次。
は。
名。
前。
最後の一画が答案用紙へ沈んだ瞬間、ミンジェは少年の手首を押さえた。鉛筆の芯は折れず、紙の表面だけをさらに黒く濡らしていた。イム・ソンウの目は開いている。だが、そこに自分の名前を書いた少年の反応はなかった。
「全員、答案から手を離してください」
ミンジェは声を低く抑えた。大きな声は呼びかけになる。呼びかけは、確認になる。さっき自分でジョンフンに言ったばかりだった。
ドヒョンが扉から手を離し、苛立ったように言った。
「また勝手に判断するつもりですか。ここを閉めると言ったはずです」
「閉めても、次はここではありません」
ミンジェは答案の中央を見た。次は名前。生徒の名前欄はすでに埋まっている。ならばこれは二十一人の続きではなく、名前そのものを預けた契約の告知だった。
目録の写真を開き、指で枝番号を追う。商売初日のレジ音、二十一名同時確認。その次の行は、湿った黒い滲みで半分隠れていた。だが、かすかに残った母音の形と備考の切れ端が、彼の記憶に引っかかった。
婚姻前の名前。
「オ先生、生徒は出席番号で管理してください。保護者には、今日は体調不良で待機とだけ伝える。名前の異常には触れないでください」
「パクさんは」
「五階へ行きます」
ジョンフンが息を呑んだ。ドヒョンは一歩前へ出たが、ミンジェはもう見なかった。廊下へ出ると、空き教室の黒板に作られた目録の枠が、細い線だけを残して消えかけていた。その枠の最下段に、一瞬だけ文字が浮かぶ。
イ・ソネ。
すぐにチョーク粉のように崩れた。
五階へ向かう階段は、いつもより長かった。二階から四階へ折れるはずの踊り場で、存在しない階の空白が喉の奥のように冷えている。ミンジェは手すりに触れないよう上がった。呼吸音まで数えられている気がした。
五階廊下の蛍光灯は一本だけ点滅していた。突き当たり手前のボンレの部屋ではなく、そのさらに奥、廊下の行き止まりにあるワンルームの扉が細く開いている。普段は郵便受けに何も挟まっていない、若い女性の部屋だった。
扉の前で、ユン・ボンレが灰色のカーディガンを胸の前で握りしめて立っていた。小柄な身体が廊下の冷気に押されているように見える。
「パクさん」
彼女は細い声で言った。
「中で、あの子が自分を呼んでいるの。あの子の口じゃない声で」
「イム・ソナさんですか」
ボンレはすぐには頷かなかった。名前をそのまま口にしていいのか迷った顔だった。ミンジェは自分の失敗に気づく。だが部屋の奥から、古いテープが巻き込まれるようなざらついた音が漏れた。
ミンジェは扉を押し開けた。
部屋は狭く、ベッドと小さな机、洗濯物を掛けたスタンドでほとんど埋まっていた。机の上には住民登録証と携帯電話、冷めたマグカップが置かれている。床に座り込んだ若い女性が、両手で住民登録証を握っていた。顔色は紙のように白い。唇だけが、何度も同じ形を作っている。
「大丈夫です。名前を無理に言わないでください」
ミンジェが先に言ったが、ソナは首を振った。言わなければ消えると、身体が理解しているような必死さだった。彼女は登録証を胸に押し当て、喉を震わせた。
「イ……」
そこまでは音になった。次の瞬間、声は切れた。口は続きの形を作っている。舌も、唇も、名前の音節を覚えている。だが喉の奥から出たのは、磁気テープが歯車に噛み込んだような、ざらざらしたノイズだけだった。
ジジ、ッ、ギュル。
ソナは目を見開き、自分の喉を押さえた。もう一度試そうとして、また同じノイズが漏れる。名前へ届く直前で、声が古い機械に擦り取られていた。
「やめてください。今のまま続けると、向こうに発音の形を渡します」
ミンジェは机の上の紙とペンを取った。
「書けますか。声にしないで、文字で」
ソナは震える指でペンを握った。紙に最初の横線を引く。だが二文字目へ移る前に、線が途中でほどけたように薄くなる。筆圧はあるのに、黒鉛だけが紙へ定着しない。
ボンレが戸口で言った。
「昨日の晩からよ。夜中、あの子の部屋の中で、誰かが名前を呼んでいた。女の声だったり、男の声だったり、子どもの声だったりした。でも全部、あの子の名前を、代わりに呼んでいた」
「本人は返事をしましたか」
「していない。私が廊下で止めた。返事をしたら持っていかれると、あんたが言ったから」
ボンレの声には恐怖だけでなく、どうにか間に合ったという硬い意志があった。ミンジェは短く頷き、端末を開いた。目録画像の該当部分を拡大する。黒く潰れていた行が、先ほど答案に浮かんだ文字を足場にするように少しだけ読めた。
イ・ソネ、婚姻前の名前、回収条件不明。
契約者名。預けた音ではなく、預けたものが名前そのものに近い。ミンジェはソナの登録証を見た。イム・ソナ。生年月日。住所。住民登録証は本人を証明するが、名前がどこから渡されたかまでは語らない。
「お母さんの名前を、書けますか」
ソナの肩が跳ねた。質問を聞いただけで、部屋の蛍光灯が小さく唸った。彼女は紙の端に震える字を書こうとした。最初の一文字、イ。続いて、ソ。三文字目へ入る前に、ペン先が紙の上で止まる。
ボンレが息を引いた。
「ソネ……イ・ソネ。あの子の母親よ。昔、この建物に住んでいた。結婚して姓が変わる前、そう呼ばれていた」
ミンジェの背中に冷たい汗が流れた。婚姻前の名前。契約目録の表現は、母親が失った過去の呼び名を指しているだけではない。結婚前の自分の名を対価にした者が、娘に与える名前まで担保に入れた可能性がある。
「名前は、親が呼ぶ最初の音です」
ミンジェは自分に言い聞かせるように言った。
「母親が娘を呼ぶ声に結びついていれば、契約は娘本人へ伸びます。イ・ソネさんが過去に、何かの対価として娘の名前を預けた。本人の名ではなく、母親が娘へ渡すはずだった呼び名を」
ソナが首を横に振った。そんなはずがない、と声にしたかったのだろう。だが喉は、砂をこするような音しか返さない。
「回収条件不明、ということは、向こうがまだ条件を開示していない」
ミンジェは端末を握る指に力を込めた。
「けれど、今始まっています。部屋で誰かが代わりに呼ぶ声を聞かせ、自分の名前を本人に確認させる。登録証、答案、連絡先。名前が書かれたもの全部を入口にしている」
その時、机の上の携帯電話が震えた。
画面が勝手に点いた。通話ではない。連絡先アプリが開き、自分のプロフィール欄が表示されている。上部には、登録名があった。
イム・ソナ。
ソナは這うように手を伸ばした。ミンジェは止めようとしたが、画面の文字が先に動いた。
最後の一文字が、薄くなった。
ナ、という字の縁が灰になり、内側から白く抜ける。次にソが滲み、残ったイムの文字が、誰かの指でこすられたように欠けていく。携帯電話の明かりに照らされたソナの顔から、血の気が引いた。
画面の下で、登録証を握る彼女の唇が、声にならない形だけを作った。
その時、連絡先の空白になった欄へ、別の文字が一字ずつ打ち込まれ始めた。
イ・ソネ。
そして部屋の中に、ソナの母親ではない古い女の声が響いた。
「返してもらうわ。あなたの名前を」
誰も上がれない三階から、午前零時四十分に僕の名を呼ぶ声がする
25話 人の喉を通る祈祷文の音
次の話