壁の奥のきしみが消えたあとも、ミンジェは喉に残った音節を飲み込んだまま動けなかった。
老人は手すりを握った指を緩めず、廊下の端にある管理室を一度だけ見た。ドヒョンが出てくる気配はない。だが彼女の目は、鍵のかかった書類棚よりもっと奥、壁の内側にいる何かを警戒しているようだった。
「あなたは、五階の方ですか」
ミンジェが低く尋ねると、老人は小さく頷いた。
「ユン・ボンレ」
名乗る声は乾いていた。長いあいだ使わずにしまっておいた名前を、必要に迫られて出したような響きだった。
「ここでは話せない。紙を持って、上がりなさい」
「管理組合長に見られると困る話ですか」
「見られるより、聞かれるほうが困る」
ボンレはそれだけ言い、階段を上がり始めた。足取りは遅い。だが迷いはなかった。ミンジェは黄ばんだチラシを折らずにクリアファイルへ挟み、彼女のあとを追った。
五階の廊下は、ほかの階より天井が低く感じられた。ワンルームの扉が等間隔に並び、古い換気扇の音が薄く回っている。ところどころに貼られた防犯ステッカーは色あせ、郵便受けの名札には消えかけた文字が多かった。ボンレは突き当たり手前の部屋の前で止まり、鍵を取り出した。
一度、回す。
そのまま扉を細く開けるかと思ったが、彼女はもう一つ別の鍵を出した。古い南京錠ではなく、別の補助錠らしい。金属が噛む音が二度目に鳴ると、彼女はようやく扉を引いた。
「入って。靴はそのままでいい」
部屋は狭かった。低い食卓、畳んだ布団、壁際の小さな冷蔵庫。棚には薬袋と古い写真立てがあり、写真立ては伏せられていた。窓は厚いカーテンで閉められ、昼なのに室内は夕方のように暗い。
ミンジェが入ると、ボンレは扉を閉めた。さらに内鍵をかけ、さっき開けた補助錠も内側から落とした。
二度、鍵が鳴った。
それだけで部屋の空気が外から切り離された。ミンジェは録音機を起動したまま、手に持っていたチラシを食卓へ置いた。
「この教習所を知っているんですね」
ボンレは答える前に、壁のコンセントへ目を向けた。次に天井の隅、換気口、古い蛍光灯の紐を見た。どこかに耳があるか確かめているようだった。
「知っているというより、忘れられなかった」
「忘れた人もいる」
「忘れたほうが生きやすいこともある」
その言い方に、ミンジェはセヨンの息子の誕生日、ジョンフンの反転した公式、ギジュンの白く抜けた祈祷文を思い出した。生きやすさではない。何かを差し出したあとの空白に、人は理由をつけて暮らすしかなかったのだ。
ボンレは食卓の向こうへ腰を下ろした。膝に置いた手は細く、関節だけが硬く浮いている。
「あそこは、歌を教える場所じゃなかった。楽器もない。子どもがソルフェージュを習うような所でもない」
「では、何を教えていたんですか」
「教えてなどいない。集めていた」
ミンジェは黙って待った。彼女の声は細いが、途中で止めれば二度と続かない気がした。
「人の声。子どもの笑い声。朝、釜の蓋が鳴る音。圧力鍋が蒸気を吐く音。夫が玄関で靴べらを落とす音。市場の勘定台に硬貨を置く音。そういう、暮らしに密着した音を録って、箱にしまう場所だった」
チラシの中央に印刷された「音の教習所」という文字が、急に薄気味悪いほど正確に見えた。教えるのではなく、音を扱う。音を預かる。ならば教習という言葉は、実態を隠すための薄い布にすぎない。
「録音して、何に使ったんですか」
「さあね。あの男は保管と言った。必要なときまで預かるだけだと」
ボンレは院長名を口にしなかった。ミンジェも続けて言わせなかった。さきほど階段で凍らされた音節が、まだ喉の奥に残っている。
「預けた人は、対価を受け取ったんですね」
ボンレの肩がわずかに沈んだ。
「金が必要な者ばかりだった。病院代、借金、家賃、子どもの授業料。何かに追われて、息をする場所もなくなった人間に、あの三階は静かに扉を開けた」
「普通の質屋のように」
「質屋は指輪や時計を預かる。あそこは、もっと軽く見えるものを預かった。軽いから、人は渡してしまう。声なんて、音なんて、なくても明日は来ると思うから」
ミンジェは録音機のランプを見た。赤い点は小さく点滅している。だがこの部屋で拾っている声も、どこかへ引っ張られるのではないかという不快な予感があった。
「手続きはありましたか。契約書、領収書、控え。紙の形で取引が残っていたのか知りたい」
ボンレはすぐには答えなかった。膝の上で指を組み、ほどき、また組んだ。否定したいのではない。答えを出した瞬間に、隠してきたものが戻ってくるのを恐れている顔だった。
「あなたは鑑定士だと言ったね」
「はい」
「音を聞けば、嘘がわかるの」
「嘘そのものはわかりません。けれど、音は残れば位置と時間を持ちます」
「残らない音は」
「別の痕跡を探します」
ボンレは薄く笑った。笑いというより、長年押さえていた息が裂けたようだった。
「なら、痕跡を見せる」
彼女は立ち上がり、棚の下段にある引き出しを開けた。中には古い領収書の束、病院の封筒、使わなくなった補聴器の説明書が詰まっていた。そのさらに奥から、小さな革張りのケースを取り出す。表面は擦り切れ、角が丸くなっていた。
補聴器ケースだった。
ボンレは食卓へ戻ると、ケースを置いた。指先がふるえて、留め具に一度失敗した。二度目で小さく音がして、蓋が開く。
中には補聴器ではなく、薄い紙の票が一枚だけ入っていた。
青いインクが、今押したばかりのように鮮やかだった。紙そのものは黄ばんでいるのに、その文字だけが時間を拒んでいる。
ミンジェは身を乗り出した。
表には短い文言が押されていた。
「泣き声、1回支払い完了」
部屋の温度が一段下がったように感じた。ミンジェは文字から目を離せなかった。泣き声。支払い完了。音が品目になり、対価が済んだ証明として押印されている。
「これは、誰のものですか」
ボンレはすぐに首を振った。
「私のじゃない」
「あなたの引き出しにありました」
「昔、預かっただけだ。隣にいた人のかもしれない。誰かが落としたのかもしれない。私は知らない」
言葉は急に早くなった。細い声が薄く上ずり、否定だけが何度も先へ走る。ミンジェはその声の揺れを聞きながら、紙票の端に触れた。
「触らないで」
「裏を確認します」
「だめだ。見るものじゃない」
「証拠です」
「違う。これはもう終わったものだ」
ボンレの手が伸びたが、ミンジェは紙を破らないよう、わずかに持ち上げただけだった。古い紙は軽い。けれど、指先に乗った重さは紙のものではなかった。
「終わったものなら、なぜ二度鍵をかけたんですか」
ボンレの口が閉じた。
廊下の向こうで、換気扇の音が一瞬止まった。五階の生活音が遠のき、部屋の中に二人の息だけが残る。ミンジェは青い票をそっと裏返した。
そこに、黒い手書きの名前があった。
ユン・ボンレ。
老女の否定は、最後まで言葉にならなかった。彼女の喉から漏れたのは、声ではなく、どこか遠い録音室で針が溝に落ちるような乾いた息だった。
その瞬間、ケースの中に残っていた空気が震えた。赤ん坊の泣き声に似た、ごく短い音が、まだ再生もしていない青い票の裏側から滲み出した。
誰も上がれない三階から、午前零時四十分に僕の名を呼ぶ声がする
15話 まだ終わっていない声
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