受話器の向こうの声が切れても、ジェユンはしばらく耳を離せなかった。
城北洞へ向かえ。記録には残すな。
その一言は、前世の秘書室で何度も聞いた隠語だった。公式日程表から消え、あとで誰も責任を取らない移動。車両番号だけが地下の黒板に残り、翌朝にはそれすら拭かれる類いの呼び出しだった。
「ジェユン? 誰から?」
イ・ジョンヒが濡れた手をエプロンで拭きながら振り返った。ジェユンは受話器を置き、少し遅れて答えた。
「会社、です。父さんに……城北洞へって」
「もう出ちゃったのに。まったく、あの人も電話ぐらい待てばいいのにね」
ジョンヒはため息をつき、玄関のほうを見た。そこにはソンロクが慌てて出ていった跡が残っていた。靴べらが横倒しになり、たんすの上には父の予備の上着がきちんと畳まれていた。夜明け前から用意してあった弁当の匂いが、まだ狭い台所に残っている。
ジェユンは鏡の前へ戻った。小さな顔に手を当てる。熱で赤い頬。細い首。骨の軽い肩。三十九歳の男の記憶だけが、この体の中で異物のように沈んでいた。
『条件を確認しろ』
前世で危機のたびに自分へ言い聞かせた言葉が、自然に浮かんだ。
一九九四年。半地下。金はない。肩書もない。父はテガン会長車の運転手。母は市場で働く。自分は小学生。財閥家の子息ではない。会長の孫でも、秘書室長の縁者でもない。
最初に襲ってきたのは、どうしようもない虚脱感だった。前世の記憶を持って戻ったところで、城の内側に生まれていなければ意味がない。ハン・ギソプの食卓に座れず、ハン・ドギョムの会議に同席できず、ハン・ユリムの部屋にも近づけない。
だが、次の瞬間には計算が変わっていた。
秘書室の十二番目の席にいたヒョヌは、役員の顔と序列を覚えていた。誰がどの会議室へ入り、誰が会長の前で息を潜めるのかを見てきた。だが秘書室が見ていたものは、結局、会長が見せようとしたものだけだった。
運転席は違う。
会長が隠したい場所へ向かうとき、車は必ず動く。後部座席の沈黙、深夜の別宅、予定表にない訪問先、降ろされた封筒、車内電話の短い指示。扉の内側を知らなくても、その扉まで誰を運んだかは残る。
『低い場所のほうが、漏れる』
ジェユンは鏡の中の子どもの目を見た。目だけは眠っていなかった。復讐を叫ぶには早すぎる。今この体で怒りを見せれば、ただの変な子どもで終わる。まず生きる。次に集める。最後に使う。
「顔、洗ったの? 薬飲んで寝てなさい」
ジョンヒが茶碗にぬるい湯を注ぎながら言った。ジェユンは水で顔を洗い、戻ってからたんすの上の上着を指さした。
「父さん、これ忘れた」
「本当だ。ああ、今日は冷えるのに」
「届けます」
「何言ってるの。熱がある子が」
「途中まででいいです。本館の前まで。父さん、怒られます」
敬語が混じったせいで、ジョンヒはまた妙な顔をした。だがソンロクが会長車を任された日の緊張を彼女も知っていた。少し迷った末、紙袋に上着と追加のおかずを入れ、ジェユンの首に古いマフラーを巻いた。
「本館の入口だけよ。変なところへ入ったらだめ。守衛さんに渡して帰ってきなさい」
「……はい」
ジェユンは紙袋を抱えて路地へ出た。冬の朝の空気が肺に刺さった。歩幅が小さい。バスの手すりは高く、車内の大人たちの肩越しに外を見るだけでも首が痛んだ。それでも、道は知っていた。前世で何百回も黒いセダンの後部から眺めた道だった。
テガン本館は、記憶より少し若かった。ガラスの壁面はまだ新しく、入口のロビーには成長神話を誇る垂れ幕がかかっている。だが地下へ降りる車両用スロープの匂いは同じだった。ガソリン、湿ったコンクリート、安い煙草、焦げたコーヒー。
守衛は紙袋を抱えた子どもを見て、たいして警戒しなかった。
「誰の子だ?」
「パク・ソンロク運転手の息子です。上着を」
「おお、会長車のパクさんか。待機室にいるかもしれん。あそこまで行って、すぐ出てこい」
子どもという外皮は、予想以上に便利だった。前世のヒョヌなら入館証を三度確認された場所を、ジェユンは小さな頭を下げただけで通された。
地下駐車場の端に、車両待機室があった。扉は完全には閉まっておらず、隙間から光と声が漏れていた。ジェユンは紙袋を抱え直し、足音を殺した。
「一号車、城北洞から本館へ戻り。午後は未定」
「三号車は建設のチェ社長を江南へ。秘書室長の指示待ちだ」
「会長邸の出入り名簿、昨日の分は別封筒だってよ。総務に回すなと言われた」
薄い扉一枚の向こうで、運転手たちの声が混じり合っていた。壁の無線機が時おり鳴り、誰かが返事をする。黒板には車両番号と運転手名、目的地がチョークで乱雑に書かれていた。公式日程表では絶対に見えない、テガンの血管そのものだった。
ジェユンは息を浅くした。
前世の秘書室では、役員会の資料を揃え、会長の言葉を記録し、外に出すべきでない資料を金庫へ戻した。そこは高い場所だった。だが高いほど、見えるものは整えられていた。
ここは低かった。椅子の脚は曲がり、灰皿には吸い殻が山になり、運転手たちは上の者の機嫌ひとつで夜中でも呼び出される。けれど秘密は、濾過されずに落ちてきた。行き先。時刻。誰を乗せたか。誰が記録を残すなと言ったか。
「おい、坊主」
背後から声をかけられ、ジェユンは肩を揺らした。振り返ると、中年の運転手が紙コップを持って立っていた。
「パクさんの息子か? 顔色悪いな」
「父さんの上着を……」
「中に置いていけ。パクさんは今、一号車を洗ってる。会長車だからな、埃ひとつで大騒ぎだ」
男は笑い、ジェユンの頭を軽く撫でた。大人たちは子どもに秘密を見られているとは思わない。耳があっても聞いていない、目があっても理解していないと決めつける。
ジェユンはそれに合わせて、ぼんやりした顔を作った。
「父さん、忙しいですか」
「そりゃ忙しいさ。今朝も城北洞だろ? あそこはな、上の人たちが好き勝手に集まる場所だ。お前は知らなくていい」
知らなくていい。
前世で何度も聞かされた言葉だった。ヒョヌはそのたびに頷き、扉を閉め、知らないふりをしてきた。その結果、検察調書の署名欄に自分の名前だけが残った。
『もう知らないふりでは生き残れない』
ジェユンは待機室の隅に置かれた古い新聞を広げるふりをして、黒板を一瞥した。ハン・ギソプ会長。城北洞。チャン・ムンシク室長。テガン建設。いくつかの名前が、前世の記憶と静かに重なっていく。
紙袋を机に置いたところで、外からソンロクが入ってきた。制服の袖に水滴がつき、額には汗が浮いていた。
「ジェユン? お前、ここで何をしてる」
声は低かったが、驚きと心配が先に出ていた。ジェユンはすぐに紙袋を差し出した。
「上着、忘れてました。母さんが」
ソンロクは一瞬だけ眉を寄せ、周囲の目を気にするように息子の肩を掴んだ。
「ここは子どもが来る場所じゃない。渡したら帰れ」
「はい」
素直に頷くと、ソンロクの手の力が少し緩んだ。前世の上司たちもそうだった。従う者への警戒は薄れる。ジェユンは父に逆らわず、廊下へ出た。
だが階段へ向かう途中、無線機が強く鳴った。
「全車両、確認。会長非公式移動。二十三時四十分、本館地下二番から出発。記録欄は空白処理」
待機室の空気が一瞬止まった。誰かが低く舌打ちし、別の誰かが黒板の端を布で拭いた。
無線の声は続いた。
「目的地、城北洞別宅。随行はチャン・ムンシク室長。パク・ソンロク運転手、一号車待機。繰り返す、記録には残すな」
ジェユンは階段の途中で足を止めた。
城北洞は朝の呼び出しだけでは終わっていなかった。深夜、公式記録から消される会長の移動。チャン・ムンシク。そして父の名前。
小さな掌の中で、紙袋の紐がぎしりと鳴った。
前世で最後まで開けられなかった扉が、今度は父の運転席を使って開こうとしていた。
財閥家の末息子ではなく、財閥家の運転手の息子に転生した
3話 城北洞の夜と会長車の命令
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