階欄、訂正紙の端、斜光で浮いた圧痕を連続で撮った。角度を変え、手袋をした指を縮尺代わりに置き、もう一枚。画面上で「三階賃貸区域」の影がかろうじて読めることを確認し、すぐ暗号化フォルダへ保存した。外部クラウドには上げない。装置に関する通話や録音が消えるなら、通信経路は信用できなかった。
ヒョンジュが戻る前に、彼は申請用紙を手元へ引き寄せた。
「地下書庫の別綴じを閲覧したい。竣工承認、消防添付、用途変更、面積訂正の全件です」
戻ってきたヒョンジュは、用紙に書かれた「三階」の文字を見て、また一拍遅れた。
「どの階の資料でしょうか」
ミンジェはペン先で住所欄を叩いた。
「ドウォンビル全体です。階別で分類されているなら、一階から五階まで。欠落があれば欠落として記録してください」
その言い方なら彼女の認識に引っかからないらしい。ヒョンジュは手続きに戻った職員の顔になり、閲覧目的、身分証番号、依頼契約の写しを確認した。
「地下書庫は職員同伴です。原則三十分。撮影不可。必要箇所は付箋で指定してください」
「わかりました」
「それと、古い承認ファイルは埃がひどいです。手袋とマスクを使ってください」
事務的な声だった。その事務性に、ミンジェはかすかな安堵を覚えた。三階という言葉を避ければ、彼女はまだ働ける。影響は全体の記憶を奪うのではなく、特定の対象を認識から外している。
地下書庫へ降りる階段は、市役所の明るい窓口とは別の建物のように冷えていた。コンクリートの壁に防火扉が並び、蛍光灯は一定間隔で低く鳴っている。ヒョンジュは鍵束から一本を選び、重い扉を開けた。
古い紙の匂いが、湿った空気と一緒に流れ出した。
棚には年度ごとの箱が詰め込まれ、背表紙の文字は薄く茶色に変わっていた。ヒョンジュは台帳番号を照合しながら、奥の下段から灰色の文書箱を引き出した。
「ドウォンビル、竣工承認関係。一九九〇年代の束です。ここで見てください」
ミンジェは長机に箱を置き、最初の綴りを開いた。建築確認通知、構造計算書、設備概要。すべてが紙の重みを持っている。電算記録のように一行で上書きできるものではない。
数枚めくったところで、竣工時の平面図が出てきた。
ミンジェの呼吸が止まった。
一階、二階、三階、四階、五階。そこには自然な順番で五枚の図面が綴じられていた。問題の三階平面図には、中央を一本の廊下がまっすぐ通り、その両側に小さな区画が六つずつ並んでいた。合計十二室。各室には事務室一から事務室十二までの番号が振られ、廊下の端には共用洗面と小さな倉庫があった。
ドウォンビルには、三階があった。
しかも物置や機械室ではない。人が入居し、机を置き、扉を閉めて使うための、十二の事務室と一本の廊下が設計されていた。
ミンジェは図面の寸法を目で追った。二階天井中央から三十七センチ上、四階床面から一メートル十二センチ下。これまで振動センサーが指していた空白座標は、三階廊下の中央線と一致する。階段室の壁から二メートル六十センチ内側という位置も、図面上では廊下の中央に近かった。
『二階の上でも、四階の下でもない』
以前の自分の独白が、胸の内側で冷たく反響した。正確には、二階の上であり、四階の下だった。ただし記録から消された三階の中で、だけだ。
「ありましたか」
ヒョンジュが横から覗き込んだ。
ミンジェはすぐページを閉じなかった。彼女が見えるか確かめたかった。
「この図面、何階に見えますか」
「三……」
ヒョンジュの口がそこで止まった。目が図面の表題欄を見ている。唇は音を作りかけ、空気だけを吐いた。
「中間階の平面図、ですね」
「三階と書いてあります」
「そう、ですね。書いては……あります」
今度は完全に消えてはいなかった。読める。だが言葉にしようとすると引っかかる。ミンジェはそれ以上彼女に負荷をかけず、図面へ付箋を貼った。
「この図面のコピー申請を」
「はい」
彼女の返事は少し震えていた。
次の束は竣工承認後の変更書類だった。日付を追う。竣工検査済証。承認通知。入居前点検。どれも異常はない。だが竣工から一か月後のところで、紙質の違う薄い文書が挟まっていた。
手書きだった。
「階全体の用途廃止および面積訂正」
表題は黒いインクで書かれ、下にはドウォンビル三階全体の専有面積をゼロとして、共用面積からも除外する旨が記されていた。十二の事務室番号はすべて二重線で消され、訂正後欄には斜線だけが引かれている。
ミンジェは喉の奥が乾くのを感じた。
竣工から一か月。建物として完成し、人が使える状態になった直後に、階全体が用途廃止され、面積からも消されている。増築でも減築でもない。存在した床を、行政上なかったことにする処理だった。
「こんな訂正、通りますか」
ヒョンジュは書類を見て、眉を寄せた。
「通常は、現況確認と理由書が必要です。階全体ならなおさら……」
彼女の指が理由欄で止まった。
理由欄だけが、真っ白だった。
空欄ではない。書き忘れでもない。紙の表面がそこだけ不自然に毛羽立ち、繊維が浅くめくれている。刃物か硬い金属で、書かれていた文字を上から削り取ったようだった。インクを消したのではなく、紙ごと薄く剥いでいる。欄の枠線まで一部が欠け、斜めの細い傷が何本も残っていた。
「削られていますね」
ミンジェが言うと、ヒョンジュは息を呑んだ。
「訂正理由を削るなんて、ありえません。差し替えるなら差し替え印が要ります。こんな状態で保存されるはずが……」
「保存された。誰かがこれで通した」
ミンジェは理由欄の端を凝視した。わずかに黒い点が残っている。文字の名残か、刃の汚れかはわからない。だが、完全な空白にしたかったのに、紙を破るほど急いだ痕跡だけが残った。理由を書けなかったのではない。書かれていた理由を、あとから誰かが無理に消したのだ。
なぜ三階を消したのか。
その答えだけを、どうしても隠したかった。
文書の末尾には申請者欄があった。建築主。住所。連絡先。そして署名。
ペク・テジュ。
ミンジェはその名を声に出さなかった。ペク・ドヒョンの姓と同じだという事実だけを、手帳の中で静かに線で結んだ。ペク。建築主。竣工一か月後の抹消。十二の事務室。一本の廊下。削られた訂正理由。
彼はスマートフォンを取り出した。
「撮影は禁止です」
ヒョンジュの声は小さかった。注意というより、規則を思い出して自分に言い聞かせているようだった。
「コピーが残る前に、あなたがこれを忘れる可能性があります」
「私は……」
彼女は反論しかけ、理由欄へ目を落とした。その顔から血の気が引いた。
「今、私、何を見ていましたか」
ミンジェは答えず、カメラを起動した。署名、削られた理由欄、日付、文書番号を一画面に収める。ピントが合うまでの数秒が妙に長かった。
その瞬間、地下書庫の蛍光灯が音もなく消えた。
暗闇は落ちるのではなく、紙のあいだから滲み出すように広がった。ヒョンジュが短く息を吸う。ミンジェはスマートフォンの画面だけを光源にして、文書箱の奥を見た。
誰もいない。
それなのに、棚の下段、灰色の箱のさらに奥から、古いカセットテープの巻き戻し音が聞こえ始めた。
キュル、キュル、キュル。
規則正しく、ゆっくりと。
まるで削り取られた訂正理由を、暗闇の中で誰かが巻き戻しているようだった。
誰も上がれない三階から、午前零時四十分に僕の名を呼ぶ声がする
13話 音の教習所という痕跡
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